虫は多足で、ムカデのようにうねりながら動いている。ムカデと違うのは円形であるというもの、さらに尾ひれがついており、二本の触覚が頭部から婉曲して表に出ていた。フラスコの内面は粘液で濡れており、ひどく生々しい。瓶はところどころ黄ばんでいるが、おそらく尿だろう。
汐里はフラスコに近付き、憑虫を間近で観察していた。妖怪ごとに特徴があるわけではないが、どうするべきか決めあぐねているようだった。対照的に、月乃はこのフラスコをどうすべきか既に決定付けている。
「黎人、何考えてるんだ。こいつはペットにしちゃいけないランキング一位に輝くような代物だぞ」
息巻くような口調を前に、黎人は冷静に椅子に座って思い詰めたような表情をした。
「分かってる。だけど、これは唯一の財産なんだ」
鶴敏の寿命はもう短い。今年のクリスマスを迎えられるかは分からないほどだ。しかし、鶴敏は遺族に金銭は残さなかった。巨額の富がどこに流れたのかは黎人には想像もできないが、形見として授かったのが憑虫だった。これがどういう存在かは執事から案内を受けているが、鶴敏がどうして遺したのかまでは教えられなかった。執事ですら知らない事情なのかもしれない。
観察を終えた汐里は、静かにこう告げた。
「これにとりつかれてしまえば、たちまち堕人として犯罪者の仲間入りになる。黎人、まだあなたは学生だ。これを私たちに譲りなさい」
ただでさえ額に皺を集めていた黎人は、腕を組んで椅子にもたれかかりながら応えた。
「僕の部屋に二人を呼んだのは、この虫を退治してほしいからじゃない。守ってほしいから呼んだ」
「あたし達がこいつを守るだって。バカを言うんじゃない」
フラスコの中身は人災。武身である二人は存在そのものを抹消しなければならない使命。本来ならば見つけ次第死に直結させなければならないのだ。こうして話している時間自体が無駄だと、月乃は苛立ちを覚え始めた。
「月乃さん、汐里さん。頼むよ。僕と父さんを繋げる最初で最後の贈り物だったんだ」
「あなたとお父上の関係を私たちは知り得ません。たとえ聞いたとしても、私たちは殺さなくてはならない」
警察官が目の前にいる指名手配犯をあえて逃すようなもの。罪に問われるから、姉妹にとっても見逃すわけにはいかなかった。
何事かを言い淀んだ黎人は、結局何も言葉が出てこずに立ち上がった。
「見せたほうが早い」
月乃を横切って、汐里の隣に立った黎人はフラスコを持ち上げた。手の甲で二回軽くノックした黎人は、フラスコの蓋に手をかけた。
「おい、黎人!」
蓋の出入口は憑虫が出入りするのに十分な大きさだ。蓋をあければたちまち、その場にいる誰かに憑くだろう。武器を車に置いてきた二人はフラスコから距離をとって身構えた。
瓶の蓋が開く。すると想像通り、憑虫はフラスコの外に出てしまった。更に想像通りならば、その後は一番近い黎人のヘソから食い破って中に入り、憑依するだろう。何の妖怪かは分からないが、どんな下っ端妖怪の憑虫でも堕人は侮れない。警察ですら太刀打ちできないからだ。
しかし、その想像は裏切られてしまう。憑虫は外に出た後、脚を忙しなく動かしながら黎人の手のひらに乗って鈍足に腕から肩へと歩き始めたのだ。
「これで分かっただろう。こいつは危険じゃないんだ。人にとり憑こうとしない」
さんざん退治してきた姉妹二人にとってにわかには信じがたいが、現に無害だと証明されている。どういう原理なのか、それは考えも及ばない。
「父さんからの話によると、この虫は弧竜会の一代目が発見して飼育し始めたみたいなんだ。それからというもの、成功につぐ成功を重ねていった。それ以降こいつは守り神としてずっと一緒に暮らしてきたらしいんだ」
信じがたい話がまたぞろ黎人の口から語られる。憑虫は人間をただの宿主としか認識していない。敵も味方もない。
だから人間に飼われたからといって幸運をもたらすような存在でもない。だが姉妹は揃って、同じイメージが脳内にあった。この憑虫の主だ。その家に現れれば富をもたらし、奇跡のような僥倖に恵まれる妖怪がいる。
妖怪に詳しくない現代人でも名前は知っているだろう、座敷童だ。
座敷童は稀有な妖怪で、人は襲わない。そもそも存在自体が不確定極まりないものであり、武身同士の間でもただの伝説だと囁かれていたのだ。
「姉貴、これは良い妖怪かな」
強張った身体を弛緩させた月乃は、同様に構えをといた汐里に尋ねた。
「断言はできません。ただ一つ言えるのは、これは飼い猫狩りを忘れる現象でしょう」
「なんだ、そりゃ。姉貴はよくそんなことわざを知ってるな」
「秒で考えました」
猫は本来狩人の性質をしている。ライオンやトラのように獲物を自分で狩り、食物連鎖の担い手になっているのだ。野良猫が良い例で、彼らはネズミや虫といった素早い生き物でさえ簡単に食らってしまうもの。ただ、人に飼われるとなればその性質は真逆となる。
自分で狩る必要のなくなった猫は自分が狩人であると忘れ、怠け者のようになる。全ての飼い猫がそうなるわけではないが、ほとんどの飼い猫は自動的に餌が出てくるから、狩り方を忘れてしまうのだ。
「つまり、この憑虫は憑依の仕方を忘れてしまったってわけか」
「長い間飼いならされていたからでしょう。とはいえ、生かす必要もないと思いますが」
まだ危険視しているのかと黎人は汐里を少しだけ睨んだ。
「こいつがいなくなったら、弧竜会は終わるんだ。それは困る、次期会長は僕なんだよ。守り神なしで、僕はトップに立てない」
黎人の言い分も最もだ。まだ高校生なのに反社のトップを任された彼にとって、父が召されてから最後に頼れるのは守り神。今は内部分裂していて、黎人一人でまとめるのはまず不可能だろうし、そもそも黎人の命が奪われる可能性だって多分にあるのだ。
もし本当にこの憑虫が座敷童のものだったら最悪の悲劇は防げるかもしれない。生かしておく理由になる。
汐里は、自分の使命に背く背徳的な感情をため息として吐き出してから、フラスコの中に憑虫を戻すよう黎人に言った。対して月乃はまだ不信感はぬぐえないような微妙な面持ちでいたが、文句は言わなかった。
「感謝する、二人とも。僕のわがままに付き合ってくれてありがとう」
そもそも月乃は虫が苦手だった。許せるのは蝶くらいで、それ以外の虫は全て嫌悪対象。蟻ですら靴に登ろうものなら発砲する勢いだ。虫はどう考えても宇宙人というのが月乃の持論だった。
憑虫の入ったフラスコを受け取った汐里は、それを胸元の服に閉まった。うげえ、と月乃が嫌そうに二歩ほど距離を取っている。
「この憑虫を保護する代わりに、一つ訊きたい。構わないね?」
「答えられる範囲ならなんでも」
「相田正司という男について知っていることを教えてほしい」
鶴敏は改革派のトップと言っていた。それ以外は何も言わなかったから、少しでも情報を獲得する必要があった。彼が話し始めると、汐里は端末の録音ボタンを押した。
愛用している車に戻り、汐里はフラスコを後部座席に寝かせて置いていた。今はもう夕方、学校では部活中の吹奏楽部が奏でる音楽が聞こえてくる。連の車はないから、署に戻ったのだろう。
暑い中を一時間もかけて歩いてきたから、冷房が効いてくると汗がようやく引いてくれた。月乃は服の襟を指でつまみ、汗臭い匂いにげんなりしていた。
黎人は相田正司についてこう語っていた。
一九八四年に発足した弧竜会は、二〇〇一年に金剛会というヤクザの組織と合併した。黎人の祖父が契約したのだ。弧竜会は警察からマークされているものの、必要悪として残されていた。それとは対照で金剛会は指名手配犯の所属も多く、警察は早期解体を目指していた。それらの組織が合併し、警察の組織力では手に負えなくなって、一つの国家として成立したのが当時の弧竜会だ。独自の金銭を使って取引し、中国マフィアやロシアンマフィアとの取引も活発だった。
弧竜会の様相も少しずつ変わってくる。弧竜会は本来弱者を救済するはずだった組織であったのに対し、合併してからは血生臭い事件も容易に起こすようになっていったのだ。弱者人間からの革命的行為とも呼べるものだ。このままではいずれ弧竜会の在り方が変わり、警察も本腰を入れて一斉検挙も考えられる。それは避ける必要があった。その基幹から発生したのが穏健派だ。
金剛会のトップは相田正司だった。彼らのやり方が弧竜会にそぐわないと鶴敏は声を挙げたが、もはやほとんどの人間は正司や弧竜会会長に支配されていた。それもそうだろう、正司が来てから組織の人間は全員裕福になったからだ。穏健派の活動内容が主なものになれば、また貧相な暮らしに戻ってしまう。
双方の割合は九と一。改革派の多くはこう思っている。現会長であり穏健派の鶴敏を殺し、息子である黎人も殺せば次の会長は正司しかいないのだから二人を暗殺すればいいと。
「それで、一番簡単な方法が堕人による殺害ってわけだ」
堕人が黎人を殺したとなれば、弧竜会は罪に問われずに済む。
今まで人質をとったり、要求をしてきたりした組織的堕人の行動についてはまだ分からないが。
「やっぱり小平竜司について聞かないと、この先は進みようがないんじゃないか。親父も教えてくれなかったし」
「知る必要がないのでしょう。私たちは次にすべき行動を明確にすべきですね」
黎人に会い、鶴敏に会った。それで弧竜会の内部事情と異例の憑虫は手に入ったが、次に何をすべきか月乃には検討もつかなかった。
「今日の昼、月乃が寝ている時に黎人を襲うであろう堕人と一戦交えました。肉吸です」
「捕まえたのか」
「いえ、取り逃がしました。会話はできるようなので、そいつから色々聞きだしましょう。捕まえて。そうすれば移転した本拠地も分かるでしょう」
黎人と鶴敏が隠れ家に逃げてから、弧竜会の本部は二つに分けられた。旧本拠地は穏健派の倉庫や取引場、中継地点、雑務として使われているから正司はもういない。鶴敏と黎人も知らないからして、利用価値はほぼないだろう。唯一綾芽は知っているかもしれないが、昼に会ってから一度も姿を現していなかった。
堕人に聞くしかない。また戻ってくるだろうから、しばらくは張り込み刑事のように待つしかないだろう。その待つというのが苦手な月乃にとっては拷問のような時間だ。月乃は車から出て、金嗣に着信をかけた。
彼は数コール後に出て「俺だ」と挨拶。
「なあ親父、無害な憑虫っているのかな」
そう切り出した月乃は、黎人の持っていた憑虫について説明した。
ひとしきり説明を聞いた後、金嗣はしばらく考える素振りを見せた。相槌がなくなり、月乃も沈黙を無くすように会話を取り繕いそうこうしているうちに金嗣は見解を述べた。
「さっき、座敷童かもしれないと言ったな」
「そうとしか考えられないからさ」
「その妖怪は、金霊だ。読んで字のごとく、金霊の所持者には富が与えられる。座敷童が与えるのは幸運や善といったものだが、この妖怪が与えるのは金銭だけだ。弧竜会は金によって成りあがってきたから間違いない」
座敷童がいたらそもそも派閥競争が起こりはしない。金嗣はそう推測した。
「金霊は人の欲望の大きさによって狂暴性が変わってくる。そして危険なのは、他の妖怪と違って最初は見返りを求めないんだ。だが、堕人の欲望が叶えられ頂点にまで達すると、憑虫は自ら宿主から離れて死亡する」
なら堕人から人間に戻ったら金は無くなっていくだけなのかと月乃が問うと、金嗣は違うと言った。
「確かに金も無くなる一方だが、欲望が無くなる。食欲、睡眠欲、性欲。物欲に、自己顕示欲。金霊の見返りはそれらの欲求全てだ。だから人間に戻った彼らは、全員餓死する」
金霊にとって堕人を増やして他の妖怪との競争に勝つのは目的ではないという。人の欲望を食い、飢えを凌ぐのが生きがいなのだ。
「だけどさ。この虫は誰にもとり憑いてない状態のまま弧竜会は金を得られたんだけど、これって」
「あり得る話だ。長生きした憑虫は、それ自体が効力を持つ事例もある。滅多にはないがな」
苦手な虫を守る理由ができてしまった。効力を持つ憑虫は人に寄生する必要がないうえ、富を与えるとするならば無害なのだ。今日まで鶴敏や黎人が生きてこられたのが効力のおかげなのだとしたら、殺せば二人はたちまち死んでしまうかもしれない。
綾芽もきっと知っているだろう、壊したら怒るだろうと脳内で彼女を思い出す。まったく、月乃にとっては困っていた。無意識のうちに綾芽を思い出してしまうのだから。
話を変えたほうがいいだろう、月乃は夏虫のハーモニーを聴きながら、次の話題に移った。
「そういや、小平竜司って結局どんな奴なんだ」
そう訊ねた途端、金嗣は声音を低くして単調に言った。
「知るな。彼についての質問は一切受け付けないし、詮索も絶対にするな」
温厚な金嗣にしては、珍しく棘のある言い方だった。月乃は面食らって、舌の上で転がしていた「どうして」という思わず言葉を飲み込んでしまった。
分かった、とだけ言う。訝しむ月乃は、少しだけ他愛ない話をしてから電話を切った。
絶対に知ってはいけない存在。月乃はしばらく呆然としていたが、頭をスッキリさせるためにコンビニまで歩き始めた。
知るな、という響きだけがひとりでにこだましている。汐里にはコーヒー牛乳を買ってこようと強引に頭から小平竜司という存在を追い出そうとするも、抑えきれない好奇心や不安感に苛まれるばかりだった。
初めてだった、金嗣が厳しく言ってきたのは。