突出した壁面の岩の上に、一人佇む謎の男。左目は耳から前下がりに切りそろえられた前髪によって隠れて見えないけれど、狐のような細い右目が私たちをしっかりと見下ろしている。
濡羽色。そう表現するのが似合う、烏の羽のような光沢を持つ漆黒の髪は、松明に照らされてその艶が一層引き立てられていた。顎髭はあるけれど、見た目20歳前後の若い青年だ。
「誰だ、テメェは」
静かに問う日向君に対し男はニッコリと笑顔を浮かべると、すっぽりと体を覆う黒いマントの中から、右手を出して掌をゆっくりと見せた。
炎の灯に浮かび上がる、五角形の中に〝宮〟の文字。――五音衆を示すマークだ。
日向君は大きく息を吸い、背中のケースに手を伸ばした。当然、中には彼の
チェロが入っている。でも私は咄嗟に彼の服の裾を引いた。
ダメ。ここでそれを使ったら、今までの苦労が無駄になってしまう。そう目で訴えると、彼は奥歯を噛み締めて手を下ろした。
「ふむ……、報告は本当のようだね。どうして剣を使わないのかな? このままじゃ君たち、針の筵だよ」
五音衆、名前は恐らく
宮という男の言葉に、私たちを包囲する手下たちがヤジを飛ばす。一触即発の状況に、私は深く深呼吸をした。そしてこっそり、さっきまで右手にあった温もりを求めて、日向君の左手へそれを重ねる。
驚いた彼はこっちを見たけれど、私は視線を送り返さなかった。だって顔を見たら、口から心臓が飛び出そうなんだもん。今は、この安心感だけで十分。
強がるフリをして宮を見上げ、震える唇を開いた。
「わっ……私たちは、戦いに来たんじゃない! だからここまで誰も殺してないの」
「へぇ~。じゃあ何をしに?」
意外、と顎をしゃくり上げて挑発する宮。
キュッと握った右手に、更なる強さが加わった。私の意を汲み、まるで〝大丈夫〟と応えるように。重なり合う面から、そっと背中を押すような勇気が伝わる。
「私たちは交渉しに来た。戦わない選択をするため……貴方たちの首領である、アンリって人に!」
私の主張を聞き、宮は不愉快に顔を歪めた。周りの手下たちや闇犬も、不服そうに唸り声を上げる。
それでも私は真っ直ぐと彼を見上げた。こちらは本気であると示すために。
この交渉を持ち掛けようと言ったのは武蔵さんだ。
私たちの〝奪われた音を取り返す〟という目的を聞き、彼は『音を回収する班』と『敵の目を集めて時間稼ぎをする班』の二手に分かれることを提案した。〝戦うために乗り込んだ〟のではなく、〝アンリと交渉するために来た〟と思わせるのだ、と。
<君たちがアンリ、もしくは五音衆の誰かと会うまで
変化は使わず、メストを誰一人殺さずに行けば少しは興味を持ってもらえるでしょう。最も、敵の首領と交渉する大役を担えるのは……和泉ちゃん。総長である貴女しかいませんから、彼女が承知すればの話ですが>
武蔵さんのプレッシャーのような言葉が伸し掛かる。でも彼は「時間稼ぎのためですから、無理に成立させなくてもいいですよ」と言った。確かに、それならあまり深刻に考える必要はなさそうだ。そもそもメストが私たちの交渉に応じる可能性なんてゼロに近い。
心配そうに見守る三人を前に、私は武蔵さんに〝承知〟の返事をした。
――ただし、総長として「仮初の交渉ではなく、本気の交渉をする」と言って。
「私たちは、黒使の復活を阻止するために生まれ変わった。だから彼との戦いは避けられない。でも、貴方たちは黒使のために利用されているだけなのでしょう? だとしたら貴方たちは本来私たちの敵じゃない……、戦う必要なんてないと思うの」
「何を言い出すかと思えば、バカバカしい。そんな話に我らが聞き耳を持つとでも? 暗里様に会わせる必要もないね」
宮は大きく溜息を吐いて首を横に振った。思ったとおり、やはり交渉に乗る様子はない。
それでも私は食い下がる。向き合う敵の数を減らすことができるなら、それだけ皆が命を懸ける場面を減らせるのだ。
だって私は、大切な仲間を誰一人傷つけさせたくないから。それを皆に伝えたら、彼らは眉を下げて笑い「和泉らしい」と承諾してくれた。でも優先事項は音の奪取だから、敵が応じない場合は即撤退が条件だ。
「貴方は本当に戦いたいの? この戦いには何の意味もない、傷つけあって悲しみが増えるだけだよ」
「いい加減にしろ、総長和泉。意味なんてどうでもいい、我らは戦うためだけに生まれた存在なんだ。そんなに戦いたくないのなら、命を差し出して降伏すればいいさ。お望み通り一瞬で終わらせてやるよ」
宮の言葉に周囲の手下たちが戦闘態勢を取った。あと彼が一声かければ、一斉に飛び掛かってくるだろう。流石の日向君にも焦りの色が浮かび、私を再び彼の背後へと導く。
本当にここまでなの……?
彼らと『戦わない選択肢』を獲得できるか。全ては私の手にかかっているのに。
「私は仲間と一緒に笑って生きたい! だから死ぬわけにはいかないの。貴方にもアンリや他の大切な仲間がいるでしょう? 戦いを止めて、共に生きる道はないの……!?」
「黙れッ、そんなものは愚かな人間のヌルい戯言だ! 我らが他に生きる道などない!!」
そう啖呵を切って細い右目を見開いた宮は、マントの下から刀を引き抜き、私たちに飛び掛かった。一度瞬く間に、日向君がスコップの柄で斬撃を防御した鈍い音に息を飲む私。その速さに驚く暇もなく、宮の姿が再び消えた。
風を裂く音が鼓膜を打つ。
と同時に、背後から貫いた殺意。
「和泉……ッ!」
日向君の悲鳴が聞こえるも、体が全く動かない。
松明の明かりで赤く燃える刃の切っ先が傾いた、瞬間。
「私の命令を忘れたか!? 宮!」
洞穴を裂くような怒号に、宮の動きがピタリと停止した。顔面スレスレの刃に背筋が凍る。
その隙に私の腕を引き位置を入れ替えた日向君が、宮にスコップで反撃を繰り出した。神速で元の岩の上へ立ち戻った宮には、掠りもしなかったけれど。
「まんまと奴らに
唆されおって、恥を知れッ!」
「申し訳ございません、暗里様……」
「――アンリ」
跪き頭を垂れる宮の前に現れた人影。フードを深く被り、容姿は確認できない。
それでもメストを率いる
暗里……、私たちはついにその姿を目にしたのだ。