「あの……ところで、今日は《《何のCMの撮影》》なんでしょうか……」
「はああっ?」
当然知っていると思っていたのに、夏川からそんな質問を受け、大久保は《《鳩が豆鉄砲を喰らったような顔》》で二人を見た。
「君達、事務所から何も聞いてないの?」
「は…はい。すみません……」
「あのね……」
マネージャーが付いていながら、こんなミスはあり得ない。さすがに一言云ってやろうと二人の方に向き直る大久保に、神谷が声をかけた。
「まあ、大久保さん。気持ちはわかるが、今回の撮影に限って言えば、それは大きな問題ではない。むしろラッキーだったと思うべきか」
「ラッキー? 神谷さん、それはどういう事でしょうか?」
首を傾げる大久保に、神谷が耳打ちをする。その内容を理解したのか、大久保は神谷の囁きに合わせ、うんうんと何度か頷いていた。
* * *
「夏川さん、実は今日撮影するCMは、ファストファッションメーカーの《《オニクロ、秋冬ファッション》》のCMなんだ」
「秋冬ファッションですか……」
ファッションの世界では、リアルタイムのシーズンよりもワンクール先を進んでいる事は珍しい事ではない。今は真夏であるが、最新のファッション業界では既に秋冬ファッションが手掛けられているのはモデルでもある美里も常識として熟知している。しかし、この気温が猛暑日を超える今日に秋冬モデルの洋服を着て撮影をしなければならないと思うと、美里は目の前の床に向かって盛大に溜息をついた。
「じゃあ、時間も押してきたし、どんどんいこうか」
美里の前に整然と並べられた、オニクロの秋冬用のウエア。知らない人が見たら、《《我慢大会のイベントでもやっている》》のかと思うくらいだ。見ているだけで汗が吹き出しそうな程暑く感じるが、美里には暑く感じるだけでなく実際に部屋が暑いような気がして仕方なかった。
「あの…すみません。ちょっといいですか?」
「なんだ、夏川。何か問題か?」
「あの、出来ればもう少し冷房を強くしていただけると有難いんですが」
その美里に、神谷から残念なお知らせが伝えられた。
「ああ、悪い。云ってなかったが、《《エアコン壊れていて使えない》》んだよ」
「はあああああああああ―――――――――っ!?」
我慢大会みたい…ではなく、これでは本当に我慢大会である。ここへ来る前に観ていたテレビの情報番組では、電気代の高騰を気にしてエアコンの使用を控える家庭に対し、熱中症対策の為《《エアコンは躊躇する事なく使用して欲しい》》と、生活アドバイザーも云っていた。
「エアコン無しで撮影するんですか?」
「壊れているものは仕方ないだろ。俺達が子供の頃は、エアコン無い家なんて、そんなに珍しいもんじゃなかったぞ」
出たよ。何かっていうと昭和生まれのオヤジは俺達の頃、俺達の頃って! 昔と今じゃ地球温暖化のせいで、夏の気温も全然違うんだっちゅうのっ! と、よっぽど神谷に云ってやりたかったが、もちろんそんな事は口が裂けても云えない。美里は、周りに聴こえないほどの小さな声でなにかぶつぶつと呟きながら、目の前に並んだ秋冬ファッションのウエアからいくつかを選んで、力ない足取りでフィッティングルームの方へと歩いて行った。
* * *
軽快なBGMに合わせて美里がニッコリと微笑んでポーズをとる。その様子をカメラに収め、途中で休憩を挟む。すかさずマネージャーの森下がタオルと水筒を持って、美里のもとに駆け寄った。
「美里さん、お疲れ様です! コーヒー飲みますか?」
「それ、ホットでしょ? 今は要らないかな……」
タオルで顔を拭いながら、こうなったら《《ぶっ倒れてでも必ず撮影をやり遂げてみせる。》》と、美里は半分意地になって撮影を続けていた。
10分の休憩を挟んで、残りの撮影が再開された。美里は今まで熱中症にはなった事が無いが、今日生まれて初めて熱中症を経験する事になるかもしれない……そんな事をぼんやりと考えているうちに、撮影は終了した。
「よ――――し、お疲れ! これで撮影は終了だ。 夏川。暑い中ご苦労様、汗がベタベタで気持ち悪いだろ。シャワールームがあるから、汗を流して来てくれ」
神谷の言う通り、美里の体は汗でびっしょりだった。ここでシャワーを使わせてもらえるのなら、是非使わせてもらいたかった。
「ありがとうございます。 それではお言葉に甘えて、シャワー使わせてもらいます」
そう云って美里がスタジオを後にすると、それを合図に神谷が動いた。
「よ―――し、このあと夏川がシャワーを終えてこのスタジオに戻ってくる。いいか、本番はこれからだ。《《撮り直しは効かない》》からな! 一発で仕留めてくれよ!」
そう云って、カメラをスタンバイして美里が戻るのを待つ。そして、待つこと二十分……さっぱりとした表情の美里がスタジオに戻ってくると、ソファーに深々と腰かけた。
「ふううぅぅぅぅ――――」
「夏川、今日は暑い中、本当にご苦労様。 これは、俺からのささやかなプレゼントだ」
「えっ?」
神谷の右手に握られていたのは、《《キンキンによく冷やされた缶ビールの35缶》》であった。考えてみれば、今の今まで美里が口にした物と言えば、森下が持って来た水筒のホットコーヒーだけであった。美里は、まるで砂漠でオアシスを発見した旅人のような顔をして、震える手で神谷からその缶ビールを受け取った。
「これ、わたしが飲んでいいんですか?」
「もちろんだ。グイッとやってくれ」
神谷がにこやかに、右手の親指を立てて答える。
神谷に促され、美里はその缶ビールのプルタブを開け、グビグビと喉をならし、鼻の下に白い髭のようなビールの泡を付けながら、なんとも気持ちよさそうにそれを流し込んだ。
「ぷはああああああ――――――――っ!
うんめええええええええ――――――――――――――っっ!!
こりゃあ、 天国だわっ!!」
* * *
「このコ、本当に旨そうにビール飲むなあ」
リビングで、新発売されたビールのCMをテレビで観ながら、田中夫婦はキャストの夏川美里のビールを飲む演技に感心していた。
「本当に。このCM観ていると、こっちまでビールが飲みたくなっちゃうから不思議ね」
この夫婦のような感想を持つ者は少なくなく、このCMによってこの夏の缶ビールのシェアは美里がCMをしているこのビールが圧倒的な売り上げを示すようになっていた。そして、この事がきっかけとなり夏川美里の人気はうなぎ上りに高まっていった。一時は棒読み女優と蔑まれていたが、もはやそんな事もなくなり、美里は再び女優としての道を歩んでいけるようになった。
同じように、自宅のリビングであのCMを観ていた神谷は呟いた。
「結局、彼女に足りなかったのは自信だ。NGを出してはいけない。台本に忠実でなければいけないと意識するあまり、極度の緊張状態に陥っていた。それを意識しないでもっと自由に演技が出来ていたら、もともと素質のある彼女ならば一人前の女優になるのは、そんなに難しい話ではないさ」
(了)