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ep8. 小学生×運動会×晴れ

ー/ー



 近所の公園で友達と遊んだ帰り道、同級生である陽斗(はると)の家の前を通りかかったひまりは、軒先を見上げて仰天した。
 端から端まで吊り下げられた、大量の白い物体。朝に通った時はあんなのあったっけ? とひまりが思っていると、丁度窓から顔を出した少年と目が合い、お互いに「あ。」と呟く。

「ねぇ、陽斗君! それなぁに?」
「見れば分かるだろ、てるてる坊主だよ! て・る・て・る・ぼ・ぉ・ずっ」

 得意げに叫んだ少年陽斗は、マジックで不細工な笑顔が描かれた〝てるてる坊主〟をまた1つ吊り下げた。丸めたティッシュを更にティッシュで包み輪ゴムで括った、即席王道スタイルである。

「すごーい! なんこ作ったの?」
「ひゃっこ! 母ちゃんが〝運動会は雨だね〟ってゆーから作った! ()()も作れ、じゃないと勝負できなくなるぞ!!」

 それを聞いたひまりは、まるでムンクの『叫び』のようなリアクションを取ると、「分かった!」と返事をして大急ぎでその場を後にした。
 お気に入りのツインテールをピョコピョコと跳ねさせながら、羽が生えたように軽やかな走りで駆けていくひまりの背中を、陽斗はじっと眺めて見送った。

 家に着くなりキッチンへ向かったひまりは、夕飯の準備をしていた母にてるてる坊主作りを懇願した。もちろん、陽斗が100個という製造工場並の驚異的な量産をしていたことも伝えた。
 すると母は笑いながら「それならひまは、とびきり大きなてるてる坊主を作ったらどう?」と提案した。そして押し入れの中から、美しい青色のビニール地を取り出したのだ。それはソーイングを得意とする母が娘に雨ガッパを作ろうとして購入し、余ったものだという。

 広げると60センチ角ほどあるビニールは、向こう側が少し透けて光をよく通し、キラキラと輝く。
 顔部分の詰めものは、透き通った青色を綺麗に活かせるよう、オーロラの包装紙が用渡された。

「ママありがとう! これならきっと、お日様も気に入って晴れにしてくれるね!」

 ひまりは母に抱きついてお礼を言うと、早速てるてる坊主作りを開始した。

 さて。小学生なら運動会という一大イベントのために、雨という残酷な予報を晴れにしたいと願うのはよくある話である。この小さな少女――篠宮(しのみや)ひまりにとっても例外ではないが、彼女と同級生・佐倉(さくら)陽斗の間では、運動会に関したある〝大勝負〟が取り交わされているのだ。

 ――10日前。

「おい、ひま! もうすぐ運動会だな」
「あ、陽斗君。うん、楽しみだね~」

 下校途中、仁王立ちで目の前へ登場した陽斗に、ひまりは驚きながらもにこやかに返した。この笑顔に心臓を撃ち抜かれながらも、陽斗は負けじと彼女に詰め寄る。

「1年生ん時は徒競走(かけっこ)でお前に負けたな。けど、今度は俺が絶対に勝つ!」
「あれ、そうだっけ?」
「そーだよ! で、その……おっ、おお俺が勝ったら、お前の王子様になってやる!」

 〝なってやる〟とは何とも上から目線だが、顔を真っ赤にした小2男児へ言語力を求めても仕方あるまい。陽斗の心境など当然知る由もないひまりは、突然の王子様宣言に目を丸くした。
 確かにひまりは日頃から、女の子らしく『ハクバの王子様』に出会うことを夢見ていており、他の女の子(友達)とそう話しているのを陽斗は聞いたことがあった。

「何で陽斗君がひまの王子様になるの?」
「い、いーんだよ! とにかく決めたからな!」

 陽斗は必死にひまりを言いくるめた。
 ハクバの意味はよく分からないが、どこぞの王子様に取られないよう、自分がならなければ……! と思った陽斗。そこで彼は運動会の〝かっけこ〟で勝負することを思いついた。それは彼にとって去年の屈辱を果たすことでもある。何を隠そう、陽斗がひまりを気にかけるようとなったのも、かっけこが要因だ。

 幼稚園時代、陽斗は他の誰よりも足が速かった。その自信を持って、小学校初めての運動会で挑んだ徒競走(かけっこ)だが、彼の横を風のように抜き去った一人の少女がいた。――もちろん、ひまりだ。
 閃光の如く現れたライバルに、陽斗の自信は脆くも崩れ去った。しかし彼の目には、ほとばしる汗がキラキラと輝くひまりの姿が映った。瞬間、陽斗の心には悔しさと別の〝小さな熱〟が芽生えたのである。

「ん~、よく分かんないけど……。じゃあ、ひまが勝ったらイチゴをいーっぱい食べたい」

 その要求に今度は陽斗が驚く番だった。自身の都合ばかり考えていた彼は、敗者となった場合に対価を払うことなど頭になかった。

「ひま、イチゴだーい好きなんだ! イチゴのおやつとかでもいいよ」
「お……おぉ、分かった。お前が勝ったらな」
「やった! ぜーったい負けないからね」

 喜ぶひまりに陽斗は〝無理〟とは言えなかった。自分では買えないイチゴを用意するには、母を論破しなければならない。そのことが一瞬頭を過ったが、勝てば必要ないのだからと陽斗は考えるのを止めた。

 そんな約束を交わしたというのに、肝心の運動会が雨では勝負どころか中止になってしまう。だから何としても晴れにしなくてはと必死なのだ。

 ――時は戻り。

 ひまりは丁寧に作り上げた青いビニールのてるてる坊主に、油性ペンでスマイル顔を書き込んで完成させた。仕上げに母の手で頭の天辺へ糸を通してもらうと、彼女はベランダへ駆け足で向かった。
 洗濯竿にクリップで巨大てるてる坊主を吊す。夕暮れの太陽を浴びた青いビニールは、中の包装紙の効果もあり少し紫がかってとても綺麗で、彼女は満足げに微笑んだ。

「お日様、お日様。どーか運動会を晴れにしてください!」

 天に祈りを込めて、ひまりが願った時だった。
 シャラン、と金属が擦れる音を聞き、彼女は顔を上げた。視界に入るのは茜色……のはずだったが、彼女の目にはてるてる坊主のビニールよりも深く澄んだ青色が広がっていた。

「……えっ?」
「……え?」

 まるで木霊のように、目の前に降り立ったその人は同じ言葉を口にした。

 ひまりは目を見開き、息を飲んだ。そこにいたのは、オーロラのような輝きを放つ金髪と、透き通った白い肌にビー玉のような瞳を持つ、美しい少年だった。肩からはてるてる坊主のような、透き通った濃い青のマントを羽織っており、片耳のイヤリングも宝石のような美しさで煌めいている。
 彼はどこか焦っている様子だが、夕暮れにも負けないその容姿はひまりの心を鷲掴んだ。というのも、少年はまさに彼女が思い描く――。

「ハクバの王子様!?」
「……は?」

 唐突にそう呼ばれて、少年は唖然とした表情を浮べた。彼には理解できずとも、目の前に突然アイドルのような超絶美形のお兄さんが現れれば、小2女児がトキメキの魔法に掛かってもおかしくない。……白馬の姿は影も形もないが。
 そう。ひまりの頭の中には、有名なヴェートーヴェンのあのメロディーと稲妻の衝撃が走ったのだ。少年が2階にあるベランダの外側に浮いていることなど、彼女の眼中にはない。

「お兄さん、ひまの王子様でしょ!?」
「……何で僕が君の王子様なの?」
「だって、とーってもカッコイイんだもん!」

 羨望の眼差しで見上げられ、少年は小さく溜め息を吐いた。しかし少年は自分をこう表現されるのが嫌ではない。彼はナルシスト気質であり、己の美しさを陶酔している。だから「王子様」と呼ばれることは寧ろ当然と思うくらいだ。
 それより彼が困惑するのは、ひまりに〝自分の姿が見えている〟ことだった。本来彼の姿は、ある契約を交わす対象と決めた人間にしか見えないのだが……。

「くっ。青色に目移りした僕の失態か」
「……?」

 ブツブツと呟く独り言はひまりには届かなかった。文句を言ったところで、見えているのだから既にひまりは〝契約を交わす対象〟になっていることに変わりはない。恐らく、青好きのメネルがひまりのてるてる坊主に惹かれて降りた途端、彼女が契約に関わる願いを口にしたため意図せず認識してしまったのだろう。
 そもそも彼はここへ来るまで、陽斗のてるてる坊主群集を目にし、気味が悪いとウンザリしていたのだ。だからこそ彼女の青色は余計に目を引いた。

 仕方ないと潔く諦めた少年は、風に靡くマントを翻し黄金の杖を右手に持つと、改めてひまりを高みから見下ろした。小さなお姫様の頬が、さぁっと赤らむ。

「僕はメネル、空を管理する番人さ」
「めねる……? そら、ばんにん?」

 毎度お馴染みの自己紹介を口にするも、言葉の意味が分からないのか首を傾げるひまりに、メネルと名乗る少年は肩を落とした。

「あぁもう。とにかく僕はメネル、王子様じゃないよ。……ま、王子様でもいいけどさ」
「ならっ、やっぱりひまの王子様だね!」
「いや、君のとかじゃなくて……」

 自由奔放なひまりに、たじろぐメネル。いつもは大人を相手にする彼が、契約相手に子供、それも小学生以下の歳の子を選ぶことは、まずない。故に扱いには慣れていないのだ。
 メネルが人間と結ぶ契約は、天気に関する願いを叶え、ある報酬を入手することである。成立すれば対象者から彼の記憶は消え、姿も見えなくなる仕組みだ。こうなったらさっさと契約を結び、報酬を貰ってオサラバしようと彼は考えた。

「君、天気を変えたいと思っているんだろう? その願い僕が叶えてあげるよ」
「本当!? やった! てるてる坊主さんが、ひまの願いを叶えるために王子様を呼んでくれたんだ!」

 いちいち面倒くさいとメネルは思ったが、あながち間違ってはいない。
 構わずに彼は続けた。

「君の願いは〝うんどうかい〟を晴れにすることだよね? それっていつなの?」
「うーんとねぇ、先生が次の金曜日って言ってたよ」

 それを聞いたメネルはギョッとした。次の金曜は丁度1週間後である。実は、彼は翌日までの天気しか変えることができないのだ。
 つまり彼女の願いを叶えるには、早くても木曜にしか契約できない。当然、それまでメネルの姿はひまりに見えっぱなしであり、記憶とて消すことはできない。

 メネルは頭を抱えたが、彼にはどうしようもなく。

「良かった~。てるてる坊主さん、ありがとう!」

 てるてる坊主が運んだ奇跡に感謝し、青いそれをギュッと抱き締めるひまり。そんな彼女を見つめながら、6日なんてすぐだと高を括っていたメネルは、この少女によってもたらされる苦悩の日々を知る由もないのである。


 ――3日後。遙か上空、番人の間で天気の精霊たちがヒソヒソと話をしている。近頃自分たちの主が、見たこともない(やつ)れ方をしていると彼らの間で話題になっていた。
 半神であるメネルは不老不死。文字どおり老いることはないはずなのに、まるで老人のように覇気がないのだ。

 それもそうだ。
 この3日、彼は意図せずひまりに付きっきりなのだから。

 まず、初日の朝から大騒動だった。「おっはよー、王子様!」という空一面に響き渡る声でベランダから呼び出されたメネルは、血相を変えて彼女の前に降り立った。
 契約するまで依頼主の声は、世界中どこにいようと彼の耳に届くのである。ひまりにとっては嬉しい都合だが、彼にとっては地獄だった。

「ちょっ君! 安易に呼ぶのはやめてよ。言ったよね、僕は君以外に見えないって」
「あそっか、分かった! じゃ王子様、ひまと一緒に学校行こ~?」
「……ホントに分かってる? あとその〝王子様〟も、やっぱやめてくれない? 僕にはメネルって名前があるし」
「え~、王子様ワガママ~。しょーがないなぁ、じゃあ〝メー君〟って呼ぶね。だから、ひまのことも〝ひま〟って呼んで?」

 この時点で、メネルのHPは半分ほど失われた。
 心の声を聞ける特殊能力も、思ったことを全て口にする彼女には無効だ。

 それからひまりは、授業中に皆がいる前で「メー君だ!」と空を指さしたり、下校時に友達へ見せびらかせようとしたり、陽斗に「王子様に出会った!」と報告して男子二人をオロオロさせたり……。
 自分の目に映っている以上、他人に見えないということが理解できないのか、事あるごとに彼女はメネルの存在を知らしめようとする。本来、彼の存在は人間に知られてはならないため、報酬欲しさにこっそり規則を破っている罰が当たったのだと、彼は思い知っただろう。

 ……それでも。

「メー君、イチゴチョコ食べる? 美味しいよ~」
「……僕は君――ひまの願いを叶えないと、食べれないんだよ」
「そーなんだ。じゃあ願いが叶ったら、一緒に食べよーね」

 残念そうにションボリしながらも、ひまりは美味しそうにチョコを頬張った。それを見て、メネルの中に抑えきれない欲望が沸く。
 〝ボクモ、タベタイ〟と。――だから彼は、人の天気の願いを叶え続ける。

 HPが枯渇する中、どうにかメネルは番人生活で一番長い5日間を耐え抜いた。

 6日目、契約を交わせる木曜日。メネルとしてはすぐにでも解放されたかったのだが、今日も朝からお呼び出しを食らった彼は、昨晩見たアニメの話を熱弁するひまりにタイミングを見出せずにいた。

 もはや呼べば出てくる〝どこでも王子様〟状態である。

「でね! そこでお馬さんに乗った王子様が、お姫様を助けに来るの! カッコイイんだよ~」
「へぇー……」

 返事はするが、もはや生気のないメネルには寝耳に水だ。

「メー君もお空から降ってきた時、カッコよかったんだよ! お馬さんはいなかったけど、キラキラ~って!」
「へぇー……」
「ひまがピンチの時は助けに来てね! メー君がピンチの時は、ひまも走って助けに行くから! ひま、すぅーっごく速いんだよっ」
「へぇー……」

 上の空な王子様に気づくことなく、ひまりは自慢の走りを見せるために数メートルほど駆け抜けた。そしてクルリと彼を振り返り、満面の笑みを浮べる。

「ねっ、メー君! 運動会、お日様にしてくれるの、ありがとう! ひまの走り見ててね!」

 無邪気に笑い、メネルを信じて疑わない少女。自分の走りを見たら、きっと驚くに違いないと胸を躍らせている。
 純真無垢な彼女を前に、メネルの中で何かが音を立てて崩れた。彼にはその光が眩しすぎて、限界だったのだ。

「……ひま」
「なぁに? メー君」

 屈託のない瞳で自分を見上げる彼女に、メネルはついにその一言を告げた。

「お日様の願い、叶えるかい?」
「うん!」

 返ってきた返事もまた元気が良くて、嬉しそうで。

 メネルは自分を忘れることも、報酬が『依頼主の一番好きな食べ物』であることも言わず、ひまりとの契約を取り交わした。……もちろん、彼女がもう二度と好きな食べ物を口にできないことも。
 言ったところで、理解するはずもないだろうと、思ったから――。


 金曜日。空は爽やかな晴れ模様である。
 運動会は無事に開催され、小学校の運動場からはピストルの音に始まり、子供たちの活気ある声が響き渡っていた。

 プログラムは中盤に差しかかり、低学年による徒競走の時間を迎えた。王子様権とイチゴ権を賭けた、小さな二人の大勝負が始まる。着々と順番が近づく中、陽斗はひまりに声をかけた。

「もーすぐだな、ひま。俺のてるてる坊主のお陰で晴れになったんだ、かけっこも俺が勝つからな」
「違うよー、ひまのてるてる坊主だよ。ひまだって、ぜーったい負けないから。王子様が見ててくれるんだもん」

 自慢のツインテールをピョコピョコとさせ、ひまりは軽快に飛び跳ねる。
 今日のひまりも絶好調のようだ。

「……ところでお前、その王子様って誰なんだよ」
「え? 誰って……うーんと……あれ、誰だったっけ?」

 思い出そうとしても、ひまりの頭には青いキラキラの残像しか浮かばなかった。
 釈然としない回答は陽斗をやきもきとさせた。この勝負に勝たなければ、彼女は確実にその〝王子様〟のものになってしまうだろう。幼いながらに、彼は心の炎を燃やした。

 二人の順番が来て、位置につく。

 スタンディングスタートでの体勢で待ち。
 ピストルの音で、一斉に走り出す。

 他をあっという間に引き離し、二人の先頭争いが始まった。陽斗は必死に食らいついているが、ひまりの方が数歩ほど先を走行している。たったの50メートルだというのに、とてつもない長距離を走っているかのような緊張感だ。

 そんな二人を、人知れず上空からこっそり見ている美少年がひとり。彼の存在はこの会場にいる誰もが知らない。
 空を飛べる彼にとって、走るという行為は無関心であった。ただ以前にひまりが〝すぅーっごく速い〟と言ったのが、どれほどまでなのか興味があったのだ。しかし見た限り大したこともなく、期待外れに彼は小さく溜息を吐いた。

 ひまりがゴールテープを目前に捉える。あと数歩、走ればたどり着く。気持ちが逸り、彼女の心拍が上がる。
 懸命に追いかける陽斗の頭に〝負け〟の文字が浮かんだ。

 ……と、その時。

「っうわぁ!」

 少女の叫び声に、二人の男性が息を飲んだ。

「……ひま!!」

 どちらのものとも分からない声が、彼女を呼ぶ。人間の耳に届くのは片方だけであるが。
 ゴール直前で豪快に転倒したひまりを、突然のことで一度は追い越してしまった陽斗だが、迷うことなく引き返した。その間、後走者はどんどん二人を追い抜かし、ゴールテープを切っていく。

「ひま、大丈夫か!?」
「……陽斗君、なんで? ひまなんて放っておけば、勝てたのに」

 困惑した表情で自分を見上げるひまり。すりむけた膝小僧が痛々しい。
 陽斗は手を差し出すと、イタズラな笑顔を浮かべてこう言った。

「当たり前だろ、俺はひまの王子様になるんだからな!」

 その後、二人で一緒にゴールする姿で、会場は拍手に沸いた。そんな彼らの様子を見ていた空の観客――メネルは「やっぱり飛んだ方が速いじゃないか」と思いながら、静かにその場を去っていく。

 自分ではない〝王子様〟の存在に、安心感と、ほんの少しの虚無感を抱えながら。

 あれから、ひまりは少しだけ陽斗を意識するようになったようだ。彼女は王子様と呼んだ誰かに「自分がピンチの時は助けに来て」と言った覚えがあった。事実、転んだ自分を陽斗は助けに来てくれたのだから、彼が王子様だったのだろうか……? と思い始めたのだ。
 二人の賭け事は、同時にゴールしたのだから引き分けであり、結論はまた来年に持ち越しとなっているのだが。

 ただ、ひまりが望む対価は変わることだろう。彼女はもう、それを望まないから。

「そだ、ひま! かけっこは引き分けだけど、お前の好きなイチゴ母ちゃんに買ってもらった! 食うよな?」

 陽斗は満面の笑みを浮かべて喜ぶひまりを想像しただろう。彼はもちろん、ひまりも知らない。青いてるてる坊主によってもたらされた奇跡を。

 天気を晴れに変えた代償を。

「なに言ってるの? ひま、イチゴ嫌いなんだけど。なんでそんな意地悪するの?」
「え。…………えぇえええ!?」

 絶叫を上げる陽斗のそばを、オーロラの風が走り去っていった。


***

 今日のおやつはイチゴのチョコレート。イチゴだったらなんでも食べられるんだけど、今日は果実よりもコレが食べたいと思ったんだ。
 イチゴとチョコって、何でこんなに合うんだろうね。これを発見した人、天才だよ。

「……いつまで笑ってるの、君たち」

 僕の顔を見てクスクスと笑う精霊たちを睨みつけ、一喝する。数日前まで(やつ)れていた僕を馬鹿にしているんだ。折角の美形が台無しとなったあの5日間は、もはや黒歴史の一部だ。
 あーあ、今度はもっと慎重に行動しないと。あんな面倒なこと二度とゴメンだね。

〝願いが叶ったら、一緒に食べよーね〟
〝ねっ、メー君!〟

 イチゴチョコの向こうに、無邪気に笑うあの子の姿が見える。彼女はもう大好きなイチゴを食べられないけど、これは報酬だから仕方がない。それに王子様だって見つけたみたいじゃないか、これで良かったんだ。……そう、これで良かった。

其方(そなた)が奪ったのだ! 見よ、其方がもたらした代償を――>

「――――ッ!?」

 何だ、今のは。
 一瞬脳裏を横切ったその声に覚えはない。

 知らない、僕は報酬を貰ってるだけだ。こんな恨み言、言われたこともない。
 それなのに。


 ――この罪悪感は、一体何だっていうんだよ。



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 近所の公園で友達と遊んだ帰り道、同級生である|陽斗《はると》の家の前を通りかかったひまりは、軒先を見上げて仰天した。
 端から端まで吊り下げられた、大量の白い物体。朝に通った時はあんなのあったっけ? とひまりが思っていると、丁度窓から顔を出した少年と目が合い、お互いに「あ。」と呟く。
「ねぇ、陽斗君! それなぁに?」
「見れば分かるだろ、てるてる坊主だよ! て・る・て・る・ぼ・ぉ・ずっ」
 得意げに叫んだ少年陽斗は、マジックで不細工な笑顔が描かれた〝てるてる坊主〟をまた1つ吊り下げた。丸めたティッシュを更にティッシュで包み輪ゴムで括った、即席王道スタイルである。
「すごーい! なんこ作ったの?」
「ひゃっこ! 母ちゃんが〝運動会は雨だね〟ってゆーから作った! |ひ《・》|ま《・》も作れ、じゃないと勝負できなくなるぞ!!」
 それを聞いたひまりは、まるでムンクの『叫び』のようなリアクションを取ると、「分かった!」と返事をして大急ぎでその場を後にした。
 お気に入りのツインテールをピョコピョコと跳ねさせながら、羽が生えたように軽やかな走りで駆けていくひまりの背中を、陽斗はじっと眺めて見送った。
 家に着くなりキッチンへ向かったひまりは、夕飯の準備をしていた母にてるてる坊主作りを懇願した。もちろん、陽斗が100個という製造工場並の驚異的な量産をしていたことも伝えた。
 すると母は笑いながら「それならひまは、とびきり大きなてるてる坊主を作ったらどう?」と提案した。そして押し入れの中から、美しい青色のビニール地を取り出したのだ。それはソーイングを得意とする母が娘に雨ガッパを作ろうとして購入し、余ったものだという。
 広げると60センチ角ほどあるビニールは、向こう側が少し透けて光をよく通し、キラキラと輝く。
 顔部分の詰めものは、透き通った青色を綺麗に活かせるよう、オーロラの包装紙が用渡された。
「ママありがとう! これならきっと、お日様も気に入って晴れにしてくれるね!」
 ひまりは母に抱きついてお礼を言うと、早速てるてる坊主作りを開始した。
 さて。小学生なら運動会という一大イベントのために、雨という残酷な予報を晴れにしたいと願うのはよくある話である。この小さな少女――|篠宮《しのみや》ひまりにとっても例外ではないが、彼女と同級生・|佐倉《さくら》陽斗の間では、運動会に関したある〝大勝負〟が取り交わされているのだ。
 ――10日前。
「おい、ひま! もうすぐ運動会だな」
「あ、陽斗君。うん、楽しみだね~」
 下校途中、仁王立ちで目の前へ登場した陽斗に、ひまりは驚きながらもにこやかに返した。この笑顔に心臓を撃ち抜かれながらも、陽斗は負けじと彼女に詰め寄る。
「1年生ん時は|徒競走《かけっこ》でお前に負けたな。けど、今度は俺が絶対に勝つ!」
「あれ、そうだっけ?」
「そーだよ! で、その……おっ、おお俺が勝ったら、お前の王子様になってやる!」
 〝なってやる〟とは何とも上から目線だが、顔を真っ赤にした小2男児へ言語力を求めても仕方あるまい。陽斗の心境など当然知る由もないひまりは、突然の王子様宣言に目を丸くした。
 確かにひまりは日頃から、女の子らしく『ハクバの王子様』に出会うことを夢見ていており、他の|女の子《友達》とそう話しているのを陽斗は聞いたことがあった。
「何で陽斗君がひまの王子様になるの?」
「い、いーんだよ! とにかく決めたからな!」
 陽斗は必死にひまりを言いくるめた。
 ハクバの意味はよく分からないが、どこぞの王子様に取られないよう、自分がならなければ……! と思った陽斗。そこで彼は運動会の〝かっけこ〟で勝負することを思いついた。それは彼にとって去年の屈辱を果たすことでもある。何を隠そう、陽斗がひまりを気にかけるようとなったのも、かっけこが要因だ。
 幼稚園時代、陽斗は他の誰よりも足が速かった。その自信を持って、小学校初めての運動会で挑んだ|徒競走《かけっこ》だが、彼の横を風のように抜き去った一人の少女がいた。――もちろん、ひまりだ。
 閃光の如く現れたライバルに、陽斗の自信は脆くも崩れ去った。しかし彼の目には、ほとばしる汗がキラキラと輝くひまりの姿が映った。瞬間、陽斗の心には悔しさと別の〝小さな熱〟が芽生えたのである。
「ん~、よく分かんないけど……。じゃあ、ひまが勝ったらイチゴをいーっぱい食べたい」
 その要求に今度は陽斗が驚く番だった。自身の都合ばかり考えていた彼は、敗者となった場合に対価を払うことなど頭になかった。
「ひま、イチゴだーい好きなんだ! イチゴのおやつとかでもいいよ」
「お……おぉ、分かった。お前が勝ったらな」
「やった! ぜーったい負けないからね」
 喜ぶひまりに陽斗は〝無理〟とは言えなかった。自分では買えないイチゴを用意するには、母を論破しなければならない。そのことが一瞬頭を過ったが、勝てば必要ないのだからと陽斗は考えるのを止めた。
 そんな約束を交わしたというのに、肝心の運動会が雨では勝負どころか中止になってしまう。だから何としても晴れにしなくてはと必死なのだ。
 ――時は戻り。
 ひまりは丁寧に作り上げた青いビニールのてるてる坊主に、油性ペンでスマイル顔を書き込んで完成させた。仕上げに母の手で頭の天辺へ糸を通してもらうと、彼女はベランダへ駆け足で向かった。
 洗濯竿にクリップで巨大てるてる坊主を吊す。夕暮れの太陽を浴びた青いビニールは、中の包装紙の効果もあり少し紫がかってとても綺麗で、彼女は満足げに微笑んだ。
「お日様、お日様。どーか運動会を晴れにしてください!」
 天に祈りを込めて、ひまりが願った時だった。
 シャラン、と金属が擦れる音を聞き、彼女は顔を上げた。視界に入るのは茜色……のはずだったが、彼女の目にはてるてる坊主のビニールよりも深く澄んだ青色が広がっていた。
「……えっ?」
「……え?」
 まるで木霊のように、目の前に降り立ったその人は同じ言葉を口にした。
 ひまりは目を見開き、息を飲んだ。そこにいたのは、オーロラのような輝きを放つ金髪と、透き通った白い肌にビー玉のような瞳を持つ、美しい少年だった。肩からはてるてる坊主のような、透き通った濃い青のマントを羽織っており、片耳のイヤリングも宝石のような美しさで煌めいている。
 彼はどこか焦っている様子だが、夕暮れにも負けないその容姿はひまりの心を鷲掴んだ。というのも、少年はまさに彼女が思い描く――。
「ハクバの王子様!?」
「……は?」
 唐突にそう呼ばれて、少年は唖然とした表情を浮べた。彼には理解できずとも、目の前に突然アイドルのような超絶美形のお兄さんが現れれば、小2女児がトキメキの魔法に掛かってもおかしくない。……白馬の姿は影も形もないが。
 そう。ひまりの頭の中には、有名なヴェートーヴェンのあのメロディーと稲妻の衝撃が走ったのだ。少年が2階にあるベランダの外側に浮いていることなど、彼女の眼中にはない。
「お兄さん、ひまの王子様でしょ!?」
「……何で僕が君の王子様なの?」
「だって、とーってもカッコイイんだもん!」
 羨望の眼差しで見上げられ、少年は小さく溜め息を吐いた。しかし少年は自分をこう表現されるのが嫌ではない。彼はナルシスト気質であり、己の美しさを陶酔している。だから「王子様」と呼ばれることは寧ろ当然と思うくらいだ。
 それより彼が困惑するのは、ひまりに〝自分の姿が見えている〟ことだった。本来彼の姿は、ある契約を交わす対象と決めた人間にしか見えないのだが……。
「くっ。青色に目移りした僕の失態か」
「……?」
 ブツブツと呟く独り言はひまりには届かなかった。文句を言ったところで、見えているのだから既にひまりは〝契約を交わす対象〟になっていることに変わりはない。恐らく、青好きのメネルがひまりのてるてる坊主に惹かれて降りた途端、彼女が契約に関わる願いを口にしたため意図せず認識してしまったのだろう。
 そもそも彼はここへ来るまで、陽斗のてるてる坊主群集を目にし、気味が悪いとウンザリしていたのだ。だからこそ彼女の青色は余計に目を引いた。
 仕方ないと潔く諦めた少年は、風に靡くマントを翻し黄金の杖を右手に持つと、改めてひまりを高みから見下ろした。小さなお姫様の頬が、さぁっと赤らむ。
「僕はメネル、空を管理する番人さ」
「めねる……? そら、ばんにん?」
 毎度お馴染みの自己紹介を口にするも、言葉の意味が分からないのか首を傾げるひまりに、メネルと名乗る少年は肩を落とした。
「あぁもう。とにかく僕はメネル、王子様じゃないよ。……ま、王子様でもいいけどさ」
「ならっ、やっぱりひまの王子様だね!」
「いや、君のとかじゃなくて……」
 自由奔放なひまりに、たじろぐメネル。いつもは大人を相手にする彼が、契約相手に子供、それも小学生以下の歳の子を選ぶことは、まずない。故に扱いには慣れていないのだ。
 メネルが人間と結ぶ契約は、天気に関する願いを叶え、ある報酬を入手することである。成立すれば対象者から彼の記憶は消え、姿も見えなくなる仕組みだ。こうなったらさっさと契約を結び、報酬を貰ってオサラバしようと彼は考えた。
「君、天気を変えたいと思っているんだろう? その願い僕が叶えてあげるよ」
「本当!? やった! てるてる坊主さんが、ひまの願いを叶えるために王子様を呼んでくれたんだ!」
 いちいち面倒くさいとメネルは思ったが、あながち間違ってはいない。
 構わずに彼は続けた。
「君の願いは〝うんどうかい〟を晴れにすることだよね? それっていつなの?」
「うーんとねぇ、先生が次の金曜日って言ってたよ」
 それを聞いたメネルはギョッとした。次の金曜は丁度1週間後である。実は、彼は翌日までの天気しか変えることができないのだ。
 つまり彼女の願いを叶えるには、早くても木曜にしか契約できない。当然、それまでメネルの姿はひまりに見えっぱなしであり、記憶とて消すことはできない。
 メネルは頭を抱えたが、彼にはどうしようもなく。
「良かった~。てるてる坊主さん、ありがとう!」
 てるてる坊主が運んだ奇跡に感謝し、青いそれをギュッと抱き締めるひまり。そんな彼女を見つめながら、6日なんてすぐだと高を括っていたメネルは、この少女によってもたらされる苦悩の日々を知る由もないのである。
 ――3日後。遙か上空、番人の間で天気の精霊たちがヒソヒソと話をしている。近頃自分たちの主が、見たこともない|窶《やつ》れ方をしていると彼らの間で話題になっていた。
 半神であるメネルは不老不死。文字どおり老いることはないはずなのに、まるで老人のように覇気がないのだ。
 それもそうだ。
 この3日、彼は意図せずひまりに付きっきりなのだから。
 まず、初日の朝から大騒動だった。「おっはよー、王子様!」という空一面に響き渡る声でベランダから呼び出されたメネルは、血相を変えて彼女の前に降り立った。
 契約するまで依頼主の声は、世界中どこにいようと彼の耳に届くのである。ひまりにとっては嬉しい都合だが、彼にとっては地獄だった。
「ちょっ君! 安易に呼ぶのはやめてよ。言ったよね、僕は君以外に見えないって」
「あそっか、分かった! じゃ王子様、ひまと一緒に学校行こ~?」
「……ホントに分かってる? あとその〝王子様〟も、やっぱやめてくれない? 僕にはメネルって名前があるし」
「え~、王子様ワガママ~。しょーがないなぁ、じゃあ〝メー君〟って呼ぶね。だから、ひまのことも〝ひま〟って呼んで?」
 この時点で、メネルのHPは半分ほど失われた。
 心の声を聞ける特殊能力も、思ったことを全て口にする彼女には無効だ。
 それからひまりは、授業中に皆がいる前で「メー君だ!」と空を指さしたり、下校時に友達へ見せびらかせようとしたり、陽斗に「王子様に出会った!」と報告して男子二人をオロオロさせたり……。
 自分の目に映っている以上、他人に見えないということが理解できないのか、事あるごとに彼女はメネルの存在を知らしめようとする。本来、彼の存在は人間に知られてはならないため、報酬欲しさにこっそり規則を破っている罰が当たったのだと、彼は思い知っただろう。
 ……それでも。
「メー君、イチゴチョコ食べる? 美味しいよ~」
「……僕は君――ひまの願いを叶えないと、食べれないんだよ」
「そーなんだ。じゃあ願いが叶ったら、一緒に食べよーね」
 残念そうにションボリしながらも、ひまりは美味しそうにチョコを頬張った。それを見て、メネルの中に抑えきれない欲望が沸く。
 〝ボクモ、タベタイ〟と。――だから彼は、人の天気の願いを叶え続ける。
 HPが枯渇する中、どうにかメネルは番人生活で一番長い5日間を耐え抜いた。
 6日目、契約を交わせる木曜日。メネルとしてはすぐにでも解放されたかったのだが、今日も朝からお呼び出しを食らった彼は、昨晩見たアニメの話を熱弁するひまりにタイミングを見出せずにいた。
 もはや呼べば出てくる〝どこでも王子様〟状態である。
「でね! そこでお馬さんに乗った王子様が、お姫様を助けに来るの! カッコイイんだよ~」
「へぇー……」
 返事はするが、もはや生気のないメネルには寝耳に水だ。
「メー君もお空から降ってきた時、カッコよかったんだよ! お馬さんはいなかったけど、キラキラ~って!」
「へぇー……」
「ひまがピンチの時は助けに来てね! メー君がピンチの時は、ひまも走って助けに行くから! ひま、すぅーっごく速いんだよっ」
「へぇー……」
 上の空な王子様に気づくことなく、ひまりは自慢の走りを見せるために数メートルほど駆け抜けた。そしてクルリと彼を振り返り、満面の笑みを浮べる。
「ねっ、メー君! 運動会、お日様にしてくれるの、ありがとう! ひまの走り見ててね!」
 無邪気に笑い、メネルを信じて疑わない少女。自分の走りを見たら、きっと驚くに違いないと胸を躍らせている。
 純真無垢な彼女を前に、メネルの中で何かが音を立てて崩れた。彼にはその光が眩しすぎて、限界だったのだ。
「……ひま」
「なぁに? メー君」
 屈託のない瞳で自分を見上げる彼女に、メネルはついにその一言を告げた。
「お日様の願い、叶えるかい?」
「うん!」
 返ってきた返事もまた元気が良くて、嬉しそうで。
 メネルは自分を忘れることも、報酬が『依頼主の一番好きな食べ物』であることも言わず、ひまりとの契約を取り交わした。……もちろん、彼女がもう二度と好きな食べ物を口にできないことも。
 言ったところで、理解するはずもないだろうと、思ったから――。
 金曜日。空は爽やかな晴れ模様である。
 運動会は無事に開催され、小学校の運動場からはピストルの音に始まり、子供たちの活気ある声が響き渡っていた。
 プログラムは中盤に差しかかり、低学年による徒競走の時間を迎えた。王子様権とイチゴ権を賭けた、小さな二人の大勝負が始まる。着々と順番が近づく中、陽斗はひまりに声をかけた。
「もーすぐだな、ひま。俺のてるてる坊主のお陰で晴れになったんだ、かけっこも俺が勝つからな」
「違うよー、ひまのてるてる坊主だよ。ひまだって、ぜーったい負けないから。王子様が見ててくれるんだもん」
 自慢のツインテールをピョコピョコとさせ、ひまりは軽快に飛び跳ねる。
 今日のひまりも絶好調のようだ。
「……ところでお前、その王子様って誰なんだよ」
「え? 誰って……うーんと……あれ、誰だったっけ?」
 思い出そうとしても、ひまりの頭には青いキラキラの残像しか浮かばなかった。
 釈然としない回答は陽斗をやきもきとさせた。この勝負に勝たなければ、彼女は確実にその〝王子様〟のものになってしまうだろう。幼いながらに、彼は心の炎を燃やした。
 二人の順番が来て、位置につく。
 スタンディングスタートでの体勢で待ち。
 ピストルの音で、一斉に走り出す。
 他をあっという間に引き離し、二人の先頭争いが始まった。陽斗は必死に食らいついているが、ひまりの方が数歩ほど先を走行している。たったの50メートルだというのに、とてつもない長距離を走っているかのような緊張感だ。
 そんな二人を、人知れず上空からこっそり見ている美少年がひとり。彼の存在はこの会場にいる誰もが知らない。
 空を飛べる彼にとって、走るという行為は無関心であった。ただ以前にひまりが〝すぅーっごく速い〟と言ったのが、どれほどまでなのか興味があったのだ。しかし見た限り大したこともなく、期待外れに彼は小さく溜息を吐いた。
 ひまりがゴールテープを目前に捉える。あと数歩、走ればたどり着く。気持ちが逸り、彼女の心拍が上がる。
 懸命に追いかける陽斗の頭に〝負け〟の文字が浮かんだ。
 ……と、その時。
「っうわぁ!」
 少女の叫び声に、二人の男性が息を飲んだ。
「……ひま!!」
 どちらのものとも分からない声が、彼女を呼ぶ。人間の耳に届くのは片方だけであるが。
 ゴール直前で豪快に転倒したひまりを、突然のことで一度は追い越してしまった陽斗だが、迷うことなく引き返した。その間、後走者はどんどん二人を追い抜かし、ゴールテープを切っていく。
「ひま、大丈夫か!?」
「……陽斗君、なんで? ひまなんて放っておけば、勝てたのに」
 困惑した表情で自分を見上げるひまり。すりむけた膝小僧が痛々しい。
 陽斗は手を差し出すと、イタズラな笑顔を浮かべてこう言った。
「当たり前だろ、俺はひまの王子様になるんだからな!」
 その後、二人で一緒にゴールする姿で、会場は拍手に沸いた。そんな彼らの様子を見ていた空の観客――メネルは「やっぱり飛んだ方が速いじゃないか」と思いながら、静かにその場を去っていく。
 自分ではない〝王子様〟の存在に、安心感と、ほんの少しの虚無感を抱えながら。
 あれから、ひまりは少しだけ陽斗を意識するようになったようだ。彼女は王子様と呼んだ誰かに「自分がピンチの時は助けに来て」と言った覚えがあった。事実、転んだ自分を陽斗は助けに来てくれたのだから、彼が王子様だったのだろうか……? と思い始めたのだ。
 二人の賭け事は、同時にゴールしたのだから引き分けであり、結論はまた来年に持ち越しとなっているのだが。
 ただ、ひまりが望む対価は変わることだろう。彼女はもう、それを望まないから。
「そだ、ひま! かけっこは引き分けだけど、お前の好きなイチゴ母ちゃんに買ってもらった! 食うよな?」
 陽斗は満面の笑みを浮かべて喜ぶひまりを想像しただろう。彼はもちろん、ひまりも知らない。青いてるてる坊主によってもたらされた奇跡を。
 天気を晴れに変えた代償を。
「なに言ってるの? ひま、イチゴ嫌いなんだけど。なんでそんな意地悪するの?」
「え。…………えぇえええ!?」
 絶叫を上げる陽斗のそばを、オーロラの風が走り去っていった。
***
 今日のおやつはイチゴのチョコレート。イチゴだったらなんでも食べられるんだけど、今日は果実よりもコレが食べたいと思ったんだ。
 イチゴとチョコって、何でこんなに合うんだろうね。これを発見した人、天才だよ。
「……いつまで笑ってるの、君たち」
 僕の顔を見てクスクスと笑う精霊たちを睨みつけ、一喝する。数日前まで|窶《やつ》れていた僕を馬鹿にしているんだ。折角の美形が台無しとなったあの5日間は、もはや黒歴史の一部だ。
 あーあ、今度はもっと慎重に行動しないと。あんな面倒なこと二度とゴメンだね。
〝願いが叶ったら、一緒に食べよーね〟
〝ねっ、メー君!〟
 イチゴチョコの向こうに、無邪気に笑うあの子の姿が見える。彼女はもう大好きなイチゴを食べられないけど、これは報酬だから仕方がない。それに王子様だって見つけたみたいじゃないか、これで良かったんだ。……そう、これで良かった。
<|其方《そなた》が奪ったのだ! 見よ、其方がもたらした代償を――>
「――――ッ!?」
 何だ、今のは。
 一瞬脳裏を横切ったその声に覚えはない。
 知らない、僕は報酬を貰ってるだけだ。こんな恨み言、言われたこともない。
 それなのに。
 ――この罪悪感は、一体何だっていうんだよ。