アコースティックギターの熱い旋律が、胸の奥底を揺さぶっている。
街のどこかでフラメンコを踊っているらしい。
情熱の国、スペイン。俺が訪れているのは、カスティーリャ・イ・レオン州にあるセゴビアだ。マドリードから87キロ離れた場所にあり、観光地としても人気が高い。中でも旧市街のシンボルとして有名なのが……。
「やっと着いたか、世界遺産アルカサル」
正式名称、|Alcázar de Segovia《アルカサル・デ・セゴビア》。2つの川が合流する渓谷にそびえ立つ城塞である。ゴシック様式とムデハル様式が融合した美しい城で、クリーム色の外壁に青い尖り屋根が何とも可愛らしい。世界遺産には『セゴビア旧市街と水道橋』の一部として登録されている。
絢爛豪華な城内を見て回る中で、俺の目を一番引いたもの。それはカスティーリャ国女王・イザベル1世の戴冠式の壁画だ。
1474年、彼女はこのアルカサルで王位を継承。そして隣国のアラゴン王太子と結婚したことで二国が統一し、スペイン王国の基盤が築かれた。
すなわちここは、スペイン王国誕生の歴史的な舞台といっても過言ではない。そして多忙の俺が観光客を装って足を運んだのには、彼らの存在が大きく関係している。
――ひと月ほど前。
仕事終わりに時折立ち寄るバーで、俺は酒を嗜んでいた。
琥珀色のバーボンが3杯目に突入した頃、隣の席を見知らぬ男が陣取る。サングラス越しに見る男は明らかにガラが悪そうで、俺の〝裏の顔〟を知った上で近づいたことは明白だ。
「耳寄りな情報がある」と勝手に話し始めた男は、アンティークコレクターのトビンと名乗った。
「……セゴビアのアルカサル?」
「あぁ。あの城塞のどこかに、カトリック両王の残した秘宝が眠ってるらしいぜ。アンタなら獲れるんじゃねぇかと思ってな」
|ら《・》|し《・》|い《・》ってことは、不確定かよ。
グラスの中で溶けた氷の音と、俺の小さな溜め息が、店内に流れる艶美な音楽を装飾する。
「おっと、カトリック両王ってのはな――」
「スペイン王国成立の礎を築いた、カスティーリャ女王イザベル1世と、アラゴン王フェルナンド2世へ授けられた称号、だろ?」
トビンの補足説明を遮って端的に述べると、奴は目を丸くして驚いていたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「流石だな。ならイザベルはコロンブスの|後援者《スポンサー》だったことも知ってるよな? っつーことは秘宝ってのは、あのコロンブスが女王に贈った何かって可能性もある。トレジャーハンターなら血が騒ぐだろ、シオ」
トビンはそう言って湿った腕で俺の肩を組み、テキーラを一気に飲み干した。
〝シオ〟は、裏の顔で使うコードネームである。仕事柄のストレスから解放されたい一心で始めたのが、王族の秘宝を狙うトレジャーハントだ。
ガキの頃に見ていた映画を真似て面白半分で始めてみたが、表の顔も役に立ってこれが上手いこと大ハマリ。界隈では少し名の知れた存在となっていた。いつだったか、映画撮影中に見つかったという地底遺跡にも潜入してみたいものだ。
そんな俺の正体は、アルフォス財閥の次期会長、フェルシオ・アルフォス。中東レバノン出身の我が財閥は、ホテル業界を中心にトップクラスの勢力を握っている。
次期会長として、肩にのし掛かるプレッシャーは莫大だ。それを王族の財宝を売り捌くことで発散しているだなんて、当然誰にも話していない。|会長《親父》が知ったら烈火の如くに怒り狂うことだろう。
さて。黙ったまま反応を示さない俺を不審に思い、トビンは返事を促してきた。更に無視して、空のグラスと勘定の金をカウンターに置き、席を立つ。すると奴はついに声を荒げた。
「おい、シオッ! やるのか、やらねぇのか!?」
「人の酒をマズくしておいて、失礼な奴だな。……1ヶ月後、またここへ来いよ。高値で売りつけてやる」
サングラス越しに睨みつけると奴は一瞬で怯んだが、俺の言葉の意味を理解した瞬間に不気味な笑い声を上げた。
再会の約束をしてしまったことに胸糞悪さを感じながらも、颯爽とバーを立ち去り……。
今に至るわけだ。
別に口車に乗せられたわけじゃない。ただ、ハンターとして王族には詳しい俺にとって、カトリック両王は少し特別な存在というだけだ。
俺自身も彼らと同じ、政略結婚をした身なのだから。
俺の妻イリスは、フランスで勢力を誇るカステリオ財閥の一人娘だ。俺と同じく、次期当主となることが決まっている。
カステリオ家はアミューズメント業界に力を入れており、アルフォス家と連携することでリゾート事業の拡大を図ったのだ。俺と彼女はその架け橋として縁談を勧められた。正しく、スペイン統一のために婚姻を結んだカトリック両王と、同じ運命を辿っているわけだ。
イリスはフランス人らしく上品でいい女だ。端正な顔立ちで気配りも利き、財閥令嬢としての品格が漂っている。だが結局は政略で結ばれた表面だけの関係。ビジネスパートナーとしては良い関係を築いているが、夫婦としての愛があるかは定かではない。
カトリック両王も政治的な関係では上手くいっていたと思うが、お互いに愛し合っていたという記録はない。
政治戦略に利用された愛など、所詮はニセモノにすぎないだろう。
「……そうだろ? イザベル」
壁画に描かれた女王へ無意識に呟く。
彼女の表情がどこか悲しげに見えるのは、気のせいだろうか。
――否、俺は悲観しに来たのではない。己を叱咤し、本来の目的を再確認する。
幸いスペインはフランスの隣であり、イリスは実家の本社へ出向中だ。彼女へ会いに行くためと言えば、出張許可はすんなり下りた。
|豚野郎《トビン》の話は信憑性がなく、当初は1ヶ月後に適当にあしらうつもりだった。しかし一応手を尽くして調べてみると、意外にも強ち嘘ではないということが分かった。
このアルカサルには、歴史上で一度だけ開いた秘密の部屋が存在するという、ある学者の短い論説を見つけたのだ。更にその部屋には、女王のプライベートな品が隠されている、と。
自分の境遇もあってアルカサルを訪れるのは避けてきたのだが、後悔するぐらい衝撃だった。もっと早く知っていれば、あんな豚野郎に関わることもなかっただろう。脳裏に汚い面を思い出し、思わず舌打ちをする。
しかし1つ問題がある。
秘密の部屋を開くには、ある鍵が必要だ。
それは……、自然現象の雲海。
基本的に乾燥地帯のセゴビアにとって、湿度を必要とする雲海が発生するのは何百年に一度の奇跡に近い。その奇跡がカトリック両王の即位中に起きたというのだ。
論説には『幻想的な光景に感動した女王は、部屋の鍵として雲海を取り入れた』と書いてあった。どういうことか、それ以上の記述はない。だが軍事要塞としても使われていた施設だ、戦略的な仕掛けがあっても不思議ではない。
雲海出現の条件は他にもあるが、まず湿度をどうにかしなければ話にならない。金ならいくらでも積めるのに、天候を操るのは流石に無理だ。
何とかなると勢いで乗り込んでみたが、無謀だったか。
「ねぇ、そこのオニーサン。そのペンダント綺麗だね、何の石?」
「……あ?」
途方に暮れて敷地内の塔でうな垂れていると、透明感のある幼い声が降ってきた。重い頭を上げて見れば、褐色の壁によく映える真っ青な衣装で身を包んだ、金髪の少年が立っていた。
というか、少し浮いている気がするのだが。
「気がするじゃなくて、浮いてるよ」
「は……、はぁ!?」
仰天してデカい声を上げた俺を煽るように、少年は「ほらっ」と空中で足を組んでみせた。膝の上に乗せた黄金の杖が、太陽の如く光る。
疲労のあまり眠ってしまい、夢でも見ているのか?
「まったく、皆で僕のことを夢って言うよね。ちょっと浮いてるくらいでさ」
「当たり前だろ! お前、一体何者なんだ」
俺の問いに少年は得意げに笑うと、襟足の長い髪と空模様のマントを靡かせ、堂々とした態度で答えた。
「僕はメネル。人間の天気の願いを叶えてあげる、親切な空の番人さ。オニーサン、ここの天候を変えたいと思ってるでしょ? 綺麗なペンダントを付けてるし、面白そうだから今日はオニーサンの願いに決めたよ」
正体を聞いたところで唖然とした。空の番人といわれ、ハイそうですかと鵜呑みにできるわけがない。
だがさっきからメネルという少年は、俺の思考に答える不思議な力を見せつけている。人の心が読めるなど、只者ではないことは確かだろう。
メネルがしきりに興味を示すのは、俺が普段から身につけている|藍方石《アウイナイト》のペンダントである。
|藍方石《アウイナイト》は深い青色がネオンのように輝く希少石であり、現在は入手困難なことから〝幻の宝石〟と呼ばれている。市場に出回るのは最大でも1カラット程度だが、これは3カラットほどある相当の高級品だ。
これを大金を叩き手に入れたのは親父だった。両財閥の友好の記念と称して、婚約時に俺とイリスへ贈られたが……本質は首輪だ。『提携の贄』として、俺たちを縛り付けるための。
こんなもの本当は叩き壊してやりたいが、立場上できるはずもない。
「ふーん、|藍方石《アウイナイト》か。壊すだなんて勿体ないなぁ、だったら僕が欲しいよ」
「お前のイヤリングだって高価なもんだろ。欲しいならくれてやるよ、盗まれたってことにするから」
「生憎、人間から簡単に物を受け取れないんだよね。それでオニーサン、どうする? 僕と契約でもしない限り、この辺りを雲海で埋め尽くすなんて不可能だよ」
サラリと本題に戻されたところで、俺は警戒心を強めた。
〝契約〟というからには、それなりの対価があるはずだ。コイツの存在を現実と認めるかは兎も角、俺はそうゆう世界に生きているからすぐに分かる。
「……本当に、雲海は発生できるのか?」
「雲海自体は無理だけど、条件を揃えてあげることはできるよ。勿論、オニーサンのいう対価は頂くけど、難しい要求はしないさ。僕と契約できる確率なんて、雲海より低いんだよ?」
ラストチャンスと言わんばかりに、メネルが白い手を差し出す。
トレジャーハンターは時に危険な選択も必要だ。そのスリルが堪らなくゾクゾクし、ストレスを忘れさせてくれる。だからハンティングは辞められない。
これもその選択の1つだ。
面白い、乗っかってやろうではないか。ガキに頼るのは癪だが、どの道このままじゃお手上げだ。
ハンターとしての好奇心に突き動かされ、俺は運命の手を取った。
翌朝。夜明け前に目が覚めた俺は、ホテルの窓の外を覗いて目を疑った。
初めてこの景色を目にしたイザベルも、こんな心境だったに違いない。
渓谷を覆い隠すほどの白い|靄《もや》。お陰で崖の上のアルカサルは、雲に浮いているように見えて〝天空の城〟と呼ぶに相応しい。
昨晩、珍しく一時的な豪雨となり、地面が濡れて湿度が上昇したようだ。その後、深夜に晴れ間が広がり、放射冷却で気温が急低下。冷えた空気が水分を凝縮して霧となり、アルカサルの渓谷に溜まる。これが自然の芸術、雲海が完成した要因である。
こんな偶然があるものかと驚きながら、俺は高鳴る胸を押さえてアルカサルに急行した。夜明け前だから警備員の姿もなく、閉ざされた門は容易に突破できた。雲海の霧を裂き、目を付けていた場所へと走る。
そういえば昨日、俺はここへ来ているはずだが、どうやってホテルへ帰ったのか覚えていない。よほど疲れていたのか着替えもせず、気づいたらベッドの上で朝を迎えていた。
不思議に思いながらも目的の場所に着くと、その疑問は一瞬で吹き飛んだ。読みが的中したのだ。
「壁が動いている……」
そんな奇怪な光景を目にすれば、余所事を考える余裕などなくなる。
ここは古代ローマ時代に作られた地下通路。万が一、攻め落とされた場合に使う脱出口だったらしい。
その通路の一角の壁が可動して、劣化した扉が現れた。いかにも秘密の部屋らしい絡繰りに、どんな仕組みなのか気にはなるが、今はそこに時間を割いている暇はない。
恐る恐る開くと、鍵は掛かっていなかった。
まぁ、雲海という奇跡の鍵が掛かっているのだから、必要ないか。
金属の軋む音が立ち、かなり硬いが扉は何とか開いた。錆と埃の臭いが鼻を刺す。
口元をハンカチで覆って中を覗くと、そこは質素な造りだった。石造りの壁が剥き出しのままであり、湿気のせいか蒸し暑い。
一見すると空っぽかと思えたが、持参した懐中電灯の光を照らしていくと、奥の方に机が1つだけあるのを見つけた。
「大したもんはなさそうだな。あの豚野郎、コロンブスとか大袈裟なんだよ」
最初から期待はしていなかったが、文句くらい言ってもいいだろう。
机に近づいてみると1冊の本が置かれていた。埃だらけで触るのを躊躇ったが、常備している手袋を使えば問題ない。
「日記……、女王のか?」
だとすれば想定外の大発見だ。直筆の手記なんて、そう手に入る代物ではない。沈みかけていた探究心が浮上し、胸が熱くなるのを感じた。
だが慎重にページを捲り、そこに書かれている内容を読んだ俺は、雷に打たれたような衝撃を受けた。
それは女王として政治活動に励む傍ら、フェルナンド王と過ごした日々を綴ったものだった。飾り気のない素直な言葉で、何気ない瞬間でも幸せを感じられる……そんな彼女の想いが文章から伝わってくる。
そんなはずはない。カトリック両王はスペインのために利用されただけの、上辺だけの関係じゃなかったのか? 思いもよらぬ事実を突きつけられ、脳がショートを起こしていた。
震える手で残りのページを捲る。
最後は、こんな言葉で締めくくられていた。
<|Mi amor jamás 《我が愛だけは、》|será usado con 《決して政治利用》|fines políticos .《などさせぬ。》 |Lo dejo escrito en《ここに密かに》 |secreto para que《書き記し、》 |las generaciones《後世の者に》 |lo conozcan futuras《伝えゆく。》 . |Fernando《フェルナンド》…… |el milagro de 《貴方と出逢》|haberte encontrado《えた奇跡は、》 |es más valioso que《霧の海原より》 |el mar de niebla《尊いものだ》 . >
「|A mi amado《最愛の》 |más querido《貴方へ》 , |Isabel《イザベル》 ……」
読み終わった瞬間、全身から力が抜けた。彼女はフェルナンドを、夫として心の底から愛していたのだ。
ただ夫への愛だけは政治利用されないために、個人的な感情をひた隠し生きてきた。そしてこの小さな日記だけに残してこの世を去った。未来の誰かが知ってくれることを祈って。
女王としての確固たる覚悟と共に、芯の強さを見せつけられたようで、打ち震えることしかできなかった。
そんなのありかよ。
なら俺は……。
――俺たちは。
3ヶ月後。
「おい。これで本当に全部なんだろうな?」
「勘弁してくださいよ、シオさん。本当に全部ですから……っ!」
いつものバーにて、俺は王族の財宝を取引していた。ただし今までと違い、俺が金を払う側である。この男は顧客の一人だが、今日はコイツに売りつけた品を全て買い戻しにきたのだ。
アタッシュケースごと代金を払うと、男は嬉しそうな悲しそうな複雑な表情を浮かべた。コレクターなのだから、大金よりもブツのほうが大事なのだろう。その割りには、売った額よりも高い値段を出してきやがったが。
「でも今さら買い戻しなんて、どうしたんですか?」
「……返すんだよ。あるべき場所にな」
そう答えると男は面食らった顔をしたが、気にすることなくその場を後にした。
買い戻した財宝は貸倉庫へ一時保管し、ニューヨークの自宅に帰宅する。
明かりが灯るダイニングの扉を開くと、イリスが笑顔で出迎えた。彼女もフランスから戻ってきているのだ。
「どうだった? 今日は」
脱いだジャケットをイリスに渡しながら、俺は「あぁ」と答える。
「全て手に入れた。あとは末裔の家族に匿名で寄贈するだけだ」
「良かった、これもイザベル女王のお導きのお陰ね」
イリスは安堵したように微笑み、受け取ったジャケットをハンガーに掛けると、キッチンへ向かった。
彼女は今、俺の裏の顔を知っている。イザベルの日記を見つけたあの日、俺が全て打ち明けたからだ。
女王の愛を知った俺は今までの自分を振り返った。同じ政略結婚であった俺は、イリスと心から向き合ったことがあったか、と。――答えは否だ。そこに愛はないと決めつけて、彼女を知る努力すらしてこなかった。
フランスでイリスと合流すると、俺は彼女と対話をした。するとイリスも俺のことをもっと知りたいと言った。
そこで包み隠さずストレスのことやトレジャーハントのことを話すと、叱咤するどころか「何となくそんな気がした」と受け入れてくれたのだ。
過去の人間が残したものには、秘められた想いが詰まっている。イザベルの小さな日記からそれを知り、数々の財宝を売り捌いてきたこと後悔する俺に「買い戻して、あるべき場所に返すのはどうか」と提案したのもイリスだ。そういう活動なら私も支援したい、とまで申し出てくれた。
ちなみにイザベルの日記は元の場所に戻して扉を閉じた。奇跡の雲海が発生しない限り、他人に触れられることは二度とない。豚野郎には「何もなかった」と言って代償のグーパンを贈ってやった。
トレジャーハンターのシオは、もういない。
ストレスはイリスと一緒に解決していけばいい。次期当主である彼女も、同じ悩みを抱える良き理解者なのだから。
俺とイリスの首元に光る|藍方石《アウイナイト》には、『過去との決別を助ける力』があるという。過去の重荷を手放し、未来への一歩を踏み出す勇気を与えてくれるらしい。
ただの首輪としか思っていなかったから知らなかった。石ころにそんな力があるとも思えないが、信じてみるのも悪くない。
そしてもう1つ、『愛情を豊かにする効果』もあるようだ。
……どちらもこれから、じっくり検証していくことにしよう。
「ねぇ、久しぶりに作ってみたの。食べてみて、結構自信あるんだ」
そう言ってイリスが持ってきたのは、フランスの伝統料理『キッシュ・ロレーヌ』。卵とクリームを使ったパイ料理だ。実はイリスは料理があまり得意ではなく、普段は家政婦が作っている。だが故郷の味くらい自分で作りたいと、一生懸命練習していた。
最初はマズくて食えたもんじゃなかったが、頑張る姿が可愛らしく、いつしか彼女が「今日はどう?」と作ってくるのが楽しみになっていた。確かに今日は久しぶりだ。
「ほぉ、どれどれ……」
いい焼き色がついた一口大の生地をパクリと口に含む。
だが、瞬間に全身が逆立つような寒気と吐き気に襲われ、すぐに吐き出した。咽せながら目に入った皿の上のキッシュに、恐怖心すら覚える。
何だ、この感覚は。
こんなこと一度も……。
「だ、大丈夫!? どうして……、今までと同じように作ってるのに」
泣きそうな顔をするイリスを心配させまいと、何とか呼吸を落ち着かせて宥める。
しかし俺はこの時以降、二度とキッシュを食べることはできなかった。そうなって初めて、大切な味だったと気付くものだ。
――どこからか、透明感のある少年の笑い声が聞こえるのは、空耳だ。
***
今日のおかずはキッシュ・ロレーヌ。フランスの伝統料理らしい。
サクサクの香ばしいパイと、クリーミーで濃厚な具材が絶妙な味わいだ。
この食べ物を報酬として差し出した彼は、契約の時「俺には特別に好きな食べ物などない」と言っていた。僕には彼の心に、この食べ物が見えていたんだけど、どうやら本人はそれを自覚していなかったらしい。それなら、きっと奪われても困らないと思って言わなかったけど。
「あぁ~、でも気づいちゃったみたいだ。お気の毒だけど、契約だから仕方ないね」
今回の願いは|晴の精霊《サニール》と|雨の精霊《レイニエル》の協力が必要だったし、調整には結構苦労した。それにしてもあのお城、湿度による木材の特性と金属の結露を上手く利用して、見事な解除装置を作っていたよね。あれには感心したよ。
「人間の世界には、まだまだ知らないものがあるなぁ。会社の偉い人でも知らないことがあるんだもの、当たり前だよね」
ほら、もう1つ知らないもの。何だっけ?
そう確か、〝アイ〟とか言っていたような――。