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 昔を懐かしむような、引き戸を開ける音。横に引く時の感覚も昔から変わらず、心地よかった。
「あら、啓さん?」
 出迎えてくれたのは通称女将。今は六十台だが、見た目は貴婦人。ピンクの割烹着(かっぽうぎ)が良く似合っていた。名前は李恵美(りえみ)とついていて、啓治はよくリエさんと呼んでいた。
「ちょっと野暮用ができまして。リエさん、この子にジュース一杯注いでくれないかな」
「はい、分かりましたよ」
 この時間、主人の(やすし)はテレビでスポーツを見ている頃だろう。ボクシングか野球、その好奇心は海外にまで広がっていた。
 バイト達の姿もない。店は都合がよく、あんまり人の気配がなかった。初老(しょろう)と思われる男三人が卓を囲んで麦焼酎を嗜んでいるくらいだ。そのうちの一人は煙草を吸っていた。
 青年はといえば、周りを見渡していた。啓治は二人で、カウンター席に腰掛けるように提案した。その方が外からよく見えて、警察も乗り込んでこないと。青年は(いぶか)しんだが、否定する気もないようですぐ隣に座った。
 奥からサービスの焼酎とコーラを持ってきてくれた女将は、コーラを青年の前に置くときに彼の顔を見てこう言った。
「あなた、このお店に来たことある?」
 冷えたグラスに手をつけた青年は、女将にそう言われた途端血相を変えた。張り上げた声で女将にこう言ってみせたのだ。
「男が二人で歌ってる洋楽を流せ! この店でよく掛かってるやつだよ」
 あんまりにも突然声が出たものだから、三人組は興味深そうに彼を見た。その一組に向けて啓治は両手で宥めるような仕草をする。
 最初はキツネにつままれたような様子の女将だったが、すぐいつもの優しく穏やかな口調に戻るとこう口を開いた。
「どんな音楽?」
「昔の音楽だよ。ピアノから始まって、男が交互に歌ってく。それで最後に一緒になって歌う、その曲を流せ!」
 突拍子もないクイズが始まったと、啓治は少し可笑(おか)しくて笑いを堪えた。警察に追われて、人にナイフを突きつけて脅した男だ。
 金目当てでもない。彼は音楽を聴きにきたのだという。
 女将は思い出そうとしていたようだが、啓治にはもう答えが分かっていた。客というのは、店で流れてる音楽を店員以上に分かっているものだ。
「リエさん。サイモンとガーファンクルのアレじゃないですか」
 ああ! 女将はパンと手を叩いた。それだ、と霧が晴れて清々しい顔つきになった。
「ちょっと待っててね」
 奥に引っ込み、何をしているかと思えば店内に流れていた演歌の音量を最大まで下げてから、スピーカーのついた使い古しのミニコンポを持ってきたのだ。中に年季の入って色褪(いろあ)せたカセットテープを入れると、機械を操作して再生ボタンを押した。
 流れてきたのは「Bridge Over Troubled Water」だった。
 店内はすぐに、優しい歌声に包まれていく。その空気に(ほだ)されて啓治もまた心が温かくなってくるのを感じた。三人組の男たちも音楽を知っていたのか、談笑が始まった。
 コーラを飲む彼の手が震えている。彼は少しだけ炭酸で喉を潤すと、女将にこう言った。
「この曲、英語だから分からない。どんな歌詞なんだ」
 音楽に聴き入っていた女将は、彼の方を向いて言った。
「ごめんなさいね、実を言うと私は分からないのよ」
 すると、二階に昇る階段の方から男性の声が聞こえてきた。二階は夫婦の家になっている。
 そんな説明がなくとも、啓治は声を聞けばすぐに分かる。この声は泰だった。
「優しい歌だ、兄ちゃん」
 もう一度、青年はコーラを飲んだ。
「どんな優しい歌なんだ。教えろ」
「もしも辛い夜が訪れて、友達がいなくても。濁流に飲まれそうな時でも、側にいるって――そんな曲だよ」
 階段を下り終えた泰は、額に(しわ)を作りながら青年に言った。
 昔、啓治に泰がこんな話をしたのをふと思い出すのだ。この曲は、夫婦の思い出の曲なのだという。初デートで泰がアコースティックギターを両手に弾き語りをしたそうなのだ。夜の公園で。そしたら人が集まってきて路上ライブと勘違いされたと恥ずかし気に語っていた。
 ふと、思い出した啓治は女将の方を見る。女将は少しだけ目尻に涙を浮かべているように見えた。
「啓さん、もう一杯サービス持ってくるよ」
 音楽に聴き入っていたのは青年も同じだった。だが、彼は独り言を(つぶや)くように言った。
 長い迷宮の、出入口をようやく見つけたような。彼の長い旅が終わったかのような。そんな声だった。
「そうだったのか――」

 曲が終わると同時に、二人の警察が店内に入って来た。
 そして、一人の若くてタフそうな方が彼を連れて戻っていった。もう一人の眼鏡をかけた、四十台くらいの警察が残って啓治の怪我の有無を確認した。
 当然、そんなものはない。怪我がないと元気そうに答えた後、警察は顎に手を置きながら考えこむように言った
「しかし、なぜあの男はこの店に来たんですかねぇ」
 店内には、もう演歌の音楽が流れている。啓治は、新進気鋭演歌歌手の歌声を聞きながらこう言った。
「彼にも、思い出の音楽があったんです。愛の歌ですよ」
「はあ。あの男は所謂(いわゆる)闇バイトに手を出しましてね。でも留置所で倒れて、病院に連れていったところ脳腫瘍だってのが分かったんですよ。しかもかなり放置してたみたいで」
 最初こそ、青年の手が震えていたのは緊張からだと啓治は思っていた。だが彼が薬を飲み、いつまでも手が震えているのは精神的なものではないと早い段階で気付いたのだ。
「なら、最後に聴きたかったんだと思います。ところで、彼の母親はどうされているのですか」
「もう亡くなってます」
「そうですか。なら、彼は天国から受け取ったでしょうね。母からの、愛の言葉を」
 そう言って、啓治はテーブルの上に一万円札を置くと立ち上がる。ついでに、三人組にもそれぞれ万札を差し出した。迷惑料だと、半ば無理矢理押し付けたようになったが。
 ところで……と警察が声をかけた時、啓治は腹を押さえながらその場に膝をつき、倒れた。
 啓治は持病の治療をしに大きな病院に向かっている最中だった。症状が現れ、痛みに耐えながらそれを顔には出さず、誰にも教えずにここまで来たのだ。青年の目を見て、啓治は分かったのだ。彼には使命があったのだと。
 最後に自身の命を投じて、誰かの心を救えたのなら。
 天国への土産話になる、啓治は目を閉じながらそんなことを考えていた。


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 昔を懐かしむような、引き戸を開ける音。横に引く時の感覚も昔から変わらず、心地よかった。
「あら、啓さん?」
 出迎えてくれたのは通称女将。今は六十台だが、見た目は貴婦人。ピンクの割烹着《かっぽうぎ》が良く似合っていた。名前は李恵美《りえみ》とついていて、啓治はよくリエさんと呼んでいた。
「ちょっと野暮用ができまして。リエさん、この子にジュース一杯注いでくれないかな」
「はい、分かりましたよ」
 この時間、主人の泰《やすし》はテレビでスポーツを見ている頃だろう。ボクシングか野球、その好奇心は海外にまで広がっていた。
 バイト達の姿もない。店は都合がよく、あんまり人の気配がなかった。初老《しょろう》と思われる男三人が卓を囲んで麦焼酎を嗜んでいるくらいだ。そのうちの一人は煙草を吸っていた。
 青年はといえば、周りを見渡していた。啓治は二人で、カウンター席に腰掛けるように提案した。その方が外からよく見えて、警察も乗り込んでこないと。青年は訝《いぶか》しんだが、否定する気もないようですぐ隣に座った。
 奥からサービスの焼酎とコーラを持ってきてくれた女将は、コーラを青年の前に置くときに彼の顔を見てこう言った。
「あなた、このお店に来たことある?」
 冷えたグラスに手をつけた青年は、女将にそう言われた途端血相を変えた。張り上げた声で女将にこう言ってみせたのだ。
「男が二人で歌ってる洋楽を流せ! この店でよく掛かってるやつだよ」
 あんまりにも突然声が出たものだから、三人組は興味深そうに彼を見た。その一組に向けて啓治は両手で宥めるような仕草をする。
 最初はキツネにつままれたような様子の女将だったが、すぐいつもの優しく穏やかな口調に戻るとこう口を開いた。
「どんな音楽?」
「昔の音楽だよ。ピアノから始まって、男が交互に歌ってく。それで最後に一緒になって歌う、その曲を流せ!」
 突拍子もないクイズが始まったと、啓治は少し可笑《おか》しくて笑いを堪えた。警察に追われて、人にナイフを突きつけて脅した男だ。
 金目当てでもない。彼は音楽を聴きにきたのだという。
 女将は思い出そうとしていたようだが、啓治にはもう答えが分かっていた。客というのは、店で流れてる音楽を店員以上に分かっているものだ。
「リエさん。サイモンとガーファンクルのアレじゃないですか」
 ああ! 女将はパンと手を叩いた。それだ、と霧が晴れて清々しい顔つきになった。
「ちょっと待っててね」
 奥に引っ込み、何をしているかと思えば店内に流れていた演歌の音量を最大まで下げてから、スピーカーのついた使い古しのミニコンポを持ってきたのだ。中に年季の入って色褪《いろあ》せたカセットテープを入れると、機械を操作して再生ボタンを押した。
 流れてきたのは「Bridge Over Troubled Water」だった。
 店内はすぐに、優しい歌声に包まれていく。その空気に絆《ほだ》されて啓治もまた心が温かくなってくるのを感じた。三人組の男たちも音楽を知っていたのか、談笑が始まった。
 コーラを飲む彼の手が震えている。彼は少しだけ炭酸で喉を潤すと、女将にこう言った。
「この曲、英語だから分からない。どんな歌詞なんだ」
 音楽に聴き入っていた女将は、彼の方を向いて言った。
「ごめんなさいね、実を言うと私は分からないのよ」
 すると、二階に昇る階段の方から男性の声が聞こえてきた。二階は夫婦の家になっている。
 そんな説明がなくとも、啓治は声を聞けばすぐに分かる。この声は泰だった。
「優しい歌だ、兄ちゃん」
 もう一度、青年はコーラを飲んだ。
「どんな優しい歌なんだ。教えろ」
「もしも辛い夜が訪れて、友達がいなくても。濁流に飲まれそうな時でも、側にいるって――そんな曲だよ」
 階段を下り終えた泰は、額に皺《しわ》を作りながら青年に言った。
 昔、啓治に泰がこんな話をしたのをふと思い出すのだ。この曲は、夫婦の思い出の曲なのだという。初デートで泰がアコースティックギターを両手に弾き語りをしたそうなのだ。夜の公園で。そしたら人が集まってきて路上ライブと勘違いされたと恥ずかし気に語っていた。
 ふと、思い出した啓治は女将の方を見る。女将は少しだけ目尻に涙を浮かべているように見えた。
「啓さん、もう一杯サービス持ってくるよ」
 音楽に聴き入っていたのは青年も同じだった。だが、彼は独り言を呟《つぶや》くように言った。
 長い迷宮の、出入口をようやく見つけたような。彼の長い旅が終わったかのような。そんな声だった。
「そうだったのか――」
 曲が終わると同時に、二人の警察が店内に入って来た。
 そして、一人の若くてタフそうな方が彼を連れて戻っていった。もう一人の眼鏡をかけた、四十台くらいの警察が残って啓治の怪我の有無を確認した。
 当然、そんなものはない。怪我がないと元気そうに答えた後、警察は顎に手を置きながら考えこむように言った
「しかし、なぜあの男はこの店に来たんですかねぇ」
 店内には、もう演歌の音楽が流れている。啓治は、新進気鋭演歌歌手の歌声を聞きながらこう言った。
「彼にも、思い出の音楽があったんです。愛の歌ですよ」
「はあ。あの男は所謂《いわゆる》闇バイトに手を出しましてね。でも留置所で倒れて、病院に連れていったところ脳腫瘍だってのが分かったんですよ。しかもかなり放置してたみたいで」
 最初こそ、青年の手が震えていたのは緊張からだと啓治は思っていた。だが彼が薬を飲み、いつまでも手が震えているのは精神的なものではないと早い段階で気付いたのだ。
「なら、最後に聴きたかったんだと思います。ところで、彼の母親はどうされているのですか」
「もう亡くなってます」
「そうですか。なら、彼は天国から受け取ったでしょうね。母からの、愛の言葉を」
 そう言って、啓治はテーブルの上に一万円札を置くと立ち上がる。ついでに、三人組にもそれぞれ万札を差し出した。迷惑料だと、半ば無理矢理押し付けたようになったが。
 ところで……と警察が声をかけた時、啓治は腹を押さえながらその場に膝をつき、倒れた。
 啓治は持病の治療をしに大きな病院に向かっている最中だった。症状が現れ、痛みに耐えながらそれを顔には出さず、誰にも教えずにここまで来たのだ。青年の目を見て、啓治は分かったのだ。彼には使命があったのだと。
 最後に自身の命を投じて、誰かの心を救えたのなら。
 天国への土産話になる、啓治は目を閉じながらそんなことを考えていた。