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ー/ー



「言うことを聞け、殺されたいのか!」
 顔も隠していない彼は、まだ若々しかった。一週間後、喜寿(きじゅ)を迎える啓治(けいじ)には対抗する術はなく、助手席のドアを開けた。後ろからは警察のものらしきサイレン音が聞こえてくる。パトランプの赤い光も微かにバックミラーに映っていた。
 青年はナイフを閉まって中に乗り込んでくる。上空からはヘリコプターの、空気すら振動させる音が鳴り響いていた。道路は空いているとは言えず、サイレン音に混ざって拡声器を使って道を空けるように指示をしていた。
「松浦にあるトップエアっていうレストランに連れていけ、早く!」
 短く返事をして、啓治はアクセルを踏み込んだ。
 ラジオを付けようかと思ったが、彼の気に障ってはいけない。冷静に対処すべくして、アスファルトの上を駆け抜けるのだ。背後からは変わらずにサイレン音が鳴り響いている。もう一度バックミラーを見て見れば、二台も来ているようだった。
 黒のリュックサックを背負っていた彼は、鞄の中から錠剤と真水の入ったペットボトルを取り出して飲み込んだ。少しだけ手が震えているように見えた。
「病名は」
 短く啓治が尋ねる。青年は疑問を呈するような顔をしてみせたが、シートに深くもたれかかってこう言った。
「頭だ。無駄口を叩いてないでもっと速度を出せ」
 ナイフを自分の膝上に置いたかと思えば、忙しなく貧乏ゆすりをして地面に落ちた。ひどく焦って、興奮して、熱病にでもかかったかのような息の乱れ方をしていた。
 トップエアといえば、レストランではない。個人経営の居酒屋だった。夫婦が二人で切り盛りしていたが、最近では二人の男性フリーターを雇っていた。特段忙しい店ではないが、夫婦曰く若いエネルギーを感じたら、長生きできるような気がすると言っていたのを啓治は思い出す。
 運に恵まれたのだろう。青年は数十台もある車の中から、トップエアの場所を知っている老人を引いたのだから。
「無駄口を叩いてもよろしいですか」
 遠慮がちに啓治は言った。青年は何も言わず、膝を小刻みに揺らしながら前を見ていた。
「人はなぜ死を恐れるか、について考えたことはありますか」
 彼は、初めて啓治の顔を見た。
「説教するつもりか。興味ねえな」
「失礼、説教に聞こえたのなら謝ります。ほんの雑談のつもりでした」
 ナイフを突きつけられて、強引に乗っ取られた。普通ならパニックになるはずの老人が、なぜか落ち着いている。彼はむしろ、自分の方が感情の濁流(だくりゅう)に飲み込まれていると気付いたのだ。
 拍子抜け。いつの間にか覚えていたそんな日本語を彼は思い浮かべていた。舐めているのかと怒鳴る気にもならない。好都合だと思い、老人の雑談を聞いてみる準備が整い始めていた。
 不規則だった息遣いに秩序(ちつじょ)が戻ってきたのを感じた啓治は、静かにこう話し始めた。
「死は誰にも平等にやってくる。避けられない運命です。世界にいる九割か、それ以上の人々は死を怖いかと尋ねられれば怖いと答えるでしょう」
「なんで死ぬのが怖いかって。簡単だろ」
 話を遮られたが、啓治は柔和な表情をした。
「怖いから怖いんだ。理由も何もねぇよ」
 鼻を鳴らした後、彼はこう続けた。
「具体的に言うなら、怖いって思うのが普通なんだろ。なんていうか……」
「それが人間の本能だと。当たってますか」
 地面に落ちたナイフを拾った彼は、それをリュックサックの中にしまいながら頷いた。
 考えを読めたのが嬉しいと、啓治もまた頷いた。人質になってるのに、なんだこの老いぼれは。そんな言葉が聞こえてきそうな気がして、啓治は笑いを堪えながらこう言った。
「きっとそうなんでしょう」
 他にも、いくらでも恐怖の理由付けはできる。頭の浅いところにある引き出しの中を探せばたんまりとあり、深いところにある収納庫にもいくつか閉まってある。彼も思いついてはいただろうが、あえて口に出したのが本能だったのだ。
 そう啓治は思った。無難だが、本質。
「爺さんも怖いのか、死ぬのが」
 もう一度柔和な笑みを浮かべた啓治は、静かにこう言った。
「いえ、実を言うと私は怖くないんですよ」
「だろうな。俺がこうしてナイフを突きつけてもビビらなかったのは、死ぬのが怖くないからだ」
「痛いのは嫌ですがね」
 一瞬だけ、啓治は彼と視線を合わせた。固かった表情が少しだけほぐれていっているのが見えた。すると彼はいそいそとリュックの中から包み紙に入ったチョコレートを取り出して、小粒のそれを口の中に放り込んだのだった。
「私が死を恐れなくなったのは、友人達のおかげですね」
 気付かないはずもない。彼はチョコレートの包み紙を開ける時、難儀を伴っていた。
「先に行って待ってる。友達がそう言ってくれたんですよ。だからむしろ、私は楽しみです」
「はあ? 天国とか地獄とかあるわけないだろ。骨になって終わりだよ」
「黄泉の国があるかは問題ではありませんよ」
 サイレンの音はさっきから変わらない位置を保っている。今頃生放送でも取り上げられているだろう。トップエアまでは残り数十分で着く見通しだ。
 警察もまさか、個人経営の居酒屋に向かっているとは知らないだろう。
「黄泉の国があろうがなかろうが、友人に会えなくてもいいんです。人生って、何も知らない少年兵と同じだと思いませんか」
 当然ながら、彼はピンと来ていないようだ。啓治は続けた。
「少年兵の中には、銃の撃ち方も教わらないまま銃を持たされて駆り出される者もいると聞きます。そんな中、突然戦場に立たされるんです。上手に戦場を渡り、生き抜く者もいるでしょう。でも全員がそうじゃない。気付けば人生が終わった子、耐え切れず自ら命を絶つ子。様々いるんです」
「さっきの話と、どんな関係があるんだよ」
 右折のウィンカーを出しながら、あまり減速せずに曲がった。身体が法則にならって横にずれ、彼と肩が当たる。弱々しい肩だった。
「死後の行先が三パターンあるとしましょう」
 啓治の語りに、彼はもう一粒のチョコレートを食べながら耳を傾けていた。
「まず黄泉の国がある場合。友人が待ってくれています。会えない場合もあるでしょうが、一人くらいはいるはず。次に、生まれ変わりがある場合。子供時代のあの無邪気な感じをまた楽しめる」
 警察署内で何らかの命令があったのだろう、パトカーは一定の距離をとってサイレン音を消した。変わらず尾行は続けているが、青年の顔に落ち着きが戻ってきているのが明白だった。
「最後に、何もない場合。人間が絶望し、悲しむのは感情があるからです。それすらもなくなれば、恐怖すら消え失せる。どうです? 死後の世界というのも悪くないでしょう」
 それから彼は黙したまま、何かを考えるように前を見つめていた。
 フロントガラスの向こう側には、ほとんどライトに照らされる前方車両しか見えない。街灯はついているものの、昼間でもないから窓の外を見ても楽しい思いはしないだろう。しかし構わず、彼は前を見続けた。
 まだ手が震えている。
 青年が言うところの無駄話が終わり、走行中は無言だった。見知らぬ者同士、だというのに車内に緊迫感はなかった。
 トップエアの看板が見えると、啓治は近くの駐車場に車を止めた。気を抜いていた青年は、思い出したかのように慌ててナイフを取り出そうとしたが結局は取り出さずに啓治に命令するのだ。
「降りろ、一緒に中に連れていけ。早く」
 分かりました、と短く返事をした啓治は車から降りて青年の斜め前を歩きながら店の門を開けた。朝まで営業しているから、今の時間に入っても迷惑にはならないだろう。


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 顔も隠していない彼は、まだ若々しかった。一週間後、喜寿《きじゅ》を迎える啓治《けいじ》には対抗する術はなく、助手席のドアを開けた。後ろからは警察のものらしきサイレン音が聞こえてくる。パトランプの赤い光も微かにバックミラーに映っていた。
 青年はナイフを閉まって中に乗り込んでくる。上空からはヘリコプターの、空気すら振動させる音が鳴り響いていた。道路は空いているとは言えず、サイレン音に混ざって拡声器を使って道を空けるように指示をしていた。
「松浦にあるトップエアっていうレストランに連れていけ、早く!」
 短く返事をして、啓治はアクセルを踏み込んだ。
 ラジオを付けようかと思ったが、彼の気に障ってはいけない。冷静に対処すべくして、アスファルトの上を駆け抜けるのだ。背後からは変わらずにサイレン音が鳴り響いている。もう一度バックミラーを見て見れば、二台も来ているようだった。
 黒のリュックサックを背負っていた彼は、鞄の中から錠剤と真水の入ったペットボトルを取り出して飲み込んだ。少しだけ手が震えているように見えた。
「病名は」
 短く啓治が尋ねる。青年は疑問を呈するような顔をしてみせたが、シートに深くもたれかかってこう言った。
「頭だ。無駄口を叩いてないでもっと速度を出せ」
 ナイフを自分の膝上に置いたかと思えば、忙しなく貧乏ゆすりをして地面に落ちた。ひどく焦って、興奮して、熱病にでもかかったかのような息の乱れ方をしていた。
 トップエアといえば、レストランではない。個人経営の居酒屋だった。夫婦が二人で切り盛りしていたが、最近では二人の男性フリーターを雇っていた。特段忙しい店ではないが、夫婦曰く若いエネルギーを感じたら、長生きできるような気がすると言っていたのを啓治は思い出す。
 運に恵まれたのだろう。青年は数十台もある車の中から、トップエアの場所を知っている老人を引いたのだから。
「無駄口を叩いてもよろしいですか」
 遠慮がちに啓治は言った。青年は何も言わず、膝を小刻みに揺らしながら前を見ていた。
「人はなぜ死を恐れるか、について考えたことはありますか」
 彼は、初めて啓治の顔を見た。
「説教するつもりか。興味ねえな」
「失礼、説教に聞こえたのなら謝ります。ほんの雑談のつもりでした」
 ナイフを突きつけられて、強引に乗っ取られた。普通ならパニックになるはずの老人が、なぜか落ち着いている。彼はむしろ、自分の方が感情の濁流《だくりゅう》に飲み込まれていると気付いたのだ。
 拍子抜け。いつの間にか覚えていたそんな日本語を彼は思い浮かべていた。舐めているのかと怒鳴る気にもならない。好都合だと思い、老人の雑談を聞いてみる準備が整い始めていた。
 不規則だった息遣いに秩序《ちつじょ》が戻ってきたのを感じた啓治は、静かにこう話し始めた。
「死は誰にも平等にやってくる。避けられない運命です。世界にいる九割か、それ以上の人々は死を怖いかと尋ねられれば怖いと答えるでしょう」
「なんで死ぬのが怖いかって。簡単だろ」
 話を遮られたが、啓治は柔和な表情をした。
「怖いから怖いんだ。理由も何もねぇよ」
 鼻を鳴らした後、彼はこう続けた。
「具体的に言うなら、怖いって思うのが普通なんだろ。なんていうか……」
「それが人間の本能だと。当たってますか」
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 考えを読めたのが嬉しいと、啓治もまた頷いた。人質になってるのに、なんだこの老いぼれは。そんな言葉が聞こえてきそうな気がして、啓治は笑いを堪えながらこう言った。
「きっとそうなんでしょう」
 他にも、いくらでも恐怖の理由付けはできる。頭の浅いところにある引き出しの中を探せばたんまりとあり、深いところにある収納庫にもいくつか閉まってある。彼も思いついてはいただろうが、あえて口に出したのが本能だったのだ。
 そう啓治は思った。無難だが、本質。
「爺さんも怖いのか、死ぬのが」
 もう一度柔和な笑みを浮かべた啓治は、静かにこう言った。
「いえ、実を言うと私は怖くないんですよ」
「だろうな。俺がこうしてナイフを突きつけてもビビらなかったのは、死ぬのが怖くないからだ」
「痛いのは嫌ですがね」
 一瞬だけ、啓治は彼と視線を合わせた。固かった表情が少しだけほぐれていっているのが見えた。すると彼はいそいそとリュックの中から包み紙に入ったチョコレートを取り出して、小粒のそれを口の中に放り込んだのだった。
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 サイレンの音はさっきから変わらない位置を保っている。今頃生放送でも取り上げられているだろう。トップエアまでは残り数十分で着く見通しだ。
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「黄泉の国があろうがなかろうが、友人に会えなくてもいいんです。人生って、何も知らない少年兵と同じだと思いませんか」
 当然ながら、彼はピンと来ていないようだ。啓治は続けた。
「少年兵の中には、銃の撃ち方も教わらないまま銃を持たされて駆り出される者もいると聞きます。そんな中、突然戦場に立たされるんです。上手に戦場を渡り、生き抜く者もいるでしょう。でも全員がそうじゃない。気付けば人生が終わった子、耐え切れず自ら命を絶つ子。様々いるんです」
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「死後の行先が三パターンあるとしましょう」
 啓治の語りに、彼はもう一粒のチョコレートを食べながら耳を傾けていた。
「まず黄泉の国がある場合。友人が待ってくれています。会えない場合もあるでしょうが、一人くらいはいるはず。次に、生まれ変わりがある場合。子供時代のあの無邪気な感じをまた楽しめる」
 警察署内で何らかの命令があったのだろう、パトカーは一定の距離をとってサイレン音を消した。変わらず尾行は続けているが、青年の顔に落ち着きが戻ってきているのが明白だった。
「最後に、何もない場合。人間が絶望し、悲しむのは感情があるからです。それすらもなくなれば、恐怖すら消え失せる。どうです? 死後の世界というのも悪くないでしょう」
 それから彼は黙したまま、何かを考えるように前を見つめていた。
 フロントガラスの向こう側には、ほとんどライトに照らされる前方車両しか見えない。街灯はついているものの、昼間でもないから窓の外を見ても楽しい思いはしないだろう。しかし構わず、彼は前を見続けた。
 まだ手が震えている。
 青年が言うところの無駄話が終わり、走行中は無言だった。見知らぬ者同士、だというのに車内に緊迫感はなかった。
 トップエアの看板が見えると、啓治は近くの駐車場に車を止めた。気を抜いていた青年は、思い出したかのように慌ててナイフを取り出そうとしたが結局は取り出さずに啓治に命令するのだ。
「降りろ、一緒に中に連れていけ。早く」
 分かりました、と短く返事をした啓治は車から降りて青年の斜め前を歩きながら店の門を開けた。朝まで営業しているから、今の時間に入っても迷惑にはならないだろう。