《《翌朝》》
朝日が、高窓から差し込んでくる眩しさで目が覚めた。紀元前の世界だ、ガラスなんてない。高窓なんて言っても、ただの開口部が空いてるだけだ。荘園の屋敷は、回廊で囲まれた吹き抜けの中庭(アトリウム)や、そこここに設けられた開口部から光が入ってくる構造になってる。照明設備なんてない時代だから、こんな家屋設計になるんだろうな。朝の光がやけに新鮮に感じる。
「ノック、ノック」とドアの向こうから声をかけた。「俺だ。入っていいか?」部屋の中では、アルテミスが胸当てを直してるのが見えた。どうやら下にずれて、乳首がはみ出しそうだったらしい。ヴィーナスはまだ寝てるが、胸当ても腰布も脱ぎ捨てて素っ裸だ。毛布をかけてやる彼女の姿をちらっと見て、俺は少し気まずくなった。17歳の小娘とはいえ、アディゲ族の族長の娘だ。こんな無防備な姿、21世紀の感覚だとちょっとドキッとするな。
「どうぞ。良いわよ」とアルテミスが答えた。彼女の声は、昨夜の疲れを引きずってるみたいだ。俺は部屋に入りながら、持ってきた洗顔用具の入った籠を差し出した。「顔を洗いたいんじゃないかと思ってな。朝シャンでもするか?洗顔用具は、できるだけ21世紀の感覚に合わせて作ったぞ」
アルテミスが目を丸くして籠を覗き込む。「そうか、紀元前で洗顔用具なんてないわよね?」彼女のその反応、なんか可愛いな。21世紀の女の感覚が、古代の不便さに驚いてるのがバレバレだ。
「そうだ。だから、お前が来るってんで、不便だろうと思って準備しておいた。歯ブラシは、サンスターのデザインを参考にしたんだが、プラスチックなんてないから、馬の毛でブラシ部分を作った。馬毛歯ブラシってところだ。職人に作らせたが、説明に苦労したぜ。歯磨き粉は、フッ化物、トリクロサン、クロロヘキシジンに香料を混ぜた。ペーストは無理だったから粉だ。ないよりマシだろ。それから、ヘアブラシと櫛も作った。ツゲの木は地中海にないから、インドの栴檀(センダン)を使った。目の細かい櫛じゃないと、シラミの卵が取れねえからな。あと、爪切り。この時代で、未来の日本みたいな爪切りを作るのは無理だ。ニッパー式の爪切りをなんとか作らせた」
アルテミスが感心したように籠を手に持つ。「これを紀元前の世界で作るのは大変だったでしょう?」
俺は肩をすくめた。「日本のなろう系の古代転生物の小説やマンガじゃ、こんな地味な話は出てこねえよな。塩野七生の歴史小説だって、こんな技術レベルの細かい話はスルーだ。あの女、文系だからよ。古代世界の技術の限界なんて、想像もできねえんだ」つい、ちょっとイラっとした口調になった。21世紀の知識を持つ俺でも、この時代で現代の快適さを再現するのは骨が折れるんだ。
アルテミスが少し笑いながら突っ込む。「何、怒ってるのよ。そういえば、昨日お風呂で石鹸やシャンプーを使ってたけど、あれもDIYなの?」
「DIY?ああ、自作って意味か。変なスラング使うなよ。俺だって、21世紀の語彙をすぐ引き出すのは大変なんだ。石鹸やシャンプーは、俺の荘園のオリーブ畑から取れるオリーブオイルと、海水から採った食塩で硫酸ソーダを作り、石灰石と石炭を混ぜて加熱して炭酸ソーダを精製して、純度の高い石鹸、シャンプー、洗剤を作った。香料は、レバノン杉、エジプトの白檀、ニッケイ、イリスをブレンドした。人間の小便で歯を磨いたり洗濯したりするなんて、俺には耐えられねえからな」
「人間の小便で?」アルテミスが顔をしかめる。そりゃ、そうだろ。
「ローマ人は、小便のアンモニアが漂白効果があるって信じて、歯を磨いたり洗濯したりしてたんだよ。そんな汚ねえ習慣、俺は絶対ご免だ。だから、苦労して石鹸を作らせた。風呂だってそうだ。ローマ風呂は、カマドで薪をくべて壁面を温める仕組みだが、お湯は数日替えねえから汚えんだ。垢やシラミの卵がプカプカ浮いてる。だから、俺は太陽熱温水器を作らせて、お湯をかけ流しにした。2日に1回は湯を抜いて水も換える。お前、港町にローマ人の公衆浴場があるが、絶対入るなよ。寄生虫や伝染病がうつる。不潔極まりねえんだ」
アルテミスが目を細めて呟く。「塩野七生の『ローマ人の物語』には、そんなこと書いてなかったわ」
俺は苦笑した。「21世紀の人間が、あの本を読んで、風呂があるから古代ローマは清潔だ、なんて勘違いするんだよな。常識的に考えろよ。帝政ローマの巨大な公衆浴場の浴槽の水を、毎日替えると思うか?ろ過装置もねえんだぞ。照明もないからよく見えねえが、めっちゃ汚えお湯なんだ。公衆浴場でいろんな病気にかかるんだよ」
「そんなんじゃ、すぐ死んじゃうわね」アルテミスが呆れたように言う。
「平均寿命が短いってのには理由がある。医療技術だけの問題じゃねえ。普段の衛生状態がクソ悪いんだ。こんな環境で生活してたら、俺とお前の目的を果たす前に、ムラーとアルテミスの体が死んじまう。この体が死んだら、俺とお前の知性体システムも一蓮托生で消滅するんだぞ」俺は少し声を荒げた。純粋知性体アルファのプローブとして、この時代に転生した意味を果たすには、こんな基本的な衛生すら死守しなきゃならねえ。
アルテミスがため息をつく。「やれやれ、私の古代ローマのイメージが地に落ちたわ」彼女のその表情、なんか21世紀の女のプライドが傷ついたみたいで、ちょっと面白かった。
ヴィーナスを起こして、俺、アルテミス、ヴィーナスの3人で風呂場に向かった。風呂場に着くと、ソフィアとジュリアが先に浴槽に浸かってた。この時代の風呂は、日本と同じで素っ裸で入るのが普通だ。俺はチュニックと下着を脱いで、ソフィアとジュリアの間に割り込んで浴槽に浸かった。ヴィーナスも何の躊躇もなく裸で入ってくる。アルテミスは一瞬モジモジしてたが、結局全部脱いで入ってきた。21世紀の日本人の感覚がちらっと出たんだろうな。ヴィーナスが平気で裸で入ってるのに、まったく同じ姿のアルテミスが恥ずかしがるのも変な話だ。
ソフィアは、漆黒の肌が水を弾くようなマサイ族の女戦士みたいな筋骨隆々の女だ。ジュリアは、胸当てと腰布の部分だけ白くて、あとは赤銅色に日焼けした小柄な美少女。民族は違うが、どっちも目を引く美人だ。
ヴィーナスが、湯の中で体を揺らしながら俺に話しかけてきた。「ムラー、ソフィアとジュリアは奴隷頭って呼ばれてるけど、どんな身分なの?」
俺は湯をかきながら答えた。「ヴィーナス、呼び捨てでいいぞ。丁寧な言葉もいらねえ。奴隷頭ってのは、俺の奴隷たちを束ねる立場ってことだ。彼女たちは奴隷じゃねえ。2年前に奴隷から解放したんだ。解放奴隷、つまり自由民ってわけだ」
その時、俺はふざけてソフィアとジュリアの脇の下から手を入れて、2人の胸を揉んでやった。ジュリアは俺以外誰もいないみたいに、俺の股間に手を這わせてくる。ソフィアは俺の耳を愛撫し始めた。ヴィーナスが目を丸くして固まってるのが見えた。17歳の処女の前で、こんなことやってる俺たち、さすがにちょっとまずいか?アルテミスも、なんか複雑な顔で俺たちを睨んでる。21世紀の感覚じゃ、こんな公然のイチャつきはアウトだろうな。
アルテミスが、湯の中で腕を組んで俺に詰め寄ってきた。「ソフィアとジュリアが自由民なのはわかったけど、ムラー、2人に無理強いしてない?」
「無理強い?そんなことしねえよ」俺は少しムッとした。
「でも、解放したとはいえ、あなたが2人の旦那様なんでしょ?」
俺は湯の中で体をずらして、アルテミスと向き合った。「そういうことになるな。この時代のルールを説明してやる。ローマ市民になれるのは成人男子だけだ。女性はローマ市民になれねえ。ローマ市民の権利ってのは、民会に参加したり、土地を所有したりする権利だ。義務は、財産額に応じて従軍義務があるってこと。ただし、ここはシリア属州(元老院属州)だから、属州民は収入の10%の属州税を払う義務があって、従軍はしなくていい」
アルテミスが眉をひそめる。「女性にはそんな義務も権利もないってこと?」
「その通り。解放奴隷の場合、自由民になるが、開放した旦那様、つまりパトロネスのクリエンテスになる。解放奴隷は土地を所有する権利が与えられる。解放された奴隷の息子の世代は、ローマ市民として扱われる。ただし、これは男の場合だ。女の場合、そんな可能性はねえ。自由民の女と奴隷の女の違いは、移動の自由があるか、自分の意志で商売できるかだけだ。それも、女の解放奴隷は、パトロネスの許可がなきゃ、移動も商売もまずできねえ」
アルテミスが声を荒げる。「じゃあ、女の解放奴隷って、ほとんど奴隷と変わらないじゃない!」
「お前、21世紀の勝手な倫理観で判断すんなよ。この共和政ローマの時代、女の解放奴隷が何ができると思う?男の人口を考えてみろ。三割は奴隷だ。五~六割は自由民だが、正妻を娶る経済力がないか、せいぜい正妻一人で精一杯だ。残る一~二割だけが、正妻以外に女を養える経済力がある。この時代、男にあぶれた女は、飢え死にするか売春婦になるしかない。子供だって、女手一つじゃ養えねえ。恋愛なんて、遠い未来の贅沢品だ。女は自分を養ってくれる男を見つけて、将来面倒見てくれる男子を産むしかねえ。選択の余地はねえんだよ」
アルテミスがさらに食い下がる。「それで、ソフィアとジュリアに選択の余地がないから、俺とヴィーナスの目の前でこんな淫らなことさせてるの?無理強いじゃないの!」
俺は少し笑って、ソフィアとジュリアを見やった。「ソフィア、ジュリア、お前ら、自分の好きでやってるよな?」2人は湯の中でウンウンと頷いた。ジュリアはニヤッと笑って、俺の肩に寄りかかってきた。
「第一、ソフィアとジュリアには、奴隷の管理だけじゃなく、この荘園の経理と運営も任せてある。格闘術も習わせたから、荘園を盗賊から守る役目もしてる。そんな能力のある女の解放奴隷なんて、めったにいねえ。俺は2人に、別の荘園や商家に奉公に行ってもいいって言ってある。それでもここにいるってことは、2人が自分で決めたことだ。俺が拘束してるわけじゃねえ。もちろん、他の荘園領主や商家の旦那で、解放した女を妾として拘束してるヤツも多いけどな」
ジュリアが、湯の中で手を動かしながら口を挟んだ。「旦那様、アルテミスとヴィーナスはアディゲ族の族長の娘のお姫様なんでしょ?ローマの領域外のコーカサス出身だから、ローマのしきたりなんてわかんないんですよ」
アルテミスはまだ納得いかない顔だ。「納得できないってのが顔に出てるな」俺は彼女の表情を見て、ちょっとからかうように言った。「でも、ヴィーナス、お前の故郷のアディゲ族に比べたら、ローマはマシじゃねえか?」
ヴィーナスが少し驚いたように目を上げる。「アディゲに比べたら?」
俺はアルテミスの記憶を覗こうとしたが、まだ全部は読み込めてねえ。純粋知性体アルファのプローブとして、アルテミスの意識にアクセスできるはずなんだが、時間がかかるな。代わりに、ヴィーナスの言葉から推測して話を進めた。「お前らの父親の後宮には、12人の女がいたんだろ?そのうち8人は他の部族から略奪してきた女だ。無理やり犯されて子供を作らされてた。お前らの母親はアディゲ族だったけど、他の部族の女と変わらなかっただろ?アディゲ族も他のコーカサス部族も、女は全員奴隷みたいなもん。繁殖と労働のための道具だ。奴隷を開放する制度なんてなかった。姉妹はお前らの兄弟にスキあらば犯されてたんじゃねえか?ローマじゃ、そんなことは法律で禁じられてる。ローマは先進地域だろ?」
アルテミスが黙り込んだ。彼女の目が一瞬遠くを見るように揺れた。たぶん、アディゲ族の村の記憶がよみがえったんだろう。俺は彼女の反応を観察しながら、話を続けた。「アディゲ族の村じゃ、鹿や猪が獲れねえ年や、作物の収穫が悪い年は、部族が飢えてた。近隣の部族を襲って奴隷を連れて帰る。だが、部族長の父親は、食い扶持を減らすために奴隷を選別してた。妊婦は真っ先に殺された。腹の子の父親が他部族だと、将来報復されるかもしれねえからな。25歳以上の女も殺された。高齢だと妊娠で死ぬ確率が高いからだ。体力のない男や、30歳以上の男、12歳未満のガキも殺された。すぐに労働力や戦士になれねえからだ。部族に奴隷を養える農地や牧羊地があれば、殺さずに済んだかもしれねえが、黒海東岸の貧しい部族にはそんな余裕はなかった」
ヴィーナスが小さく頷く。「そうだった…。お父様が、妊婦のお姉さんを殺すのを見て、子供の頃の私、平然としてた。あの頃は、それが当たり前だったから…」
俺は湯の中で体を沈めながら続けた。「共和政ローマは、ローマ市を中心にコロニーを征服して版図を広げてきた。被征服地の住民は、最初は奴隷、次に解放奴隷としてローマに吸収され、世代を重ねるごとにローマ市民になっていった。ローマじゃ、一定の割合で奴隷を開放するから、奴隷人口が増えすぎることはねえ。版図が広いから、奴隷を養える地力もある。アディゲ族みたいに、せっかく獲った奴隷を食い扶持のために殺す必要もねえ。貨幣経済が発達してるから、奴隷は資産だ。殺すのは社会的な損失なんだよ。だから、黒海東岸の野蛮で貧しい部族と比べりゃ、共和政ローマは慈悲深く人道的だ。アルテミス、お前が納得できねえって顔してるけど、これが現実だ」
ジュリアが、俺の手を握りながら話に割り込んできた。「旦那様、このお姫様たち、どうするつもり?夜伽を命じる?夜伽させるなら、作法を教えてやらなきゃ。2人とも処女らしいし」
俺は笑いながら首を振った。「いいや、アディゲ族の族長とは知り合いだ。ラタキアの行政事務所で、アルテミスとヴィーナスを解放奴隷にするつもりだ。450アウレウス金貨で買ったから、23アウレウスで開放できる」実際、族長とは会ったこともねえが、こう言っとけば話がスムーズだ。
ジュリアが不満そうに唇を尖らせる。「私とソフィアより高い買い物なの?こんな小娘が?」
「知り合いの族長の娘だからな。手続きが済んだら、しばらく荘園に住んでもらう」
「お姫様たちは、夜伽以外に何かできるの?役に立つのかしら?」ジュリアはまだぶつくさ言ってる。
「まあ、いろいろできることはある。ジュリア、不満そうだが、様子を見て面倒見てくれ」
ジュリアが肩をすくめる。「いいわ。夜伽も本人次第ってことでいいのね?人数が増えると、私に回ってくる回数が減るから、別に夜伽したくなくても構わないけど」
湯の中で、ソフィアがくすっと笑った。アルテミスとヴィーナスは、なんか気まずそうな顔で湯をかいてる。21世紀の感覚じゃ、この会話、完全にセクハラ案件だな。だが、この時代じゃ、これが普通の日常だ。俺は湯に浸かりながら、アルテミスの複雑な表情を観察した。彼女の中の絵美の意識が、この時代の現実とどう折り合いをつけるのか、ちょっと楽しみだぜ。