ここは
龍洞湖、本須賀町のほぼ中央に位置する巨大な湖だ。マス釣りのメッカとされ、県の内外を問わず来訪者が多い。
「よーし、今日はサバを釣りまくるぞぉっ!!」
甥っ子は張り切っているようだが、残念ながらサバは川の魚じゃないんだ。ましてや栃木は海なし県、潮風には縁もゆかりも無い。
「おじさんも、今日は釣りまくっちゃうぞぉっ!」
細かいことはさておき、まずは士気を高めよう。何事も、楽しむことが第一だ。
「あっ、朱莉ちゃん!」
俺達の向かい側から、牛郎と同い年であろう女の子がやってきた。朱莉ちゃん、確か牛郎のクラスメイトだったか。
「吉野屋君! こんなところで会うなんて偶然だね!」
ツーサイドアップに結んだ髪がチャームポイントの彼女、屈託のない笑顔が実に可愛らしい。何となく、幼い頃のみのりに似ているような気もする。
「うん、今日はサバを釣りに来たんだ!」
牛郎は息巻いて語るが、それは自らの無知を晒しているのと同じだぞ? おそらく、朱莉ちゃんの頭には疑問符が浮かんでいることだろう。
「サバかぁ。釣れると良いね!」
朱莉ちゃんは牛郎の無知を笑わず、あくまで話の調子を合わせている。こういう娘、きっと将来はモテるだろうなぁ。
「お兄ちゃん、私もサバを釣る!」
……違う、朱莉ちゃんも単純に無知だった。前言撤回、彼女の将来もちょっと心配だ。
「朱莉、サバは葛浦まで行かなきゃ釣れないぞ?」
朱莉ちゃんの話を、お兄さんはやんわり正した。この物腰の柔らかさ、きっと彼は将来有望だろう。
「けれど、もしかしたら本当にいるかもな……サバ」
お兄さん、まさか君まで妄言を宣うのかい? それとも、何か確証があるのか。
俺からすれば、彼らの会話はすでに混沌を極めている。この空気、どうする……?
「嘘に決まってるだろっ!」
お兄さんは笑って誤魔化すが、彼の目は半分真面目だった。龍洞湖って、本当にサバがいるのか……?
「さて、俺達はイワナを狙うぞ!」
朱莉ちゃん達は、俺達へ一礼の後に去った。イワナ、釣れるといいな?
ーー
俺達は桟橋周辺へやってきた。この辺りは、足元付近に獲物が潜んでいる可能性が高い。
「そぉーれっ、えいやぁーっ!」
牛郎は、力任せに釣竿を振り出した。甥っ子よ、フライフィッシングはそういう馬鹿力を使う釣りじゃないんだ。
「違うぞ牛郎、俺のやり方をよく見ていなさい」
フライフィッシングは、先端の毛バリを送り出すようにポイントを探る。新体操のリボンを回すように、ゆったりとしたイメージで。
「おっ、来た来たっ!」
ポイントさえ当たれば、マスはすぐに食いついてくる。俺の初手はヤマメ、まずまずだ。
「おおっ! ここは入れ食いだなぁ!!」
加えて、同じポイントに複数匹のマスがいることも珍しくない。すまない、今日はおじさんに運が向いているみたいだ。
ーー
その後もヤマメの入れ食いは続く。魚籠の魚は、全部俺が釣ったものだ。
「僕にぃー魚がぁーーキタァーーーっっっ!」
粘り強くキャストしていた牛郎に、漸く当たりがあった。甥っ子よ、坊主にならなくて良かったな。
「やった、サバだぁ!」
俺は耳を疑った。まさか、そんな訳ないだろうと。
けれど、牛郎の手元には確かにサバのような魚がいたんだ。あのお兄さんの言葉、本当だったのか!!
「このサバ、読めるぞ!!」
サバを手に取った牛郎は、何やら解読を始めた。サバを読むって、そういうことなのか……?
「宇宙天地余暇之坊主ーー」
牛郎は、お経とも詠唱ともとれる難解な言葉を発している。サバの表皮に、そんな言葉が刻まれているのか?
「ーー帝国群m……ああっ! 文字が消えていく!!」
解読の途中だったが、惜しくもその全容は明らかにならなかったようだ。おそらくサバの生き腐れか。
「それで、サバには何て書いてあったんだ?」
聞き慣れない言葉、俺は当然理解など出来るはずもない。その真意、甥っ子に聞いてみたい。
「7 の月、天より恐怖の大王が舞い降りるであろう……だったかな?」
恐怖の大王が舞い降りる……? 甥っ子よ、それは随分と物騒な話じゃないか。