※この話は自殺について扱っています。自身の心身と相談し、問題ないことを確認のうえでお読みください。
どうしてだろう、僕はこの日常に違和を感じていた。
昨日までと同じ日々が繰り返されてはならないような気持ちを、ここずっと感じていた。目を閉じれば瞼の暗闇が見えて、開けば差し込んでくるのは教室。十五時を過ぎ、帰りのホームルームが近付く。
「そういえば、木津ってなんで転校しちゃったんだろうな」
木津の男友達がそう言っている。疑問に思うのも無理はない話だ。木津勇志をよく知っているのは僕だけなのだから。
「まあスクールカースト最上位だったもんなあ。結局彼女できたんかね」
「作らなかったってさ。美香が言ってた」
「マジであの野郎、転校して正解だな。じゃなきゃ今頃ブン殴ってたぜ」
このクラスで一番下の立ち位置だった僕にとって、勇志に対する気持ちは泥のように灰色で、気持ち悪いものだった。僕もそうだが、勇志は勉強ができなかった。学生なら勉強する時間を、別の何かに費やしているのは周知の事実。
オシャレと音楽だ。勇志は授業の中でも音楽が一際輝いていた。もう一つは歴史。それも西洋文化を好んでいて、いつだったか僕にこう言った。
「俺、実現してみたいんだ。世界平和」
僕はこの後で、そんなのは無理だと言った。僕は反射的に言ってしまって失言だと気付いたが、彼は翳りさえ見せずに成し遂げてやると豪語した。それから数ヶ月後、ニュースを見た彼はどんな気持ちだっただろう。
「女にモテてお人好し。で、ギターもドラムも歌も上手いうえに作詞作曲できますよって。天は二物を与えずってマジで嘘っぱちだよな」
「そんな奴が榎木と一番つるんでたってのもヤベー話だけど」
自分の名前を呼ばれて心拍数が上がった。
確かに僕たちは親友だった。泥のような感情を抱きつつ、きっとその感情に気付きながらも木津は僕と一緒に遊ぶのを選んだ。理由はまったく分からない。実をいうと、昨日も僕は彼と話していた。彼の家に入って、残念ながら僕の声は届いていないようだったけれど。
彼に向かって話し続けるだけだった。
当然だ。答えられるわけがないのだ。
「っていうか榎木のせいで転校したんじゃねえの」
堪らず、僕は彼らに向かってウルサイと言った。彼らに聞こえるような声で。だが彼らにも僕の声は届かなかった。何食わぬ顔で話を続けるのだ。
学校のチャイムが鳴ったから、ホームルームが始まるのだろう。手には何も持たず帰ることにした。また勇志の家に行こうかと思ったが、今日はやめた。代わりに向かうのは墓が的確だろう。
自分を殺めると書いて自殺。僕に抵抗はなかった。それを勇志に打ち明けた時がある。
「分かるよ、その気持ち」
いや、君には分からない。分かりようがない。
「時々感じるんだろ。自分にとって、この人生は重すぎるってさ」
まさか、と僕は驚く他にできなかった。
いつも楽しそうにして、友達も多く将来に靄の無さそうな勇志から出て来る言葉とは思えなかった。最初、僕は映画かドラマかの引用だとしか考えられなかった。
校門を通り過ぎた先、春の終わりを感じさせる日差し。このまま真っ直ぐいけば大通りに出て、横断した先の学生街から先にいけば僕の家だ。当然僕は家を素通りして、お墓まで歩いていく。命の灯が消えてから今日でちょうど一ヶ月だ。僕が向かう場所としては一番だった。
勇志はよく、僕の家に来てくれた。特に僕が不登校をした日なんかは絶対に来たのだ。中学で友達がいなかった僕を心配してくれた母は、彼を歓待した。
「克っちゃん、お腹が痛いって聞いたけど大丈夫か」
放っといてくれよ。
「――なんだよ、この本」
彼が目にしたのは、僕が黙って購入した自殺本だった。弱虫な僕は、なるべく苦しまないような死に方を模索していたのだ。痛みも苦しみも嫌だって我ながらワガママが過ぎる。その日僕が学校にいかなかったのはその本を読んでいたからだ。
ノートパソコンの履歴には今も残っている。練炭、手首、樹海といった言葉の数々。履歴というのはいつか消えてしまうものだから、自然に無くなるのを待った。自分で消す勇気が無かった。
その本を見た時、勇志は泣いたのだ。
「俺、世界平和なんて言ってる場合じゃなかったよなあ……」
おかしな話だが、僕たちはその後でカラオケにいった。外に出ないのは良くない、と勇志が連れ出した。カラオケは好きじゃなかったが、彼の歌声はやはり魅力的だった。音楽について疎い僕でも分かるくらい上手だった。
僕は彼に、好きな歌手は誰? と訊いた。彼は洋楽が好きだったからだろう、チェスターベニントンだと言った。僕は誰だか分からなかったけれど、チェスターには絶対に勝てないと笑いながら言っていた。
家に帰って調べてみたら、なるほど確かに。僕は納得した。
もうすぐお墓に着く頃だ。色々回想してきたが、その間にも電車に乗って二駅も移動した。僕にとっては二駅移動するだけでも長旅だ。けれど今日はそれを長旅だと思わなかった。スマートフォンを開いてみてみると、メッセージがまだ遺っている。
『昨日のニュース見たか?』
勇志から突然送られてきたものだ。時間は朝。二月下旬の金曜日だった。
『見てない。何かあった?』
『いや、見てないならいいんだ』
それから数分置いて。
『なんで繰り返しちまうんだよ』
文末に、泣いている絵文字が二つ残されていた。その日、勇志は学校に来なかった。
その日家に帰ったら、母が真剣な眼差しで電話をしていたのを聞いた。母は優しい笑みを浮かべながら、鞄を持ったまま僕にこう言った――。
お墓に着いた僕は、手荷物が少し足りなかったと後悔した。だから僕は周りを見渡して、良いのがないかを探した。今見えているところにはないから、お墓を出て再び周りを見渡した。そしたら手頃なものを見つけたのだ。
この花の名前は分からない。だが紫と白が混ざったような花の色、その中心には蝶のような模様があるからかなり特徴的だ。僕は一軒家の庭から外に伸びていたその花を一本千切って、もう一度お墓に戻った。
向かうべき場所に着いた時、僕はその花を彼の上に置いた。
木津勇志
君がいなくなってからもう一ヶ月も経つなんて考えられないよ。二度と会えないって実感する度、息の仕方を忘れそうになる。
もし僕に魔法が使えるなら命の交換こをしたい。君はみんなから必要とされていたよ。
なんで僕じゃなくて、君が自殺しちゃうんだよ。
なんで何も相談してくれなかったんだい? 君はいつもそうだった。僕の心配ばかりだ。
早すぎんだよ、諦めるの。
遺書はあったが、僕は見る勇気がなかった。母は僕に絶対見るべきだと事ある毎に言ってくれる。無理だと声を荒らげてしまってからは言われなくなったけれど、どうしてもできなかった。見たら最後、本当に勇志と会えなくなるような気がして。
「君は、その子の友達かな」
唐突に隣から声をかけられた。そこに立っていたのはハンチング帽子を被ったおじさんが立っていた。初めてみる顔だ。人見知りだった僕は途切れ途切れの形になっていない言葉しか出せなかった。
「あ、ごめんよ。驚かせるつもりはなかったんだ」
年齢は四十台くらいだろうか。僕の父と同じ年代に思える。髪は短く帽子の中に全部入っているようで、眉毛が薄い。見るからに柔和で、暖色系の七分袖シャツを着ていた。下はジーパンで黒い。
「僕は黒番仁だ。中学の頃、勇志君の担任だった」
仁は手に革製の茶色い鞄を持っていたが、僕と同じで花を持ってきている様子はなかった。たまたま立ち寄っただけかもしれない。少しだけ親近感のようなものを湧かせられ、彼の穏やかな声もあいまって緊張が収まり始めた。
「僕にとって、勇志は親友でした」
「そうか。じゃあどうして彼が命を絶ったか、僕に教えてほしい。ここで君と会ったのも縁だろうし、知りたいんだ」
口は噤まれた。僕はしきりに目を泳がせながら、適当な言葉を見つけ出そうともがいた。しかしどの言葉も溺れてしまって、何も出てこない。
遺書を読んでいないから分からないのだ。どうして彼が海に飛び込んだのか。
「君は今、正しいことをしてるよ」
もがき苦しむ僕に手を差し伸べるようにして仁はこう続けた。
「人がどうして死ななければならなかったのか、理由なんてあっちゃいけないんだ」
「どうしてですか」
帽子を脱いだ仁は、勇志に向かって一礼をして黙とうを捧げながらこう言った。
「死者の人生を僕たちが決めつけるのは、おこがましいと思わないかい」
帽子をかぶっている時は気付かなかったが、彼は少しだけカッコイイ髭を鼻の下に生やしていた。不潔な感じはしない。
声の震えを抑えながら僕は、ほんの一歩しかない勇気を口にした。仁ならどう答えるだろうと気になったからだ。
「友達もいて人気もあって将来有望の勇志は、本当に理由もなく死んでしまったんですか」
長い黙とうを終えた仁は、静かに答えた。視線は僕とは合わせなかった。仁は真っ直ぐ目の前の墓石を見ていた。
「人が絶望するのは何かを失った時じゃない。その時に失意を感じるだろうが、それは偽りの感情なんだ。絶望って、どういう漢字で書くと思う。望みを絶たれると書くんだ」
勇志が好きな言い回しだった。漢字を分解して、意味を紐解くのだ。
何かが起きるのは、必ず切っ掛けがある。頭の良い大学に行けた理由は、しっかり勉強をしたからだというように。人の死についても、一つではなく色んな原因があるのくらいは僕もよく分かっていた。そんな僕の世界観を、仁はこう言って広げた。
人が絶望するのは何かを失った時ではない。
「未来に殺された時だよ」
仁は空を見上げて、目に涙を浮かべていた。
空は青空だった。憎いくらいに青かった。