そして、甲子園の準々決勝当日。
私は朝三時起きで、
京都の宿泊所から
兵庫にある甲子園会場へと向かっていた。
「眠……」
正直、コンディションは最悪。
一時間も眠れなかった。フルートを吹き過ぎて、唇も感覚がない。
バスのなかでウトウトと船を漕いでいると、手のなかのスマホがびびんっと振動した。
画面を開く。
『昨日はごめん。怒らせると思わなかった』
メッセージの送信主は、銀だった。
一瞬にして目が覚めた。飛び起きてスマホを握る。
『おはよ』
すぐに既読が付き、返信が来る。
『おはよ』
胸のなかがじんわりと温かくなった。
まだ寒い、早春の朝。窓が少し曇り出す。
続けて『バス?』とメッセージが来る。
『うん。そっちも?』と返す。
『うん。こっちはもうすぐ着くけど』
『そっか』
銀とふたり、四角い枠のなかで、会話を続ける。
胸が甘く疼く。
『昨日は私もごめん。もう怒ってないから。今日、頑張ってね、精一杯応援するから』
……いつもよりも少しだけ、素直になれる箱のなか。私は本音を指先に込める。
『ありがと。耳、すましとく』
さらに続けて返信が返ってきた。
『あのさ。昨日美音、自分は二軍だとか言ってたけど……俺、美音のフルートじゃないと頑張れないから。だから、思いっきり吹けよ!』
文字のあとに続く可愛らしい絵文字マークに、私はくすりと笑みを零しながら指を動かした。
『よく言う。今日の試合、負けたら許さないからね! こっちはめちゃくちゃな代償支払って応援するんだから』
『分かってるよ! 俺だって明後日の演奏会、絶対見に行くからな』
『えっ、来るの?』
『当たり前だよ! だって、全国放送とかじゃなくても、美音の甲子園はそこだろ? 言っておくけど、俺が見に行けば百人力だからな! あ、もちろんミスとかしたら会場で指さして笑うからな』
胸がきゅっと締め付けられるように痛んだ。なのに、ぜんぜんいやじゃないから不思議だ。
『……分かってるってば』
私は、今の精一杯の想いを指に込める。
『そろそろ着くわ』
『あ、待って』
私は、急いで指を動かした。最後にもうひとつ、伝えたいことがある。
『昨日の話。言っておくけど、私がフルート続けてるのは銀のせいだから! 銀が野球してるからだから! その理由、少しは考えろ、この鈍感バカ!』
送信して、すぐに電源を切った。
うわぁ。
心臓がバクバクする。
言ってしまった。やってしまった。送ってしまった。
こんなメッセージでは、たぶんアイツには伝わらない。鈍いアイツには伝わらないけれど。
……でも、これが今の私の限界だから。
私は窓の向こうの空を見上げる。
今日は、精一杯応援してやる。
今は、明日のことなんて考えない。今日、これからのことだけ。
この一戦の四番バッター、銀のことだけを考えて、私は甲子園に立つのだ。
***
そして、明日海高校野球部の春の甲子園は、準決勝で幕を閉じた。
その翌日、慣れない場所での練習の疲れからか、私はひどい高熱を出した。
私は結局、甲子園の直後に予定していた演奏会には出られずに終わり、一軍に上がる機会も失ってしまった。
つまり私は、完全にやる気を失っていた。
春休み、ベッドのなか。
ピピッと音が鳴る。
脇に差していた体温計を見ると、もうすっかり熱は下がっていた。
「ズル休みしてしまった……」
呟きながらぼんやり天井を見上げていると、スマホが振動した。見る気にならないから放置する。……が、スマホは振動し続けている。
どうやら、電話らしい。
私は仕方なくサイドテーブルに置いてあったスマホを取ると、かけてきた相手の名前も確認しないまま、耳に当てた。
『お、やっと出たな』
「……ぎ、銀!?」
カッと目が開く。一瞬で目が覚め、飛び起きる。
『熱、どう?』
「……あ、う、うん。もう大丈夫」
本当は、昨日には熱が下がっている。
『……そっか。あのさ……演奏会、残念だったな。あんなに練習してたのに』
「……べつに。どうせ二軍だし」
自嘲的に笑う。
『あーでもさ、ほら、オーディション! 五月にあるんだろ? それで一軍目指せばいいじゃん』
私はため息をつく。
「……無理だよ。新入生も入ってくるし、私なんかより上手い子なんていっぱいいるんだから」
『あーまぁ、たしかに。俺も練習しないとレギュラーやばいな』
「……今年は受験だし、私は勉強に専念しよっかなぁ」
『……俺は夏の甲子園、また頑張るよ』
「……そっか」
今回の明日海高校野球部は大健闘だったとはいえ、銀にとっては不満足の結果だったのだろう。
『だからさ……美音も一緒に頑張ろーぜ。美音がフルート持って応援席にいたら、俺、すげー頑張れるから。いなきゃ無理だから』
心臓が、どくんと大きく脈を打った。
「……なに、それ。べつに私は関係ないでしょ」
『あるよ!』
「はぁ? なにがよ」
お互いに若干、喧嘩腰になる。
『だから……俺にとっての一軍は、ずっと前から美音一人なんだっつーの!』
「は……はぁ?」
意味が分からない。私は二軍だ。努力しても天才に敵わない凡人。
それなのに。
『美音、言ったじゃん。俺が野球やってるから吹奏楽やったって。だったらさ、演奏会に出られなかったくらいで凹むなよ。夏もさ、また俺と一緒に頑張ろーぜ! 俺らの甲子園目指してさ』
ハッとする。
「……俺らの?」
『そうだよ。俺らの甲子園だろ?』
俺の、じゃなくて?
「…………」
なによ、それ。ずるすぎるでしょ。
「……ばか銀」
呟くと、スマホの向こうからからからとした笑い声が聞こえた。
『約束だからな! じゃ、また学校でな! 早く風邪治せよ』
直後、ぷちっと接続が切れた音がする。しばらく口を尖らせてスマホを見ていた。
「あぁ、もう」
手で顔を覆う。
「最悪……風邪……ぶり返したじゃんか」
私は赤くなった頬を両手で押さえ、ベッドの上でうつ伏せになりながら、じたばたとバタ足をする。
そして、ひとしきり暴れると、ガバッと起き上がった。
こうしてはいられない。あいつに負けてばかりはいられない。
「……絶対一軍になってやる」
そう、覚悟を決めて。
私は早々に制服に着替え、フルートを持って学校に向かうのだった。