カフェバーのカウンター席で、ひとり静かに酒を飲んでいると、隣の席に男がやってきた。
おぼつかない足取りで席に着いて、店員に酒を注文する。
それから男は僕のほうを見る。
目が合った。
五十代ぐらいだろうか。顔が赤いが、どこかやつれた雰囲気があった。
僕は軽く会釈をして、視線を戻そうとすると、男は僕に話し掛けてきた。
「聞いてくれよ。今日、結婚記念日だったんだよ。二十五年目の」
男は酔っていた。
この店には、はしごしてきたのだろうか。
そんなことを考えながら、僕は儀礼的に「おめでとうございます」と返した。
すると男は、突然こう言った。
「兄ちゃん、今日の月は見たか?」
突飛な質問に僕は戸惑った。
「え、ええ……まあ、少しだけ」
「今日の月は不細工だったよな。中途半端な形で、しかも雲でぼやけちまってよ」
「はあ」
「けどよ、兄ちゃん。知ってるか? 月はいつも綺麗なんだぜ?」
「え?」
僕は首を傾げる。
意味がわからなかった。
なぜならついさっき、他の誰でもないこの男が、今日の月は綺麗じゃなかったと口にしていたからだ。
僕は困った。そして、そんな僕の反応を男は楽しんでいるようだった。
「月っていうのはよ、毎日形から大きさ、色まで変わって見えるだろ? けどよ、月はいつも同じ形で、同じ大きさで、同じ色なんだよ」
「ん、んん……?」
僕はさらに首を傾げた。
男の言っていることがまるで理解できなかった。
「ははっ。いい反応するなあ、兄ちゃん」
男は嬉しそうに笑う。
「月の形が変わるのは、月と太陽と地球の位置関係が変化するからだ。それくらいは小学校で習ったろ?」
「ええ、一応」
「そこにさらに、その日の天気だったり大気の状態、観測者の状態とかの条件が重なって毎日違う月になるわけだが、それは見え方が変わってるだけなんだよ」
「……つまり、月そのものは何も変化していない……ということですか?」
「そうだ。よくわかったな」
男はまた嬉しそうに笑う。
「だから、月はいつも綺麗なんだよ」
「なるほど、勉強になりました」
このタイミングで、男の注文した酒が提供された。
男はそれをひとくち口に含んで、深く息をつく。
なんとなく、キリが良かった。
僕は、今度こそひとりの時間に戻ろうとした。だが、そうは問屋が卸さなかった。
「それでよぉ! 俺は思ったんだよ!」
突然の大声に、僕はびくりとする。
「ど、どうされたんですか」
「どうもこうも、まるで俺の嫁みてぇだなって思ったんだよ!」
「は、はぁ……」
「出会った頃と比べれば、シワも増えたし、白髪も増えた。お互い歳をとって、見え方も変わっちまった。だけどよ、中身はあの頃のまんまだ。俺が惚れた時のまんま、気のつえー、いい女だ」
「そうですか、それは素敵ですね」
「ああ、そうだろ」
男は照れ臭そうにはにかむ。
「夏目漱石の『月が綺麗ですね』ってやつも、俺から言わせればまだまだだな。なんつったって、月はいつも綺麗なんだからな」
「たしかに」
「だからよ、俺は今日、嫁に言ってやったんだ」
男は少し間をもたせて、言った。
「月は綺麗ですね。ってな」
「そ、それは……」
「ああ」
「酷く誤解を生みそうですね……」
「そうだよな……、俺も言った後に気がついたよ……」
男は項垂れる。
この場合、男を慰めたほうがよかったのだろうけれど、事の顛末が気になってしまった僕は、遠慮なく訊いた。
「それで、その後はどうなったんですか?」
「ああ、嫁から返事をもらったよ」
「それは、なんて……」
僕は息を飲んで、続きを待った。
男は、躊躇いがちに口を開いた。
「裏側までちゃんと見たのかしら。ってな」
「そ、それじゃあ、あなたは……」
「ああ、今日は祝勝会だ」
僕らは互いのグラスをかち合わせた。
男は少年のように笑っていた。