あの一昨年の冬の日、『後見人』は言った。
架空の物語でよくあるでしょう。難病患者の治療方法が見つかるまで、人間を人工的に冬眠させる。
われわれは現実的にその研究をしているのですよ。
彼は研究の協力者であり、被験体です。
今までに幾度も深い眠りと覚醒を繰り返した。
彼の功績は多大です。今後も更に医療分野に貢献するでしょう。
彼は私にとっては本物だが、貴方は似せものでしかない。天地ほども異なる。
貴方とは双子の兄弟であっても、ですよ。
少年の姿をした彼は、ぼくたちが三歳のころまで一緒に育った、ふたごの弟だと。
ぼくと彼の遺伝子が同一である証明書、ぼくが唯一の肉親だと思っていた曽祖父が生前に『後見人』と交わした数々の契約書、彼の『優秀な』臨床試験報告書、次から次に出される書類の束。
ぼくは彼のことを何一つ覚えていなかった。
曽祖父は、ぼくが両親と祖父母を早くに亡くしたこと以外、言い残さなかった。
幼いころから約二十年を研究所で過ごした彼は、何も望まなかったという。
それが突然、期限付きで研究所を出て、ぼくの助手になりたいと強く主張したのだと。
数ヶ月に渡る説得と頑なな反論、数々の攻防の末、彼のこれまでの『優秀な』功績を評価し、『二年のみ』許されたと。
『雇用主が解雇を申し渡した時点で即研究所に戻る』ことを条件として。
「無意味な二年です。あなたたちは愚かですよ。実に愚かです」
『後見人』が何度も冷たく繰り返した言葉は、うらやましいと言っているようにも聞こえた。
ぼくの研究室の窓から見える庭の染井吉野の木は、もう満開に近かった。ほのかな薄紅色と陽の光を受けた白が静かに咲く姿は、止まった時間のなかにいるように思えた。
ぼくは窓際で丸椅子に座り、紫色の目のきみに語りかける。
「きみは、もっと長く生きたいと願う?」
たとえば冬。雪のふるのを見たくはないのか。
きみは今日も穏やかに微笑む。
「わたしのただひとつの願いは、花を咲かせることだけでした。
いまは、わたしの妹たちがあなたとあの子に出会うことが、わたしの願いです。
花は必ず終わります。それは自然の眠りです。
わたしに悲しみはありません」
その声は、遠くから聞こえる葉ずれの音のようだった。
研究室の扉がひらかれ、助手の彼が入ってきた。窓際まで歩いてくると、『花のひと』にあいさつをする。
「あの桜、永遠に咲いている気がすると、君は思う?」
ぼくが尋ねると、君が窓の外に顔を向ける。
まぶしいものを見るように目が細められた。
「思うよ」
ぼくたちは窓辺に並んで、あいだに『花のひと』を挟んで、それぞれ丸椅子に座った。
「ぼくは君のことをなにも覚えていない」
そう言うと君は笑った。
「僕はひとつだけ覚えている。
離れたところに立っていたきみが、不意に声をあげて泣き出したんだ。
僕はどうしたらいいかわからなくて、そばにいってきみの頭をなでた。
きみはなぜかぴたりと泣きやんで、そのまま歩き出した。
僕はびっくりした。
覚えているのはそれだけだ」
「それだけ?」
君が想うほどの強いなにかを、ぼくは持っていないと思っていた。
それなのに、君の記憶もぼくと大差ない気がして、ぼくは拍子抜けした。
「それだけで、僕にはじゅうぶんだった。いつか、きみに会いたいと思ったんだ」
さらりと笑う。
ぼくのふたごの弟が、ぼくの十五歳のころによく似たひとが、遠くから伸ばした手でふれあうように、ぼくとまなざしを交わす。
おたがいに、似せたもののようでちがう。
紫色の目の『花のひと』も。
「さし木」でふえる染井吉野の桜も。
ぼくたちは、最初はぴったりおなじものだった。それが育ち、まわりを見渡し、言葉を交わし、どこかでふれあい、少しずつ「似たもの」に変わっていった。
ふれては離れ、ひとりで考え、だれかを考え、「おなじ」とはちがう「ほんもの」になる。
「あなたに会いたかったんです」
あの雨が降り出しそうな曇り空の寒い冬の日に、少年はぼくに向けて淡々と告げた。
今年の冬が来たら、彼はこの家を去り、また十年か二十年眠る。
そのころには「二百日咲き続ける花」も終わり、小さな『花のひと』もいない。
永遠に咲く花はないと、ぼくは知っている。
それでも、残るなにかはあったと思う。
翌年の春、ぼくは濃紺色をした二つ折りの博士号の学位記ホルダーの中に、助手であった弟との「雇用契約書」を大切にしまった。
<了>