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2. 桜

ー/ー



 ぼくは鉢植えに近づき、背もたれのない簡素な木製の丸椅子に座った。
「おはよう」
 きみは紫色の目をぼくに向けて微笑む。
 ぼくも自然と微笑を浮かべた。
 窓からは庭の桜がよく見えた。六分咲(ろくぶざ)きの染井吉野(そめいよしの)だ。
 樹齢十五年ほどだからそれほど大きくはないけれど、静けさの中で見るたびに、ぼくは永遠に咲いているような気がしていた。
 だから最初のきみが桜を見て、「永遠に咲いている気がする」とつぶやいたとき、ぼくの心はひどく揺れた。
 おなじまなざしを、ぼくときみは持っているのかと。
 それは今まで遠いところにいただれかと、手をふれあったような感覚だった。

「きみは桜を見て『永遠に咲いている気がする』と思う?」
 ぼくは今のきみに尋ねる。
「いいえ。思いません。ただ、あなたとともに桜の花を見ていたいと思います」
 きみは微笑んで答えた。
 きみは最初のきみとはちがう。姿形は同じでも。
 なぜこんなにもちがうのだろう。きみがいることはうれしいのに、きみの言葉にさびしさを感じる。

「きみはずっと微笑んでいるね。最初のきみはあまり表情が変わらなかったのに」
「あなたが教えてくれたのですよ。わたしがまだ葉であったころに。
 あなたがわたしに『ほほえみ』をさずけてくれたのです」


 ぼくは最初のきみと同じきみを作りたかった。だからきみが残した葉を「さし木」にした。そうすれば、最初の花と同じ遺伝形質が受け継がれる。
 植物は葉からでもそれができる。「分化全能性(ぶんかぜんのうせい)」という、植物を構成するさまざまな細胞からどの細胞にも分化する能力があるからだ。葉から根と芽が出て、いずれ一つの植物になれる。
 ぼくは確かに、葉であったきみに何度も語りかけていた。また会えたら、きみに見せたいと思ったものについて。そのときぼくは、ずっと微笑んでいたのだろうか。

「あなたには最初のわたしが『ほんもの』で、いまのわたしは『にせもの』でしょうか」
 偽物。似せもの。
 同じ遺伝。同じ花。同じきみ。ちがうきみ。
 ぼくはだれに会いたかったのだろう。
「マスター、わが作り(ぬし)。あなたが『ほほえみ』をさずけてくれたように、最初のわたしにも、『桜』について教えてくれた子がいたのですよ」
 きみは穏やかに微笑む。
 ぼくはその相手を知っている。


 自室でひと眠りして起き、昼すぎキッチンに顔を出すと、助手の彼が玉子のホットサンドを作っていた。
 ぼくはふつうの玉子のサンドイッチは好きじゃないけれど、これは好きだ。表情が緩む。
「それ、もらっていっていい?」
 皿に乗せられた二つのホットサンドを指で示す。
「座って食べたらどうですか? 珈琲をいれます」
 自室に持っていくつもりでいたぼくに、彼はあいかわらず淡々と答える。

 ぼくは迷ったけれど、大人しくテーブルについた。
 今まで、彼と仲よくなろうと考えたことは一度もない。二年間、適度に距離を保ち続ければいいと思っていた。
 彼も、こちらに必要以上踏みこむことはなく、助手の仕事と家事をこなしていた。
「マスター。あなたが不在だったときの温度、湿度、水分や養分等の諸環境の管理記録書、部屋の机の上に置いておきました」

 テーブルの上にマグカップが一つ置かれる。珈琲の香りがする。
 ぼくはホットサンドを一つ食べ終わると、向かいの椅子を手で示した。
「君も座って飲んだら。珈琲」
 彼は軽く目を見ひらいていた。いつもなら、食卓をともにすることなどなく、部屋から出ていく。
 しばらく無言でいたが、ぎこちなく珈琲をいれ始め、牛乳を足したマグカップを持ってぼくの向かいに座る。
 ぼくはそのあいだに二つ目のホットサンドを食べ終えていた。

 ぼくと彼が向かい合わせで座るのは、最初の冬の日以来、はじめてのことだった。
「……花のひとに、『きらい』とか言われたんですか」
 眉間にしわを寄せて深刻そうな顔をするものだから、ぼくは珈琲を飲もうとした手を止めて思わず笑った。彼は紫色の目をした小さな生きものを『花のひと』と呼ぶ。

「言われてないよ」
「そうですか」
 彼はまた考えこんでいる。
「君の『後見人』は、ぼくが嫌いなんだろうけど」
 ぼくは別に、それでかまわなかった。
「あの人にはなにもないんです」
 眉間のしわを解いて、抑揚なく彼は言った。視線は合わない。マグカップに口をつけてから、続ける。

「大切にしたいものを持っていないんです」
「君は持っている?」
 彼は顔をあげてこちらを見た。ぼくは視線をそらさなかった。
 不意に彼が微笑んだ。
「いま持ってきます」

 立ち上がり、廊下を軽く駆けていくとすぐに戻ってきた彼は、一枚の紙をぼくの前に広げて見せた。秘密を打ち明けるような楽しさからか、笑っていた。
「契約書じゃないか」
 予想もしていなかったぼくは、(ほう)けた声を出した。
 彼に助手として、家政夫として働いてもらう内容が書かれた、雇用契約書。
「僕とあなたの署名が並んでいる。宝物です」
 彼は、ぼくたちそれぞれが自筆で名前を書き(しる)した紙を大切そうに眺めた。
 雇用契約書は、二枚ある。一枚はぼくが持ち、もう一枚は彼が持つ。
「あなたと僕が持つ、世界でひとつのおなじものだ」
 あまりにもささやかな、宝物だった。



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次のエピソードへ進む 3. 残るもの


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 ぼくは鉢植えに近づき、背もたれのない簡素な木製の丸椅子に座った。
「おはよう」
 きみは紫色の目をぼくに向けて微笑む。
 ぼくも自然と微笑を浮かべた。
 窓からは庭の桜がよく見えた。|六分咲《ろくぶざ》きの|染井吉野《そめいよしの》だ。
 樹齢十五年ほどだからそれほど大きくはないけれど、静けさの中で見るたびに、ぼくは永遠に咲いているような気がしていた。
 だから最初のきみが桜を見て、「永遠に咲いている気がする」とつぶやいたとき、ぼくの心はひどく揺れた。
 おなじまなざしを、ぼくときみは持っているのかと。
 それは今まで遠いところにいただれかと、手をふれあったような感覚だった。
「きみは桜を見て『永遠に咲いている気がする』と思う?」
 ぼくは今のきみに尋ねる。
「いいえ。思いません。ただ、あなたとともに桜の花を見ていたいと思います」
 きみは微笑んで答えた。
 きみは最初のきみとはちがう。姿形は同じでも。
 なぜこんなにもちがうのだろう。きみがいることはうれしいのに、きみの言葉にさびしさを感じる。
「きみはずっと微笑んでいるね。最初のきみはあまり表情が変わらなかったのに」
「あなたが教えてくれたのですよ。わたしがまだ葉であったころに。
 あなたがわたしに『ほほえみ』をさずけてくれたのです」
 ぼくは最初のきみと同じきみを作りたかった。だからきみが残した葉を「さし木」にした。そうすれば、最初の花と同じ遺伝形質が受け継がれる。
 植物は葉からでもそれができる。「|分化全能性《ぶんかぜんのうせい》」という、植物を構成するさまざまな細胞からどの細胞にも分化する能力があるからだ。葉から根と芽が出て、いずれ一つの植物になれる。
 ぼくは確かに、葉であったきみに何度も語りかけていた。また会えたら、きみに見せたいと思ったものについて。そのときぼくは、ずっと微笑んでいたのだろうか。
「あなたには最初のわたしが『ほんもの』で、いまのわたしは『にせもの』でしょうか」
 偽物。似せもの。
 同じ遺伝。同じ花。同じきみ。ちがうきみ。
 ぼくはだれに会いたかったのだろう。
「マスター、わが作り|主《ぬし》。あなたが『ほほえみ』をさずけてくれたように、最初のわたしにも、『桜』について教えてくれた子がいたのですよ」
 きみは穏やかに微笑む。
 ぼくはその相手を知っている。
 自室でひと眠りして起き、昼すぎキッチンに顔を出すと、助手の彼が玉子のホットサンドを作っていた。
 ぼくはふつうの玉子のサンドイッチは好きじゃないけれど、これは好きだ。表情が緩む。
「それ、もらっていっていい?」
 皿に乗せられた二つのホットサンドを指で示す。
「座って食べたらどうですか? 珈琲をいれます」
 自室に持っていくつもりでいたぼくに、彼はあいかわらず淡々と答える。
 ぼくは迷ったけれど、大人しくテーブルについた。
 今まで、彼と仲よくなろうと考えたことは一度もない。二年間、適度に距離を保ち続ければいいと思っていた。
 彼も、こちらに必要以上踏みこむことはなく、助手の仕事と家事をこなしていた。
「マスター。あなたが不在だったときの温度、湿度、水分や養分等の諸環境の管理記録書、部屋の机の上に置いておきました」
 テーブルの上にマグカップが一つ置かれる。珈琲の香りがする。
 ぼくはホットサンドを一つ食べ終わると、向かいの椅子を手で示した。
「君も座って飲んだら。珈琲」
 彼は軽く目を見ひらいていた。いつもなら、食卓をともにすることなどなく、部屋から出ていく。
 しばらく無言でいたが、ぎこちなく珈琲をいれ始め、牛乳を足したマグカップを持ってぼくの向かいに座る。
 ぼくはそのあいだに二つ目のホットサンドを食べ終えていた。
 ぼくと彼が向かい合わせで座るのは、最初の冬の日以来、はじめてのことだった。
「……花のひとに、『きらい』とか言われたんですか」
 眉間にしわを寄せて深刻そうな顔をするものだから、ぼくは珈琲を飲もうとした手を止めて思わず笑った。彼は紫色の目をした小さな生きものを『花のひと』と呼ぶ。
「言われてないよ」
「そうですか」
 彼はまた考えこんでいる。
「君の『後見人』は、ぼくが嫌いなんだろうけど」
 ぼくは別に、それでかまわなかった。
「あの人にはなにもないんです」
 眉間のしわを解いて、抑揚なく彼は言った。視線は合わない。マグカップに口をつけてから、続ける。
「大切にしたいものを持っていないんです」
「君は持っている?」
 彼は顔をあげてこちらを見た。ぼくは視線をそらさなかった。
 不意に彼が微笑んだ。
「いま持ってきます」
 立ち上がり、廊下を軽く駆けていくとすぐに戻ってきた彼は、一枚の紙をぼくの前に広げて見せた。秘密を打ち明けるような楽しさからか、笑っていた。
「契約書じゃないか」
 予想もしていなかったぼくは、|呆《ほう》けた声を出した。
 彼に助手として、家政夫として働いてもらう内容が書かれた、雇用契約書。
「僕とあなたの署名が並んでいる。宝物です」
 彼は、ぼくたちそれぞれが自筆で名前を書き|記《しる》した紙を大切そうに眺めた。
 雇用契約書は、二枚ある。一枚はぼくが持ち、もう一枚は彼が持つ。
「あなたと僕が持つ、世界でひとつのおなじものだ」
 あまりにもささやかな、宝物だった。