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由佳

ー/ー



 わたしは中学一年のとき、学校に行けなくなりました。行きたくないと思うようになったきっかけは、休み時間中にこっそり描いていた漫画をクラスメイトに見られ、それをからかわれるようになったことです。五月の連休が明けたら、わたしの足は学校に向かおうとしなくなっていました。
 お母さんに相談しなかったのは当時、お父さんとのことや、仕事で責任ある立場に就いたことで忙しそうにしていたお母さんの負担を増やしたくないと思ったからです。少し休めば、きっとまた行けるようになる。そう思っていましたが、学校を休んでいるうちにわたしの頭は次第にぼうっとしていきました。たぶん、家で何もせずにいたことで、考える力が弱くなっていってしまったのだと思います。
 わたしの頭が考える力を取り戻したのは、ある日偶然、とある光景を目撃したからです。その日も部屋でぼうっとしていたわたしがふと窓の外を見ると、向かいの家の前にちょうど一台の車が停まるところが見えました。中から出てきたのは向かいの家に住む男の人でした。そして、男の人が車の反対側のドアを開けると、中から勢いよく何かが飛び出してきたのです。
 小学校低学年くらいの、小さな女の子でした。女の子は小さな手足を懸命に振りながら、その場から必死に逃げようとしていました。しかしすぐに男の人に追いつかれ、無理やり抱きかかえられるようにして、そのまま家の中に連れて行かれてしまいました。
 ――誘拐。
 すぐにその言葉が浮かびました。もちろん、そうと決まったわけではないけれど、目の前で起こった一連の出来事は、何度思い出しても普通ではないように思えました。どうすればいいだろう。わたしは悩みました。長い間考えることをやめていた私の脳みそはひどく緩慢で、自分がとるべき行動がすぐに思い付きませんでした。あの女の子がどうなってしまったかを思うと胸が苦しくなり、お母さんが用意してくれた料理も喉を通らなくなりました。
 そうして過ごしていたある日、部屋の外からお母さんの声が聞こえてきました。
 ――あなたのつらいこと、苦しんでること……何でもいい、私に聞かせてほしいの。
 その言葉を聞いて、わたしの体は自然と動きました。ドアを開け、自分の見たことを全てお母さんに打ち明けたのです。
 お母さんは、わたしの話を信じてくれました。そうしてすぐに警察に連絡をしてくれました。警察がすぐに動いてくれたのはわたしの証言ともう一つ、うちの二つ隣に住んでいるおじいさんの存在が大きかったようです。いまはもう引退したそうなのですが、おじいさんは元刑事さんで、誘拐事件について独自に調査を進め、少し前からあの男の人に目をつけていたのだそうです。
 男の人はその後すぐに逮捕され、女の子は無事解放されました。女の子は、あの家の地下の部屋で監禁されていたのだといいます。子ども用にそれらしく飾り立てられたかのようなその部屋には、小さな子向けの本が並んだ本棚や、三体のぬいぐるみなどが置かれていたのだそうです。イタチ、ウサギ、オオカミ。それらの動物を模したキャラクターのぬいぐるみが、壁を背に、まるで部屋の中の様子を観察しているかのように並んで置かれていたと、元刑事のおじいさんが教えてくれました。
 男の人の逮捕から、もうすぐ一か月が経ちます。最近わたしは少しずつ家の外に出られるようになりました。学校に行くのは、まだ怖くてできません。焦らず、ゆっくりでいいよとお母さんは言ってくれます。お母さんと食べるごはんは、一人で食べていたときの何倍も美味しく感じられます。
 あの女の子のことは、今でもまだ、ときどき思い出します。名前も知らない子だけれど、あの子もきっとわたしのように――いいえ、わたしなんかよりずっと大きなトラウマと闘っているのだと思うと、自分も頑張らないと、と自然と力が湧いてきます。
「由佳、準備できた?」
 お母さんの声に、わたしは「うん」と返事をし、玄関に向かいます。近ごろわたしはお母さんに付き合ってもらって、学校に行くための練習をしています。
「お母さん、今日は昨日より学校の近くまで行ってみてもいい?」
 お母さんはちょっと驚いたような顔をして、でもすぐに「うん、わかった」と言ってくれました。
 靴を履き、お母さんと声を揃えて言います。
「いってきます」


(了)


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 わたしは中学一年のとき、学校に行けなくなりました。行きたくないと思うようになったきっかけは、休み時間中にこっそり描いていた漫画をクラスメイトに見られ、それをからかわれるようになったことです。五月の連休が明けたら、わたしの足は学校に向かおうとしなくなっていました。
 お母さんに相談しなかったのは当時、お父さんとのことや、仕事で責任ある立場に就いたことで忙しそうにしていたお母さんの負担を増やしたくないと思ったからです。少し休めば、きっとまた行けるようになる。そう思っていましたが、学校を休んでいるうちにわたしの頭は次第にぼうっとしていきました。たぶん、家で何もせずにいたことで、考える力が弱くなっていってしまったのだと思います。
 わたしの頭が考える力を取り戻したのは、ある日偶然、とある光景を目撃したからです。その日も部屋でぼうっとしていたわたしがふと窓の外を見ると、向かいの家の前にちょうど一台の車が停まるところが見えました。中から出てきたのは向かいの家に住む男の人でした。そして、男の人が車の反対側のドアを開けると、中から勢いよく何かが飛び出してきたのです。
 小学校低学年くらいの、小さな女の子でした。女の子は小さな手足を懸命に振りながら、その場から必死に逃げようとしていました。しかしすぐに男の人に追いつかれ、無理やり抱きかかえられるようにして、そのまま家の中に連れて行かれてしまいました。
 ――誘拐。
 すぐにその言葉が浮かびました。もちろん、そうと決まったわけではないけれど、目の前で起こった一連の出来事は、何度思い出しても普通ではないように思えました。どうすればいいだろう。わたしは悩みました。長い間考えることをやめていた私の脳みそはひどく緩慢で、自分がとるべき行動がすぐに思い付きませんでした。あの女の子がどうなってしまったかを思うと胸が苦しくなり、お母さんが用意してくれた料理も喉を通らなくなりました。
 そうして過ごしていたある日、部屋の外からお母さんの声が聞こえてきました。
 ――あなたのつらいこと、苦しんでること……何でもいい、私に聞かせてほしいの。
 その言葉を聞いて、わたしの体は自然と動きました。ドアを開け、自分の見たことを全てお母さんに打ち明けたのです。
 お母さんは、わたしの話を信じてくれました。そうしてすぐに警察に連絡をしてくれました。警察がすぐに動いてくれたのはわたしの証言ともう一つ、うちの二つ隣に住んでいるおじいさんの存在が大きかったようです。いまはもう引退したそうなのですが、おじいさんは元刑事さんで、誘拐事件について独自に調査を進め、少し前からあの男の人に目をつけていたのだそうです。
 男の人はその後すぐに逮捕され、女の子は無事解放されました。女の子は、あの家の地下の部屋で監禁されていたのだといいます。子ども用にそれらしく飾り立てられたかのようなその部屋には、小さな子向けの本が並んだ本棚や、三体のぬいぐるみなどが置かれていたのだそうです。イタチ、ウサギ、オオカミ。それらの動物を模したキャラクターのぬいぐるみが、壁を背に、まるで部屋の中の様子を観察しているかのように並んで置かれていたと、元刑事のおじいさんが教えてくれました。
 男の人の逮捕から、もうすぐ一か月が経ちます。最近わたしは少しずつ家の外に出られるようになりました。学校に行くのは、まだ怖くてできません。焦らず、ゆっくりでいいよとお母さんは言ってくれます。お母さんと食べるごはんは、一人で食べていたときの何倍も美味しく感じられます。
 あの女の子のことは、今でもまだ、ときどき思い出します。名前も知らない子だけれど、あの子もきっとわたしのように――いいえ、わたしなんかよりずっと大きなトラウマと闘っているのだと思うと、自分も頑張らないと、と自然と力が湧いてきます。
「由佳、準備できた?」
 お母さんの声に、わたしは「うん」と返事をし、玄関に向かいます。近ごろわたしはお母さんに付き合ってもらって、学校に行くための練習をしています。
「お母さん、今日は昨日より学校の近くまで行ってみてもいい?」
 お母さんはちょっと驚いたような顔をして、でもすぐに「うん、わかった」と言ってくれました。
 靴を履き、お母さんと声を揃えて言います。
「いってきます」
(了)