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4

ー/ー



私は遠く、遠くへと走った。無我夢中に。街頭が何本も私を通過した。朧気な記憶がまた鮮明に色を取り戻す。あの時、五歳の少女が懸命に足を動かして辿り着いたのは、たった一キロも離れていない小さな公園だったのだ。
「やぁ、こんばんは」
佐和は私のことなら何でも知っている。だから、私の向かった先に、やはりいた。
大きな桜の樹の下で佇む佐和の表情は、深海で辺りを見渡しても何も判然としないように、一切の感情を読み取れなかった。
「佐和、どうして帰っていないの?」
「どうして、って?」
「私の家まで送ってくれた後、どうしてあんたはまたここに来たの?」
桜の枝先から数枚の花弁がはらはらと散る。それらは地に触れる前に、夜風に連れ去られてしまった。
「綺麗な夜だね」
彼の口から零れる雑な返事は、いつも以上に曖昧に聞こえた。私の話に応える気がない。それでも、彼に投げかけなければならない事がある。
「あんたは、……佐和は、いるの(・・・)?」
私の記憶にはいつでも佐和がいる。でも今日、一つの記憶が競合した。
片方は、家出した私を佐和が見つけて、隣にいてくれた。もう片方は、通りかかった警官が私を迷子だと思って保護してくれた。
両者、共存するはずが無い。どちらかが正しく、どちらかが違うということだ。なら、もしも、母の話を信じて後者が事実だとするなら───佐和は?
「私、気付いてしまった。母の口から、”佐和”って話すのを聞いたことがない。私たち二人の写真を、見たことがない。卒業アルバムは貰った瞬間に鞄に放り込んでしまったから確認していないけれど、佐和は、本当にいるの?」
彼は、私と同じだと思っていた。周りから乖離していて、他人と同じ色になることが出来なくて、浮遊していた。そんな私たちは、浮かんだ場所で一緒になった。二つのシャボン玉が触れ合い、融合するように。一人でいても、独りでは無くなったのだ。
もしそれが、私の生み出した幻想だったとしたら。
「いるよ」
が、佐和は私のそんな憶測を一蹴した。
「僕は、いる」
相変わらず表情は穏やかなままだ。それでも、細められた目の奥で帯びているはずの彼の感情は、黒く塗りつぶされていて何一つ読み取れない。そして佐和は、その薄い唇の隙間からゆっくり言葉を紡いだ。
「真緒。記憶ってね、パズルなんだよ」
佐和は寄りかかっていた桜の樹から身体を離し、一歩私の方へ進み出た。
「パズルピースは、埋める場所も方向も決まっている。でも、色は幾らでも変えられる。出来上がった表面から新しい色を重ねて、隣同士の整合性が問題無ければ、誰も気が付かない」
「……色?」
「僕はある日から、色を塗り替えられるようになった。限定的ではあるけれど。だから、真緒のパズルピースを一つ一つ取り出して、丁寧に塗り替えた。僕の存在を、遠い過去から刻み込んだ。まるで、一筆で現在まで伸ばしたかのように見せかけて」
ジャリ、と佐和の靴の下で嫌な音が鳴る。佐和がこちらに近づく分、私は数歩遠のいた。怖い。
「それでも、どうしてもミスマッチが生じる。真緒の過去が競合したように。あーあ、今回は上手くいったと思ったんだけどなぁ」
ざ、ざ、ざ。砂と靴が摩擦を起こす。喉元まで込み上げた悲鳴を形にする前に、佐和はその両腕で私を縛った。心地良さの欠けらも無かった。彼は、ただの恐怖の凝縮体だった。
「ひっ……! いやだ、やめ」
「もう一度塗り替えないと。真緒、目を瞑っていて」
抵抗する間もなく、私の意識は身体から引き剥がされた。頭の奥が暗くなって、ゆらゆら揺れて、そしてプツンとちぎれた。
「……ねぇ、真緒」
朦朧とする視界の中で、私は最後に一つ、見つけてしまった。
「どうして、僕を捨てたの?」
佐和の長い髪で隠されていた片耳が、酷く歪だったことを。





「───あぁ、良かった。気が付いたんだね」
誰かの言葉が意識に入り込む。よく知っている響きだ。
私の心に静かに波紋を作るような、淡い声。
「公園で倒れていたから、介抱していたんだ。良かった、救急に連絡する前に目を覚まして」
「……せん、ぱい?」
「勉強熱心なのは良い事だけど、寝不足で倒れてしまうのは本末転倒だよ。ほら、帰ろう?」
闇夜に佇む佐和先輩が私の半身を起こした。隣にある桜の樹は、いつの間にか花弁の殆どを地面に捨てていて、新しい緑を纏っていた。
今日もこうして私たちは一緒に下校する。手を繋ぎ、家までの帰り道を引き伸ばして。


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私は遠く、遠くへと走った。無我夢中に。街頭が何本も私を通過した。朧気な記憶がまた鮮明に色を取り戻す。あの時、五歳の少女が懸命に足を動かして辿り着いたのは、たった一キロも離れていない小さな公園だったのだ。
「やぁ、こんばんは」
佐和は私のことなら何でも知っている。だから、私の向かった先に、やはりいた。
大きな桜の樹の下で佇む佐和の表情は、深海で辺りを見渡しても何も判然としないように、一切の感情を読み取れなかった。
「佐和、どうして帰っていないの?」
「どうして、って?」
「私の家まで送ってくれた後、どうしてあんたはまたここに来たの?」
桜の枝先から数枚の花弁がはらはらと散る。それらは地に触れる前に、夜風に連れ去られてしまった。
「綺麗な夜だね」
彼の口から零れる雑な返事は、いつも以上に曖昧に聞こえた。私の話に応える気がない。それでも、彼に投げかけなければならない事がある。
「あんたは、……佐和は、|いるの《・・・》?」
私の記憶にはいつでも佐和がいる。でも今日、一つの記憶が競合した。
片方は、家出した私を佐和が見つけて、隣にいてくれた。もう片方は、通りかかった警官が私を迷子だと思って保護してくれた。
両者、共存するはずが無い。どちらかが正しく、どちらかが違うということだ。なら、もしも、母の話を信じて後者が事実だとするなら───佐和は?
「私、気付いてしまった。母の口から、”佐和”って話すのを聞いたことがない。私たち二人の写真を、見たことがない。卒業アルバムは貰った瞬間に鞄に放り込んでしまったから確認していないけれど、佐和は、本当にいるの?」
彼は、私と同じだと思っていた。周りから乖離していて、他人と同じ色になることが出来なくて、浮遊していた。そんな私たちは、浮かんだ場所で一緒になった。二つのシャボン玉が触れ合い、融合するように。一人でいても、独りでは無くなったのだ。
もしそれが、私の生み出した幻想だったとしたら。
「いるよ」
が、佐和は私のそんな憶測を一蹴した。
「僕は、いる」
相変わらず表情は穏やかなままだ。それでも、細められた目の奥で帯びているはずの彼の感情は、黒く塗りつぶされていて何一つ読み取れない。そして佐和は、その薄い唇の隙間からゆっくり言葉を紡いだ。
「真緒。記憶ってね、パズルなんだよ」
佐和は寄りかかっていた桜の樹から身体を離し、一歩私の方へ進み出た。
「パズルピースは、埋める場所も方向も決まっている。でも、色は幾らでも変えられる。出来上がった表面から新しい色を重ねて、隣同士の整合性が問題無ければ、誰も気が付かない」
「……色?」
「僕はある日から、色を塗り替えられるようになった。限定的ではあるけれど。だから、真緒のパズルピースを一つ一つ取り出して、丁寧に塗り替えた。僕の存在を、遠い過去から刻み込んだ。まるで、一筆で現在まで伸ばしたかのように見せかけて」
ジャリ、と佐和の靴の下で嫌な音が鳴る。佐和がこちらに近づく分、私は数歩遠のいた。怖い。
「それでも、どうしてもミスマッチが生じる。真緒の過去が競合したように。あーあ、今回は上手くいったと思ったんだけどなぁ」
ざ、ざ、ざ。砂と靴が摩擦を起こす。喉元まで込み上げた悲鳴を形にする前に、佐和はその両腕で私を縛った。心地良さの欠けらも無かった。彼は、ただの恐怖の凝縮体だった。
「ひっ……! いやだ、やめ」
「もう一度塗り替えないと。真緒、目を瞑っていて」
抵抗する間もなく、私の意識は身体から引き剥がされた。頭の奥が暗くなって、ゆらゆら揺れて、そしてプツンとちぎれた。
「……ねぇ、真緒」
朦朧とする視界の中で、私は最後に一つ、見つけてしまった。
「どうして、僕を捨てたの?」
佐和の長い髪で隠されていた片耳が、酷く歪だったことを。
「───あぁ、良かった。気が付いたんだね」
誰かの言葉が意識に入り込む。よく知っている響きだ。
私の心に静かに波紋を作るような、淡い声。
「公園で倒れていたから、介抱していたんだ。良かった、救急に連絡する前に目を覚まして」
「……せん、ぱい?」
「勉強熱心なのは良い事だけど、寝不足で倒れてしまうのは本末転倒だよ。ほら、帰ろう?」
闇夜に佇む佐和先輩が私の半身を起こした。隣にある桜の樹は、いつの間にか花弁の殆どを地面に捨てていて、新しい緑を纏っていた。
今日もこうして私たちは一緒に下校する。手を繋ぎ、家までの帰り道を引き伸ばして。