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家の中に入るのはいつも憂鬱になる。私が半分(から)になるということは、同じ傷でも占める比率が二倍になることを示唆する。丁度手のひらくらいの小さなまな板に宛てがわれる出刃包丁。半円のダーツ盤に容赦なく放たれる無数の針。
扉に手をかけた時、つい癖で二階を見上げてしまった。三つある窓のうち、一番右側は私の部屋だ。先日まで窓際に飾っていたあの歪んだテディベアは、高校進学と同時に捨てた。布と綿で成型されただけのお友達から毎度勇気を乞うのはもう辞めにしたかったのだ。
一度深く深呼吸をし、目を瞑る。開扉。
「今何時だと思ってんのよ!」
予想通りの怒号が飛んだ。私は乱雑にローファーを脱ぎ捨て、母に背を向ける。
「どうしていつも門限を守れないの!? 今日は塾が無い日でしょう!」
階段の壁に掛けられた時計の短針は6を指したばかりだった。乾いた笑いが零れそうになるのを飲み込み、無言で素通りする。
「また昔みたいに家出してたらどうしようって、本当に心配したんだから! これ以上不安にさせるようなことしないで頂戴!」
「……」
「あの時は警察の人がたまたま見つけてくれたから良かったものの、毎回そう運良く───」
「…………え?」
段差に乗せた足が止まった。幾ら大嫌いな母の言葉だろうが、これだけは聞き捨てならなかった。
「───警察の人?」
私の記憶には警官なんていない。あの時──五歳の私が家を飛び出し、這い寄る夜に震えてうずくまっていた時に現れたのは、佐和だったはずだ。佐和が私の手を優しく引き、家まで連れ戻してくれた、はずだ。
「そうよ、パトロール中の警官が泣いてるあんたを見かけて引き渡してくれたんだもの。覚えてないの? ……そんなことはどうでもいいわ、それより───……」
続く母の怒声は霧散し、私の脳内に知らない映像が流れ込んで来た。見たことの無い写真が織り重なり、本来の形に整列する。
大きな桜の樹の入り組んだ根。闇が溶けた曇天。人の気配の無いシーソー。自転車のライト。制帽。差し出された大きな手。私、は───
「……ち、ちょっと真緒!?」
悲鳴に似た叫びを背中に受け、私は再度外へと走り出した。後先など一切考えなかった。私の記憶との矛盾、形作ってしまったこの憶測を無視する訳にはいかなかったから。



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家の中に入るのはいつも憂鬱になる。私が半分|空《から》になるということは、同じ傷でも占める比率が二倍になることを示唆する。丁度手のひらくらいの小さなまな板に宛てがわれる出刃包丁。半円のダーツ盤に容赦なく放たれる無数の針。
扉に手をかけた時、つい癖で二階を見上げてしまった。三つある窓のうち、一番右側は私の部屋だ。先日まで窓際に飾っていたあの歪んだテディベアは、高校進学と同時に捨てた。布と綿で成型されただけのお友達から毎度勇気を乞うのはもう辞めにしたかったのだ。
一度深く深呼吸をし、目を瞑る。開扉。
「今何時だと思ってんのよ!」
予想通りの怒号が飛んだ。私は乱雑にローファーを脱ぎ捨て、母に背を向ける。
「どうしていつも門限を守れないの!? 今日は塾が無い日でしょう!」
階段の壁に掛けられた時計の短針は6を指したばかりだった。乾いた笑いが零れそうになるのを飲み込み、無言で素通りする。
「また昔みたいに家出してたらどうしようって、本当に心配したんだから! これ以上不安にさせるようなことしないで頂戴!」
「……」
「あの時は警察の人がたまたま見つけてくれたから良かったものの、毎回そう運良く───」
「…………え?」
段差に乗せた足が止まった。幾ら大嫌いな母の言葉だろうが、これだけは聞き捨てならなかった。
「───警察の人?」
私の記憶には警官なんていない。あの時──五歳の私が家を飛び出し、這い寄る夜に震えてうずくまっていた時に現れたのは、佐和だったはずだ。佐和が私の手を優しく引き、家まで連れ戻してくれた、はずだ。
「そうよ、パトロール中の警官が泣いてるあんたを見かけて引き渡してくれたんだもの。覚えてないの? ……そんなことはどうでもいいわ、それより───……」
続く母の怒声は霧散し、私の脳内に知らない映像が流れ込んで来た。見たことの無い写真が織り重なり、本来の形に整列する。
大きな桜の樹の入り組んだ根。闇が溶けた曇天。人の気配の無いシーソー。自転車のライト。制帽。差し出された大きな手。私、は───
「……ち、ちょっと真緒!?」
悲鳴に似た叫びを背中に受け、私は再度外へと走り出した。後先など一切考えなかった。私の記憶との矛盾、形作ってしまったこの憶測を無視する訳にはいかなかったから。