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花言葉は「追憶」②

ー/ー



 高校を卒業してから、私は隣市にある四年制大学に進学した。この大学を選んだのにさしたる理由はない。なんとなく、理系学部に進んでおけば将来安泰だよ、なんて取って付けたような言説を信じただけのことで、言い換えればこれといった将来設計も目標もなかった。
 随分とつまらない人間になったもんだと自分でも思う。
 でも、そんな私におとずれたこの状況は、ちっともつまらなくなかった。

   ※

「あれ? 奈津美?」
「もしかして、先生?」

 それは、新入生歓迎コンパと称した、ようは実質飲み会に参加して、まだ未成年だからお酒なんて飲めないよと席を立ち、時間をつぶしていたトイレ前での出来事で。それは実に三年ぶりとなる、先生との再会だった。
 三十路前となった先生を「大人っぽくなった」と褒めると、「奈津美も大きくなったね」とまるで子どもを諭すみたいに言われた。

「また子ども扱い。来年の五月で二十歳になるんだもん。当然だよ」
「あはは、そうだね」

 これからちょっと話そうよ、と店外に誘うと、瞳を一瞬斜め下に逃がしたあと、「うん」と先生は頷いた。
 会計は前払いだったし別にいいよね?
 久しぶりに先生と歩く道は、普段と変わらない光景なのに、街のネオンはいつもより輝いて見えた。
 四月の夜風は多少肌寒いが、火照った頬にはちょうどいい。走っていく車のヘッドライトは眩く、見上げた夜空には星屑が煌めいて、隣を歩いている先生の横顔は、月光を浴びて白く輝いた。
 他愛のない話を、取り留めなくした。最近読んだ小説の話、好きな映画の話、最近見たドラマの話、面白かった動画サイトの話。
 先生は「うん」「そう」と相づちを打つばかりで、自分から話を振ることはほとんどない。三年ぶりの再会なのに、なぜこんな話しかできないのか。自分の語彙力のなさが恨めしい。
 淡い月明かりが降り注ぐ中、どこを目指すでもなく歩いた。

「ねえ、先生」
「ん、どうした?」
「私ね、高校三年生の二学期に、数学のテストで十番になったよ」

 先生が息を呑む音がして、近くの空き地の草むらから虫の声が三度響いた。そこからしばらく、沈黙が二人の間を支配した。「だからね」と言いかけたところで、その先を遮るように抱きしめられた。

「先生?」

 抱きしめられているのでよく見えないが、先生の顔は少し困っているようだった。襟足をかく癖が見える。やっぱり先生困っている。
 あの時、私のことを本気で愛していたんだ。今は、付き合っている女性がいるんだ。だから、私と結婚することはできないんだ、という内容の話を、矢継ぎ早に先生は私に告げた。
「いま、幸せですか?」と訊ねたら、「とても幸せだよ」とはにかんで答えた。
 良かった。私も幸せな気分だよ。
 ある意味。ある意味ね。
 そのまま先生とは別れた。宵闇の中、溶け込むように消えた愛しい人の背中。

「嘘つき」

 私の落とした虚しい呟きが、拭いた夜風に攫われていった。

   ※

 私は、聞き分けのいい女だ。
 待って、と言われれば待つし、ダメだ、と言われても待つ。つまり同時に一途な女だ。約束だってちゃんと守る。
 約束を守ることのできない、悪い大人になった先生が改心する日をひたすらに待った。
 雨の日も。風が吹く日も。先生のことを想い、先生のことを見守って、募っていく想いを時には手紙にしたため、ただひたすらに私は待った。
 そこで再び奇跡が起こる。聞き分けのいい女は、きっと神にも愛されるのだろう。
 先生が、あの女と別れたのだ。
 祈りの勝利だ。精神的勝利だ。
 私と先生は、再び恋人同士になれる。『努力』が報われた瞬間だった。

   ※

 時々、先生の家に上がり込んだ。
 先生が帰宅するより先に、部屋を掃除して洗濯も済ませておこう。
 先生の驚いた顔が目に浮かぶようだ。
 綺麗になったリビングをぐるりと見渡して、テーブルの上に置いた花瓶に花を生けた。
 生けたのは、白い薔薇。白い薔薇の花言葉は、『私はあなたにふさわしい』

   ※

 先生は学校を辞めたあと、とある予備校で講師をしているらしい。
 経歴がバレると差し障りがあるので、素性はうまく隠しているようだ。
 予備校かあ。中学生から女子高生までいっぱい来るんだろうなあ、というその事実が、不安の種となって私の胸を締め付ける。かつての自分を棚に上げて、悪い虫がつかないかと気が狂いそうになる。
 それでも、負けるつもりなんて毛頭ないよ。高校生の女なんて、今の私から見れば色香の足りないひよっこみたいなものなのだし。
 昔は、短めのフレアスカートとかプリーツスカートを好んで履いた。でも、それはもうおしまい。先生は、もっと大人っぽいシックな服が好みなんだもんね。私、知ってるよ。
 そうだ。また、花、送りますね。

 ポインセチアの花言葉は、『私の心は燃えている』

   ※

 私が住んでいるアパートから、先生の部屋がとてもよく見える。
 本当は、毎日でも会いたいって思うけれど、愛が重すぎる女は嫌われるんだよね。だから、この場所から見守るだけに私は留めておくの。
 先日買ってきた花を鉢植えにして、部屋で育てています。紫色の花を付けるクマツヅラ科の植物で、デュランタっていうの。先生知ってるかなあ?

 花言葉は、『あなたを見守りたい』

   ※

 私は約束を守ったよ。
 約束を守れない先生には、お仕置きが必要かもね。
 ――許さない。

   ※

 ビルの屋上を吹き抜けていく、冷たい夜風が頬を撫でる。
 高い場所から見下ろすと、大都会東京の夜景は星空みたいだった。光の柱となったビル群があり、寄り添うみたいに住宅の灯があった。手のひらで掬い取れそうな輝きのひとつひとつに、誰かの生活があるんだ、と思うと不思議な気持ちになってくる。
 私の物語も、この輝きの中のひとつでしかないのだ。私一人が消えたところで誰も気にしないし、何事もなかったみたいに明日がまたやってくる。代り映えのない、日常が――。
 返り血を浴びたブラウスの胸元に手を添える。
 私がどれだけ本気なのか。私がどれだけあなたにふさわしいのか、ずっとうったえてきたのに。先生と交わした約束だってちゃんと守ったのに。

「先生は、守ってくれなかったね。私とした約束」

 だから――私は、先生との愛を永遠のものにすることにしたんだよ。
 さようなら、先生。
 さようなら、世界。
 ふわっとした浮遊感が全身を包んで、それから重力に引かれて落ちていく。
 最後に見たのは天の川だった。猛烈な風と、ぐるぐる回る視界の中で、星空のなかに先生の優しい顔が見えた気がし――。
 ガンッ。

   ※

「いやあ、酷い事件でしたね」
「ああ。狂ってやがるな、世の中」
「ホトケさん。ナイフでめった刺しにされたあと、心臓を取られてたんでしょう?」
「らしい。抜き取った心臓を抱いて、ビルの屋上からダイブ。どうなってんだろうな」
「ん……。それなんですけどね。そこに至るまでの犯人の行動も、異常なんスよ」
「というと?」
「窓ガラスを割って不法侵入したり、脅迫めいたメッセージを添えて、たびたび花を送り付けたり。被害者はそれがもとで、その時交際していた恋人に逃げられたらしいんですよ」
「それじゃストーカーと同じだろう? 警察に届けは?」
「してなかったらしいですね。どうやら、被害者は犯人の女が高校生の頃に、肉体関係を持って教師の職を失っているらしく、それが明るみになるのを恐れたってことなんじゃないのかと」

 そんなことで? と訊ねると、後輩の男は「全部、憶測ではありますけどね」と答え煙草の火をもみ消した。

「こんな結末で、その女は幸せだったのかねえ」
「幸せだったのかもしれませんよ。女の遺体のそばに、心臓と一緒に落ちていた花の名前はシオンでしたし」
「それが、何か関係あるのか?」
「シオンの花言葉は『追憶』。君を忘れない、という意味の他に、亡き人を偲ぶ意味もあるんです。だから、最初からこういう算段だったのかもしれねえんです」
「なるほどね」

 その女の子にとっちゃあ、望み通りの結末だったのかも、しれませんよ。
 と言って、男は代わりの煙草を取り出した。



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 高校を卒業してから、私は隣市にある四年制大学に進学した。この大学を選んだのにさしたる理由はない。なんとなく、理系学部に進んでおけば将来安泰だよ、なんて取って付けたような言説を信じただけのことで、言い換えればこれといった将来設計も目標もなかった。
 随分とつまらない人間になったもんだと自分でも思う。
 でも、そんな私におとずれたこの状況は、ちっともつまらなくなかった。
   ※
「あれ? 奈津美?」
「もしかして、先生?」
 それは、新入生歓迎コンパと称した、ようは実質飲み会に参加して、まだ未成年だからお酒なんて飲めないよと席を立ち、時間をつぶしていたトイレ前での出来事で。それは実に三年ぶりとなる、先生との再会だった。
 三十路前となった先生を「大人っぽくなった」と褒めると、「奈津美も大きくなったね」とまるで子どもを諭すみたいに言われた。
「また子ども扱い。来年の五月で二十歳になるんだもん。当然だよ」
「あはは、そうだね」
 これからちょっと話そうよ、と店外に誘うと、瞳を一瞬斜め下に逃がしたあと、「うん」と先生は頷いた。
 会計は前払いだったし別にいいよね?
 久しぶりに先生と歩く道は、普段と変わらない光景なのに、街のネオンはいつもより輝いて見えた。
 四月の夜風は多少肌寒いが、火照った頬にはちょうどいい。走っていく車のヘッドライトは眩く、見上げた夜空には星屑が煌めいて、隣を歩いている先生の横顔は、月光を浴びて白く輝いた。
 他愛のない話を、取り留めなくした。最近読んだ小説の話、好きな映画の話、最近見たドラマの話、面白かった動画サイトの話。
 先生は「うん」「そう」と相づちを打つばかりで、自分から話を振ることはほとんどない。三年ぶりの再会なのに、なぜこんな話しかできないのか。自分の語彙力のなさが恨めしい。
 淡い月明かりが降り注ぐ中、どこを目指すでもなく歩いた。
「ねえ、先生」
「ん、どうした?」
「私ね、高校三年生の二学期に、数学のテストで十番になったよ」
 先生が息を呑む音がして、近くの空き地の草むらから虫の声が三度響いた。そこからしばらく、沈黙が二人の間を支配した。「だからね」と言いかけたところで、その先を遮るように抱きしめられた。
「先生?」
 抱きしめられているのでよく見えないが、先生の顔は少し困っているようだった。襟足をかく癖が見える。やっぱり先生困っている。
 あの時、私のことを本気で愛していたんだ。今は、付き合っている女性がいるんだ。だから、私と結婚することはできないんだ、という内容の話を、矢継ぎ早に先生は私に告げた。
「いま、幸せですか?」と訊ねたら、「とても幸せだよ」とはにかんで答えた。
 良かった。私も幸せな気分だよ。
 ある意味。ある意味ね。
 そのまま先生とは別れた。宵闇の中、溶け込むように消えた愛しい人の背中。
「嘘つき」
 私の落とした虚しい呟きが、拭いた夜風に攫われていった。
   ※
 私は、聞き分けのいい女だ。
 待って、と言われれば待つし、ダメだ、と言われても待つ。つまり同時に一途な女だ。約束だってちゃんと守る。
 約束を守ることのできない、悪い大人になった先生が改心する日をひたすらに待った。
 雨の日も。風が吹く日も。先生のことを想い、先生のことを見守って、募っていく想いを時には手紙にしたため、ただひたすらに私は待った。
 そこで再び奇跡が起こる。聞き分けのいい女は、きっと神にも愛されるのだろう。
 先生が、あの女と別れたのだ。
 祈りの勝利だ。精神的勝利だ。
 私と先生は、再び恋人同士になれる。『努力』が報われた瞬間だった。
   ※
 時々、先生の家に上がり込んだ。
 先生が帰宅するより先に、部屋を掃除して洗濯も済ませておこう。
 先生の驚いた顔が目に浮かぶようだ。
 綺麗になったリビングをぐるりと見渡して、テーブルの上に置いた花瓶に花を生けた。
 生けたのは、白い薔薇。白い薔薇の花言葉は、『私はあなたにふさわしい』
   ※
 先生は学校を辞めたあと、とある予備校で講師をしているらしい。
 経歴がバレると差し障りがあるので、素性はうまく隠しているようだ。
 予備校かあ。中学生から女子高生までいっぱい来るんだろうなあ、というその事実が、不安の種となって私の胸を締め付ける。かつての自分を棚に上げて、悪い虫がつかないかと気が狂いそうになる。
 それでも、負けるつもりなんて毛頭ないよ。高校生の女なんて、今の私から見れば色香の足りないひよっこみたいなものなのだし。
 昔は、短めのフレアスカートとかプリーツスカートを好んで履いた。でも、それはもうおしまい。先生は、もっと大人っぽいシックな服が好みなんだもんね。私、知ってるよ。
 そうだ。また、花、送りますね。
 ポインセチアの花言葉は、『私の心は燃えている』
   ※
 私が住んでいるアパートから、先生の部屋がとてもよく見える。
 本当は、毎日でも会いたいって思うけれど、愛が重すぎる女は嫌われるんだよね。だから、この場所から見守るだけに私は留めておくの。
 先日買ってきた花を鉢植えにして、部屋で育てています。紫色の花を付けるクマツヅラ科の植物で、デュランタっていうの。先生知ってるかなあ?
 花言葉は、『あなたを見守りたい』
   ※
 私は約束を守ったよ。
 約束を守れない先生には、お仕置きが必要かもね。
 ――許さない。
   ※
 ビルの屋上を吹き抜けていく、冷たい夜風が頬を撫でる。
 高い場所から見下ろすと、大都会東京の夜景は星空みたいだった。光の柱となったビル群があり、寄り添うみたいに住宅の灯があった。手のひらで掬い取れそうな輝きのひとつひとつに、誰かの生活があるんだ、と思うと不思議な気持ちになってくる。
 私の物語も、この輝きの中のひとつでしかないのだ。私一人が消えたところで誰も気にしないし、何事もなかったみたいに明日がまたやってくる。代り映えのない、日常が――。
 返り血を浴びたブラウスの胸元に手を添える。
 私がどれだけ本気なのか。私がどれだけあなたにふさわしいのか、ずっとうったえてきたのに。先生と交わした約束だってちゃんと守ったのに。
「先生は、守ってくれなかったね。私とした約束」
 だから――私は、先生との愛を永遠のものにすることにしたんだよ。
 さようなら、先生。
 さようなら、世界。
 ふわっとした浮遊感が全身を包んで、それから重力に引かれて落ちていく。
 最後に見たのは天の川だった。猛烈な風と、ぐるぐる回る視界の中で、星空のなかに先生の優しい顔が見えた気がし――。
 ガンッ。
   ※
「いやあ、酷い事件でしたね」
「ああ。狂ってやがるな、世の中」
「ホトケさん。ナイフでめった刺しにされたあと、心臓を取られてたんでしょう?」
「らしい。抜き取った心臓を抱いて、ビルの屋上からダイブ。どうなってんだろうな」
「ん……。それなんですけどね。そこに至るまでの犯人の行動も、異常なんスよ」
「というと?」
「窓ガラスを割って不法侵入したり、脅迫めいたメッセージを添えて、たびたび花を送り付けたり。被害者はそれがもとで、その時交際していた恋人に逃げられたらしいんですよ」
「それじゃストーカーと同じだろう? 警察に届けは?」
「してなかったらしいですね。どうやら、被害者は犯人の女が高校生の頃に、肉体関係を持って教師の職を失っているらしく、それが明るみになるのを恐れたってことなんじゃないのかと」
 そんなことで? と訊ねると、後輩の男は「全部、憶測ではありますけどね」と答え煙草の火をもみ消した。
「こんな結末で、その女は幸せだったのかねえ」
「幸せだったのかもしれませんよ。女の遺体のそばに、心臓と一緒に落ちていた花の名前はシオンでしたし」
「それが、何か関係あるのか?」
「シオンの花言葉は『追憶』。君を忘れない、という意味の他に、亡き人を偲ぶ意味もあるんです。だから、最初からこういう算段だったのかもしれねえんです」
「なるほどね」
 その女の子にとっちゃあ、望み通りの結末だったのかも、しれませんよ。
 と言って、男は代わりの煙草を取り出した。


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