花言葉は「追憶」②
ー/ー 高校を卒業してから、私は隣市にある四年制大学に進学した。この大学を選んだのにさしたる理由はない。なんとなく、理系学部に進んでおけば将来安泰だよ、なんて取って付けたような言説を信じただけのことで、言い換えればこれといった将来設計も目標もなかった。
随分とつまらない人間になったもんだと自分でも思う。
でも、そんな私におとずれたこの状況は、ちっともつまらなくなかった。
※
「あれ? 奈津美?」
「もしかして、先生?」
それは、新入生歓迎コンパと称した、ようは実質飲み会に参加して、まだ未成年だからお酒なんて飲めないよと席を立ち、時間をつぶしていたトイレ前での出来事で。それは実に三年ぶりとなる、先生との再会だった。
三十路前となった先生を「大人っぽくなった」と褒めると、「奈津美も大きくなったね」とまるで子どもを諭すみたいに言われた。
「また子ども扱い。来年の五月で二十歳になるんだもん。当然だよ」
「あはは、そうだね」
これからちょっと話そうよ、と店外に誘うと、瞳を一瞬斜め下に逃がしたあと、「うん」と先生は頷いた。
会計は前払いだったし別にいいよね?
久しぶりに先生と歩く道は、普段と変わらない光景なのに、街のネオンはいつもより輝いて見えた。
四月の夜風は多少肌寒いが、火照った頬にはちょうどいい。走っていく車のヘッドライトは眩く、見上げた夜空には星屑が煌めいて、隣を歩いている先生の横顔は、月光を浴びて白く輝いた。
他愛のない話を、取り留めなくした。最近読んだ小説の話、好きな映画の話、最近見たドラマの話、面白かった動画サイトの話。
先生は「うん」「そう」と相づちを打つばかりで、自分から話を振ることはほとんどない。三年ぶりの再会なのに、なぜこんな話しかできないのか。自分の語彙力のなさが恨めしい。
淡い月明かりが降り注ぐ中、どこを目指すでもなく歩いた。
「ねえ、先生」
「ん、どうした?」
「私ね、高校三年生の二学期に、数学のテストで十番になったよ」
先生が息を呑む音がして、近くの空き地の草むらから虫の声が三度響いた。そこからしばらく、沈黙が二人の間を支配した。「だからね」と言いかけたところで、その先を遮るように抱きしめられた。
「先生?」
抱きしめられているのでよく見えないが、先生の顔は少し困っているようだった。襟足をかく癖が見える。やっぱり先生困っている。
あの時、私のことを本気で愛していたんだ。今は、付き合っている女性がいるんだ。だから、私と結婚することはできないんだ、という内容の話を、矢継ぎ早に先生は私に告げた。
「いま、幸せですか?」と訊ねたら、「とても幸せだよ」とはにかんで答えた。
良かった。私も幸せな気分だよ。
ある意味。ある意味ね。
そのまま先生とは別れた。宵闇の中、溶け込むように消えた愛しい人の背中。
「嘘つき」
私の落とした虚しい呟きが、拭いた夜風に攫われていった。
※
私は、聞き分けのいい女だ。
待って、と言われれば待つし、ダメだ、と言われても待つ。つまり同時に一途な女だ。約束だってちゃんと守る。
約束を守ることのできない、悪い大人になった先生が改心する日をひたすらに待った。
雨の日も。風が吹く日も。先生のことを想い、先生のことを見守って、募っていく想いを時には手紙にしたため、ただひたすらに私は待った。
そこで再び奇跡が起こる。聞き分けのいい女は、きっと神にも愛されるのだろう。
先生が、あの女と別れたのだ。
祈りの勝利だ。精神的勝利だ。
私と先生は、再び恋人同士になれる。『努力』が報われた瞬間だった。
※
時々、先生の家に上がり込んだ。
先生が帰宅するより先に、部屋を掃除して洗濯も済ませておこう。
先生の驚いた顔が目に浮かぶようだ。
綺麗になったリビングをぐるりと見渡して、テーブルの上に置いた花瓶に花を生けた。
生けたのは、白い薔薇。白い薔薇の花言葉は、『私はあなたにふさわしい』
※
先生は学校を辞めたあと、とある予備校で講師をしているらしい。
経歴がバレると差し障りがあるので、素性はうまく隠しているようだ。
予備校かあ。中学生から女子高生までいっぱい来るんだろうなあ、というその事実が、不安の種となって私の胸を締め付ける。かつての自分を棚に上げて、悪い虫がつかないかと気が狂いそうになる。
それでも、負けるつもりなんて毛頭ないよ。高校生の女なんて、今の私から見れば色香の足りないひよっこみたいなものなのだし。
昔は、短めのフレアスカートとかプリーツスカートを好んで履いた。でも、それはもうおしまい。先生は、もっと大人っぽいシックな服が好みなんだもんね。私、知ってるよ。
そうだ。また、花、送りますね。
ポインセチアの花言葉は、『私の心は燃えている』
※
私が住んでいるアパートから、先生の部屋がとてもよく見える。
本当は、毎日でも会いたいって思うけれど、愛が重すぎる女は嫌われるんだよね。だから、この場所から見守るだけに私は留めておくの。
先日買ってきた花を鉢植えにして、部屋で育てています。紫色の花を付けるクマツヅラ科の植物で、デュランタっていうの。先生知ってるかなあ?
花言葉は、『あなたを見守りたい』
※
私は約束を守ったよ。
約束を守れない先生には、お仕置きが必要かもね。
――許さない。
※
ビルの屋上を吹き抜けていく、冷たい夜風が頬を撫でる。
高い場所から見下ろすと、大都会東京の夜景は星空みたいだった。光の柱となったビル群があり、寄り添うみたいに住宅の灯があった。手のひらで掬い取れそうな輝きのひとつひとつに、誰かの生活があるんだ、と思うと不思議な気持ちになってくる。
私の物語も、この輝きの中のひとつでしかないのだ。私一人が消えたところで誰も気にしないし、何事もなかったみたいに明日がまたやってくる。代り映えのない、日常が――。
返り血を浴びたブラウスの胸元に手を添える。
私がどれだけ本気なのか。私がどれだけあなたにふさわしいのか、ずっとうったえてきたのに。先生と交わした約束だってちゃんと守ったのに。
「先生は、守ってくれなかったね。私とした約束」
だから――私は、先生との愛を永遠のものにすることにしたんだよ。
さようなら、先生。
さようなら、世界。
ふわっとした浮遊感が全身を包んで、それから重力に引かれて落ちていく。
最後に見たのは天の川だった。猛烈な風と、ぐるぐる回る視界の中で、星空のなかに先生の優しい顔が見えた気がし――。
ガンッ。
※
「いやあ、酷い事件でしたね」
「ああ。狂ってやがるな、世の中」
「ホトケさん。ナイフでめった刺しにされたあと、心臓を取られてたんでしょう?」
「らしい。抜き取った心臓を抱いて、ビルの屋上からダイブ。どうなってんだろうな」
「ん……。それなんですけどね。そこに至るまでの犯人の行動も、異常なんスよ」
「というと?」
「窓ガラスを割って不法侵入したり、脅迫めいたメッセージを添えて、たびたび花を送り付けたり。被害者はそれがもとで、その時交際していた恋人に逃げられたらしいんですよ」
「それじゃストーカーと同じだろう? 警察に届けは?」
「してなかったらしいですね。どうやら、被害者は犯人の女が高校生の頃に、肉体関係を持って教師の職を失っているらしく、それが明るみになるのを恐れたってことなんじゃないのかと」
そんなことで? と訊ねると、後輩の男は「全部、憶測ではありますけどね」と答え煙草の火をもみ消した。
「こんな結末で、その女は幸せだったのかねえ」
「幸せだったのかもしれませんよ。女の遺体のそばに、心臓と一緒に落ちていた花の名前はシオンでしたし」
「それが、何か関係あるのか?」
「シオンの花言葉は『追憶』。君を忘れない、という意味の他に、亡き人を偲ぶ意味もあるんです。だから、最初からこういう算段だったのかもしれねえんです」
「なるほどね」
その女の子にとっちゃあ、望み通りの結末だったのかも、しれませんよ。
と言って、男は代わりの煙草を取り出した。
随分とつまらない人間になったもんだと自分でも思う。
でも、そんな私におとずれたこの状況は、ちっともつまらなくなかった。
※
「あれ? 奈津美?」
「もしかして、先生?」
それは、新入生歓迎コンパと称した、ようは実質飲み会に参加して、まだ未成年だからお酒なんて飲めないよと席を立ち、時間をつぶしていたトイレ前での出来事で。それは実に三年ぶりとなる、先生との再会だった。
三十路前となった先生を「大人っぽくなった」と褒めると、「奈津美も大きくなったね」とまるで子どもを諭すみたいに言われた。
「また子ども扱い。来年の五月で二十歳になるんだもん。当然だよ」
「あはは、そうだね」
これからちょっと話そうよ、と店外に誘うと、瞳を一瞬斜め下に逃がしたあと、「うん」と先生は頷いた。
会計は前払いだったし別にいいよね?
久しぶりに先生と歩く道は、普段と変わらない光景なのに、街のネオンはいつもより輝いて見えた。
四月の夜風は多少肌寒いが、火照った頬にはちょうどいい。走っていく車のヘッドライトは眩く、見上げた夜空には星屑が煌めいて、隣を歩いている先生の横顔は、月光を浴びて白く輝いた。
他愛のない話を、取り留めなくした。最近読んだ小説の話、好きな映画の話、最近見たドラマの話、面白かった動画サイトの話。
先生は「うん」「そう」と相づちを打つばかりで、自分から話を振ることはほとんどない。三年ぶりの再会なのに、なぜこんな話しかできないのか。自分の語彙力のなさが恨めしい。
淡い月明かりが降り注ぐ中、どこを目指すでもなく歩いた。
「ねえ、先生」
「ん、どうした?」
「私ね、高校三年生の二学期に、数学のテストで十番になったよ」
先生が息を呑む音がして、近くの空き地の草むらから虫の声が三度響いた。そこからしばらく、沈黙が二人の間を支配した。「だからね」と言いかけたところで、その先を遮るように抱きしめられた。
「先生?」
抱きしめられているのでよく見えないが、先生の顔は少し困っているようだった。襟足をかく癖が見える。やっぱり先生困っている。
あの時、私のことを本気で愛していたんだ。今は、付き合っている女性がいるんだ。だから、私と結婚することはできないんだ、という内容の話を、矢継ぎ早に先生は私に告げた。
「いま、幸せですか?」と訊ねたら、「とても幸せだよ」とはにかんで答えた。
良かった。私も幸せな気分だよ。
ある意味。ある意味ね。
そのまま先生とは別れた。宵闇の中、溶け込むように消えた愛しい人の背中。
「嘘つき」
私の落とした虚しい呟きが、拭いた夜風に攫われていった。
※
私は、聞き分けのいい女だ。
待って、と言われれば待つし、ダメだ、と言われても待つ。つまり同時に一途な女だ。約束だってちゃんと守る。
約束を守ることのできない、悪い大人になった先生が改心する日をひたすらに待った。
雨の日も。風が吹く日も。先生のことを想い、先生のことを見守って、募っていく想いを時には手紙にしたため、ただひたすらに私は待った。
そこで再び奇跡が起こる。聞き分けのいい女は、きっと神にも愛されるのだろう。
先生が、あの女と別れたのだ。
祈りの勝利だ。精神的勝利だ。
私と先生は、再び恋人同士になれる。『努力』が報われた瞬間だった。
※
時々、先生の家に上がり込んだ。
先生が帰宅するより先に、部屋を掃除して洗濯も済ませておこう。
先生の驚いた顔が目に浮かぶようだ。
綺麗になったリビングをぐるりと見渡して、テーブルの上に置いた花瓶に花を生けた。
生けたのは、白い薔薇。白い薔薇の花言葉は、『私はあなたにふさわしい』
※
先生は学校を辞めたあと、とある予備校で講師をしているらしい。
経歴がバレると差し障りがあるので、素性はうまく隠しているようだ。
予備校かあ。中学生から女子高生までいっぱい来るんだろうなあ、というその事実が、不安の種となって私の胸を締め付ける。かつての自分を棚に上げて、悪い虫がつかないかと気が狂いそうになる。
それでも、負けるつもりなんて毛頭ないよ。高校生の女なんて、今の私から見れば色香の足りないひよっこみたいなものなのだし。
昔は、短めのフレアスカートとかプリーツスカートを好んで履いた。でも、それはもうおしまい。先生は、もっと大人っぽいシックな服が好みなんだもんね。私、知ってるよ。
そうだ。また、花、送りますね。
ポインセチアの花言葉は、『私の心は燃えている』
※
私が住んでいるアパートから、先生の部屋がとてもよく見える。
本当は、毎日でも会いたいって思うけれど、愛が重すぎる女は嫌われるんだよね。だから、この場所から見守るだけに私は留めておくの。
先日買ってきた花を鉢植えにして、部屋で育てています。紫色の花を付けるクマツヅラ科の植物で、デュランタっていうの。先生知ってるかなあ?
花言葉は、『あなたを見守りたい』
※
私は約束を守ったよ。
約束を守れない先生には、お仕置きが必要かもね。
――許さない。
※
ビルの屋上を吹き抜けていく、冷たい夜風が頬を撫でる。
高い場所から見下ろすと、大都会東京の夜景は星空みたいだった。光の柱となったビル群があり、寄り添うみたいに住宅の灯があった。手のひらで掬い取れそうな輝きのひとつひとつに、誰かの生活があるんだ、と思うと不思議な気持ちになってくる。
私の物語も、この輝きの中のひとつでしかないのだ。私一人が消えたところで誰も気にしないし、何事もなかったみたいに明日がまたやってくる。代り映えのない、日常が――。
返り血を浴びたブラウスの胸元に手を添える。
私がどれだけ本気なのか。私がどれだけあなたにふさわしいのか、ずっとうったえてきたのに。先生と交わした約束だってちゃんと守ったのに。
「先生は、守ってくれなかったね。私とした約束」
だから――私は、先生との愛を永遠のものにすることにしたんだよ。
さようなら、先生。
さようなら、世界。
ふわっとした浮遊感が全身を包んで、それから重力に引かれて落ちていく。
最後に見たのは天の川だった。猛烈な風と、ぐるぐる回る視界の中で、星空のなかに先生の優しい顔が見えた気がし――。
ガンッ。
※
「いやあ、酷い事件でしたね」
「ああ。狂ってやがるな、世の中」
「ホトケさん。ナイフでめった刺しにされたあと、心臓を取られてたんでしょう?」
「らしい。抜き取った心臓を抱いて、ビルの屋上からダイブ。どうなってんだろうな」
「ん……。それなんですけどね。そこに至るまでの犯人の行動も、異常なんスよ」
「というと?」
「窓ガラスを割って不法侵入したり、脅迫めいたメッセージを添えて、たびたび花を送り付けたり。被害者はそれがもとで、その時交際していた恋人に逃げられたらしいんですよ」
「それじゃストーカーと同じだろう? 警察に届けは?」
「してなかったらしいですね。どうやら、被害者は犯人の女が高校生の頃に、肉体関係を持って教師の職を失っているらしく、それが明るみになるのを恐れたってことなんじゃないのかと」
そんなことで? と訊ねると、後輩の男は「全部、憶測ではありますけどね」と答え煙草の火をもみ消した。
「こんな結末で、その女は幸せだったのかねえ」
「幸せだったのかもしれませんよ。女の遺体のそばに、心臓と一緒に落ちていた花の名前はシオンでしたし」
「それが、何か関係あるのか?」
「シオンの花言葉は『追憶』。君を忘れない、という意味の他に、亡き人を偲ぶ意味もあるんです。だから、最初からこういう算段だったのかもしれねえんです」
「なるほどね」
その女の子にとっちゃあ、望み通りの結末だったのかも、しれませんよ。
と言って、男は代わりの煙草を取り出した。
作品を応援する
高校を卒業してから、私は隣市にある四年制大学に進学した。この大学を選んだのにさしたる理由はない。なんとなく、理系学部に進んでおけば将来安泰だよ、なんて取って付けたような言説を信じただけのことで、言い換えればこれといった将来設計も目標もなかった。
随分とつまらない人間になったもんだと自分でも思う。
でも、そんな私におとずれたこの状況は、ちっともつまらなくなかった。
随分とつまらない人間になったもんだと自分でも思う。
でも、そんな私におとずれたこの状況は、ちっともつまらなくなかった。
※
「あれ? 奈津美?」
「もしかして、先生?」
「もしかして、先生?」
それは、新入生歓迎コンパと称した、ようは実質飲み会に参加して、まだ未成年だからお酒なんて飲めないよと席を立ち、時間をつぶしていたトイレ前での出来事で。それは実に三年ぶりとなる、先生との再会だった。
三十路前となった先生を「大人っぽくなった」と褒めると、「奈津美も大きくなったね」とまるで子どもを諭すみたいに言われた。
三十路前となった先生を「大人っぽくなった」と褒めると、「奈津美も大きくなったね」とまるで子どもを諭すみたいに言われた。
「また子ども扱い。来年の五月で二十歳になるんだもん。当然だよ」
「あはは、そうだね」
「あはは、そうだね」
これからちょっと話そうよ、と店外に誘うと、瞳を一瞬斜め下に逃がしたあと、「うん」と先生は頷いた。
会計は前払いだったし別にいいよね?
久しぶりに先生と歩く道は、普段と変わらない光景なのに、街のネオンはいつもより輝いて見えた。
四月の夜風は多少肌寒いが、火照った頬にはちょうどいい。走っていく車のヘッドライトは眩く、見上げた夜空には星屑が煌めいて、隣を歩いている先生の横顔は、月光を浴びて白く輝いた。
他愛のない話を、取り留めなくした。最近読んだ小説の話、好きな映画の話、最近見たドラマの話、面白かった動画サイトの話。
先生は「うん」「そう」と相づちを打つばかりで、自分から話を振ることはほとんどない。三年ぶりの再会なのに、なぜこんな話しかできないのか。自分の語彙力のなさが恨めしい。
淡い月明かりが降り注ぐ中、どこを目指すでもなく歩いた。
会計は前払いだったし別にいいよね?
久しぶりに先生と歩く道は、普段と変わらない光景なのに、街のネオンはいつもより輝いて見えた。
四月の夜風は多少肌寒いが、火照った頬にはちょうどいい。走っていく車のヘッドライトは眩く、見上げた夜空には星屑が煌めいて、隣を歩いている先生の横顔は、月光を浴びて白く輝いた。
他愛のない話を、取り留めなくした。最近読んだ小説の話、好きな映画の話、最近見たドラマの話、面白かった動画サイトの話。
先生は「うん」「そう」と相づちを打つばかりで、自分から話を振ることはほとんどない。三年ぶりの再会なのに、なぜこんな話しかできないのか。自分の語彙力のなさが恨めしい。
淡い月明かりが降り注ぐ中、どこを目指すでもなく歩いた。
「ねえ、先生」
「ん、どうした?」
「私ね、高校三年生の二学期に、数学のテストで十番になったよ」
「ん、どうした?」
「私ね、高校三年生の二学期に、数学のテストで十番になったよ」
先生が息を呑む音がして、近くの空き地の草むらから虫の声が三度響いた。そこからしばらく、沈黙が二人の間を支配した。「だからね」と言いかけたところで、その先を遮るように抱きしめられた。
「先生?」
抱きしめられているのでよく見えないが、先生の顔は少し困っているようだった。襟足をかく癖が見える。やっぱり先生困っている。
あの時、私のことを本気で愛していたんだ。今は、付き合っている女性がいるんだ。だから、私と結婚することはできないんだ、という内容の話を、矢継ぎ早に先生は私に告げた。
「いま、幸せですか?」と訊ねたら、「とても幸せだよ」とはにかんで答えた。
良かった。私も幸せな気分だよ。
ある意味。ある意味ね。
そのまま先生とは別れた。宵闇の中、溶け込むように消えた愛しい人の背中。
あの時、私のことを本気で愛していたんだ。今は、付き合っている女性がいるんだ。だから、私と結婚することはできないんだ、という内容の話を、矢継ぎ早に先生は私に告げた。
「いま、幸せですか?」と訊ねたら、「とても幸せだよ」とはにかんで答えた。
良かった。私も幸せな気分だよ。
ある意味。ある意味ね。
そのまま先生とは別れた。宵闇の中、溶け込むように消えた愛しい人の背中。
「嘘つき」
私の落とした虚しい呟きが、拭いた夜風に攫われていった。
※
私は、聞き分けのいい女だ。
待って、と言われれば待つし、ダメだ、と言われても待つ。つまり同時に一途な女だ。約束だってちゃんと守る。
約束を守ることのできない、悪い大人になった先生が改心する日をひたすらに待った。
雨の日も。風が吹く日も。先生のことを想い、先生のことを見守って、募っていく想いを時には手紙にしたため、ただひたすらに私は待った。
そこで再び奇跡が起こる。聞き分けのいい女は、きっと神にも愛されるのだろう。
先生が、あの女と別れたのだ。
祈りの勝利だ。精神的勝利だ。
私と先生は、再び恋人同士になれる。『努力』が報われた瞬間だった。
待って、と言われれば待つし、ダメだ、と言われても待つ。つまり同時に一途な女だ。約束だってちゃんと守る。
約束を守ることのできない、悪い大人になった先生が改心する日をひたすらに待った。
雨の日も。風が吹く日も。先生のことを想い、先生のことを見守って、募っていく想いを時には手紙にしたため、ただひたすらに私は待った。
そこで再び奇跡が起こる。聞き分けのいい女は、きっと神にも愛されるのだろう。
先生が、あの女と別れたのだ。
祈りの勝利だ。精神的勝利だ。
私と先生は、再び恋人同士になれる。『努力』が報われた瞬間だった。
※
時々、先生の家に上がり込んだ。
先生が帰宅するより先に、部屋を掃除して洗濯も済ませておこう。
先生の驚いた顔が目に浮かぶようだ。
綺麗になったリビングをぐるりと見渡して、テーブルの上に置いた花瓶に花を生けた。
生けたのは、白い薔薇。白い薔薇の花言葉は、『私はあなたにふさわしい』
先生が帰宅するより先に、部屋を掃除して洗濯も済ませておこう。
先生の驚いた顔が目に浮かぶようだ。
綺麗になったリビングをぐるりと見渡して、テーブルの上に置いた花瓶に花を生けた。
生けたのは、白い薔薇。白い薔薇の花言葉は、『私はあなたにふさわしい』
※
先生は学校を辞めたあと、とある予備校で講師をしているらしい。
経歴がバレると差し障りがあるので、素性はうまく隠しているようだ。
予備校かあ。中学生から女子高生までいっぱい来るんだろうなあ、というその事実が、不安の種となって私の胸を締め付ける。かつての自分を棚に上げて、悪い虫がつかないかと気が狂いそうになる。
それでも、負けるつもりなんて毛頭ないよ。高校生の女なんて、今の私から見れば色香の足りないひよっこみたいなものなのだし。
昔は、短めのフレアスカートとかプリーツスカートを好んで履いた。でも、それはもうおしまい。先生は、もっと大人っぽいシックな服が好みなんだもんね。私、知ってるよ。
そうだ。また、花、送りますね。
経歴がバレると差し障りがあるので、素性はうまく隠しているようだ。
予備校かあ。中学生から女子高生までいっぱい来るんだろうなあ、というその事実が、不安の種となって私の胸を締め付ける。かつての自分を棚に上げて、悪い虫がつかないかと気が狂いそうになる。
それでも、負けるつもりなんて毛頭ないよ。高校生の女なんて、今の私から見れば色香の足りないひよっこみたいなものなのだし。
昔は、短めのフレアスカートとかプリーツスカートを好んで履いた。でも、それはもうおしまい。先生は、もっと大人っぽいシックな服が好みなんだもんね。私、知ってるよ。
そうだ。また、花、送りますね。
ポインセチアの花言葉は、『私の心は燃えている』
※
私が住んでいるアパートから、先生の部屋がとてもよく見える。
本当は、毎日でも会いたいって思うけれど、愛が重すぎる女は嫌われるんだよね。だから、この場所から見守るだけに私は留めておくの。
先日買ってきた花を鉢植えにして、部屋で育てています。紫色の花を付けるクマツヅラ科の植物で、デュランタっていうの。先生知ってるかなあ?
本当は、毎日でも会いたいって思うけれど、愛が重すぎる女は嫌われるんだよね。だから、この場所から見守るだけに私は留めておくの。
先日買ってきた花を鉢植えにして、部屋で育てています。紫色の花を付けるクマツヅラ科の植物で、デュランタっていうの。先生知ってるかなあ?
花言葉は、『あなたを見守りたい』
※
私は約束を守ったよ。
約束を守れない先生には、お仕置きが必要かもね。
――許さない。
約束を守れない先生には、お仕置きが必要かもね。
――許さない。
※
ビルの屋上を吹き抜けていく、冷たい夜風が頬を撫でる。
高い場所から見下ろすと、大都会東京の夜景は星空みたいだった。光の柱となったビル群があり、寄り添うみたいに住宅の灯があった。手のひらで掬い取れそうな輝きのひとつひとつに、誰かの生活があるんだ、と思うと不思議な気持ちになってくる。
私の物語も、この輝きの中のひとつでしかないのだ。私一人が消えたところで誰も気にしないし、何事もなかったみたいに明日がまたやってくる。代り映えのない、日常が――。
返り血を浴びたブラウスの胸元に手を添える。
私がどれだけ本気なのか。私がどれだけあなたにふさわしいのか、ずっとうったえてきたのに。先生と交わした約束だってちゃんと守ったのに。
高い場所から見下ろすと、大都会東京の夜景は星空みたいだった。光の柱となったビル群があり、寄り添うみたいに住宅の灯があった。手のひらで掬い取れそうな輝きのひとつひとつに、誰かの生活があるんだ、と思うと不思議な気持ちになってくる。
私の物語も、この輝きの中のひとつでしかないのだ。私一人が消えたところで誰も気にしないし、何事もなかったみたいに明日がまたやってくる。代り映えのない、日常が――。
返り血を浴びたブラウスの胸元に手を添える。
私がどれだけ本気なのか。私がどれだけあなたにふさわしいのか、ずっとうったえてきたのに。先生と交わした約束だってちゃんと守ったのに。
「先生は、守ってくれなかったね。私とした約束」
だから――私は、先生との愛を永遠のものにすることにしたんだよ。
さようなら、先生。
さようなら、世界。
ふわっとした浮遊感が全身を包んで、それから重力に引かれて落ちていく。
最後に見たのは天の川だった。猛烈な風と、ぐるぐる回る視界の中で、星空のなかに先生の優しい顔が見えた気がし――。
ガンッ。
さようなら、先生。
さようなら、世界。
ふわっとした浮遊感が全身を包んで、それから重力に引かれて落ちていく。
最後に見たのは天の川だった。猛烈な風と、ぐるぐる回る視界の中で、星空のなかに先生の優しい顔が見えた気がし――。
ガンッ。
※
「いやあ、酷い事件でしたね」
「ああ。狂ってやがるな、世の中」
「ホトケさん。ナイフでめった刺しにされたあと、心臓を取られてたんでしょう?」
「らしい。抜き取った心臓を抱いて、ビルの屋上からダイブ。どうなってんだろうな」
「ん……。それなんですけどね。そこに至るまでの犯人の行動も、異常なんスよ」
「というと?」
「窓ガラスを割って不法侵入したり、脅迫めいたメッセージを添えて、たびたび花を送り付けたり。被害者はそれがもとで、その時交際していた恋人に逃げられたらしいんですよ」
「それじゃストーカーと同じだろう? 警察に届けは?」
「してなかったらしいですね。どうやら、被害者は犯人の女が高校生の頃に、肉体関係を持って教師の職を失っているらしく、それが明るみになるのを恐れたってことなんじゃないのかと」
「ああ。狂ってやがるな、世の中」
「ホトケさん。ナイフでめった刺しにされたあと、心臓を取られてたんでしょう?」
「らしい。抜き取った心臓を抱いて、ビルの屋上からダイブ。どうなってんだろうな」
「ん……。それなんですけどね。そこに至るまでの犯人の行動も、異常なんスよ」
「というと?」
「窓ガラスを割って不法侵入したり、脅迫めいたメッセージを添えて、たびたび花を送り付けたり。被害者はそれがもとで、その時交際していた恋人に逃げられたらしいんですよ」
「それじゃストーカーと同じだろう? 警察に届けは?」
「してなかったらしいですね。どうやら、被害者は犯人の女が高校生の頃に、肉体関係を持って教師の職を失っているらしく、それが明るみになるのを恐れたってことなんじゃないのかと」
そんなことで? と訊ねると、後輩の男は「全部、憶測ではありますけどね」と答え煙草の火をもみ消した。
「こんな結末で、その女は幸せだったのかねえ」
「幸せだったのかもしれませんよ。女の遺体のそばに、心臓と一緒に落ちていた花の名前はシオンでしたし」
「それが、何か関係あるのか?」
「シオンの花言葉は『追憶』。君を忘れない、という意味の他に、亡き人を偲ぶ意味もあるんです。だから、最初からこういう算段だったのかもしれねえんです」
「なるほどね」
「幸せだったのかもしれませんよ。女の遺体のそばに、心臓と一緒に落ちていた花の名前はシオンでしたし」
「それが、何か関係あるのか?」
「シオンの花言葉は『追憶』。君を忘れない、という意味の他に、亡き人を偲ぶ意味もあるんです。だから、最初からこういう算段だったのかもしれねえんです」
「なるほどね」
その女の子にとっちゃあ、望み通りの結末だったのかも、しれませんよ。
と言って、男は代わりの煙草を取り出した。
と言って、男は代わりの煙草を取り出した。
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