ある朝、慌ただしい足音と怒号で目が覚めた。
なにやら玄関の方が騒がしい。まだ痛む後ろ足を引きずるようにケージの二階に上って外を見ると、少年たちが農工具を武器のように持ち何かとにらみ合っていた。
視線の先には熊のような図体をした、しかし明らかに私の知る熊とは違うものがいた。
目は青く、爪は貫くことに特化したように鋭く尖り、長い年月をかけて血が沁み込んだような赤色をしていた。それは形容するなら化け物――
「イヘラ!」
ぴくっと耳が反応する。誰かが私を呼んでいるのかと周囲を確認したが、納屋に人の気配はない。声はそのうち波のようにうねり、威嚇のように強まっていく。それは少年たちが対峙する化け物に向かって叫んでいる声だった。
――どうして、いつも私を呼ぶその言葉で化け物を呼ぶの?
子供たちを制止する声が響き、サキュアが先頭に現れる。
彼は私にした時と同じように、しかしはっきりと敵意を向けた声で熊へ語り掛けた。熊もそれに呼応し威嚇のように声を上げる。
何度か会話のようなラリーが続いた後、熊が前足を地面につき突進の構えをする。サキュアはそれに動じる様子もなくスッと手を前にかざした。手のひらの先に小さな揺らぎが見えたかと思うと、揺らぎは光の球となり、ゆっくり周りの光を喰らいはじめた。光が強まるほど波紋のように球の周りから光が失われ、夜が広がっていく。
それはとても眩しかった。彼を見つめる子供たちの目がキラキラと輝く。気付かず私の双眸から溢れ出した大粒の涙にもそれは反射し、涙の表面をくるりと一周するように輝いてはおがくずに吸い込まれていった。
私はこの世界において、あの熊と同じ化け物の一匹なんだ。
サキュアが放った光線が、熊を貫く。その光景に私の心は、ひどく痛んだ。
――
私の足が治りきる前に、サキュアは修道院をあとにした。
「アングチュア」
それはこれまでに聞いたことのない言葉だった。けれど私にはそれが「バイバイ」を意味する言葉だとはっきりとわかった。
彼は定期的に食料や日用品などを届けにやってくるのだろう。だからこそ告げられた「バイバイ」がつらく刺さった。
熊との対峙後、少年たちは私に近づいてこなくなった。老婦は変わらず食事を届けに来てくれたが、それ以外には何もなかった。足が治るまでここに置いてくれることが、最大限私に向けられた優しさだということはわかっていた。
本当はもう歩き出せる。けれど、どこにも行けそうになかった。化け物の鳴き方もわからないまま私はただ静かに涙を零し、丸まって目を閉じた。
夜も更けた頃、きぃと扉が開いた。
不自然な時間の来訪者に私は(遂に始末されてしまうのだろうか)と考えながら視線を向けると、灯りに照らされてキラキラと輝くオレンジの髪が見えた。
彼は私を見つけると走り寄ってきて、いつも手に持っている図鑑の一ページを見せてきた。そこには私のような生き物のイラストが描かれており、風に乗って空を飛んでいる姿が描かれていた。
彼は興奮気味に何かをまくしたてる。また頬までオレンジに染まっていた。
ケージの扉を開け私に向かって手を差し出す。あの日よりも力強いその手に、今度は私からも手を伸ばした。
――
外は風もなく、星が夜空を埋め尽くしていた。
図鑑のうさぎは後ろ足に風をまとわせていた。足に意識を集中するが何も起きない。そもそも魔法は頑張ればできるようなことなのだろうか。
環境が変われば人は変わると簡単に言われることもあった。そんなことはわかっている。けれど環境を変えることそのものが簡単ではなかった。私にとって父はいつまでも父だ。変えられるのならばとっくに変えている。そして私も変われるのならとっくに変わっている。
徐々に苛立ちがわいて、私は集中することをやめた。代わりに目いっぱい、もう痛くない後ろ足で地面を蹴りつけた。
体が宙を舞う。
けれどそれはあくまでジャンプに過ぎない。落ちていく浮遊感に、階段から落ちた時の不快感が蘇る。
その瞬間、背中に優しく触れる温もりがあった。
オレンジの少年が、私の背にぴったりと手のひらをつけ勢いをつけるように私を押してくれた。
私は風に飛ばされるように空へと放り出された。振り返るともう少年の姿も、修道院もかなり小さくなっている。彼は手を振りながら「アングチュアー!」と叫んでくれていた。後ろ足の包帯が、まとった風に千切られて落ちていく。
無計画に空を舞いながら私は、何をしようかと考える。
まずやりたいことは二つだ。「ありがとう」を覚えること。それを私の恩人二人に真っ先に伝えること。
遠くに見える唯一の街灯りに私を助けてくれた異世界の魔法使いがいることを信じ、私はまっすぐ光へ向かって進んだ。