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第1章

ー/ー



鼻をくすぐる草木の匂いと心地よい揺れに、ゆっくりと意識が覚醒する。

そっと目を開くとそこには草原が広がっていた。
変だ。あまりにも地面が近い。体が水平になっている感覚がある。
私、今、誰かに抱えられている?

視線を上げると、ローブに身を包んだ男の顔が見えた。
フードから銀色の前髪がこぼれている。

男に捕まっている状況に気付き四肢をバタバタ動かすと、右足に激痛が走った。

(うそ、足を怪我してるの?)と半ば絶望しかけたが、その衝撃すらも吹き飛ばすほどの事実が私の目に入った。

腕が、白い毛に覆われている。

理解できずに呆けていると、男が顔を近付け何かを熱心に話しかけてきた。

その言語は私が知るものではなかった。英語でも日本語でもなく、中国語やドイツ語のようなものでもない。どれだけ真剣に耳を傾けても理解できない言語のように思えた。

私が無反応なことに男は不思議そうな顔をして、私の額を人差し指でぐりぐりしてから同じように語りかけてきた。それでも通じないことを確認すると、男はなぜか楽しそうに笑ってまた歩き出した。

彼が一歩進む度に、さく、さく、と小気味良い音が鳴る。男は独り言を呟いたり、笑ったり、歌ったりと陽気に草原を歩いていた。私はそれに毒気を抜かれてしまい、すべての命運を彼に預けて運ばれるがままにした。
 
どれくらい歩いただろうか。ふと風の匂いが変わった。

顔を上げると、崖の上に古びた修道院が建っていた。雲一つない空と海が水平線で一つに溶け合っている。

(なんて絵になる風景だろうか)と眺めていると、扉の中から修道服に身を包んだ老婦が現れた。

男は老婦の元へ手を振りながら近づいて行った。

周りには他に建物などなく、目的地はここだったのだろうと推測が付く。

老婦は男との話の途中に私を一瞥し怪訝な顔をしながら私を指さして「イヘラ!」と言った。
 
私が(イヘラとはどういう意味なのだろう)と考えていると、今度は扉から子供が一斉に飛び出してきて、我先にと餌をねだる燕の子のように男の元に集まってくる。

しかし私の姿を目にした瞬間、その声が一斉に止まった。さっきまでの光がすべて失われた目を彼らは私に向ける。

その目に、私は覚えがあった。

――

この状況になる直前、私は階段から落ちた。

その日私は父に課された時代錯誤な門限を破ってしまい、玄関ではなく私の部屋の前で待ち構えていた父に階段から突き落とされたのだ。

――

少年たちの目は私に失望した父のそれではなく、私が父に向ける目そのものだった。

私が震えていると、男の手のひらが頭の上についた私の耳を優しくふさぐように降りてきた。少しだけ震えが治まる。ぼやけた声で何言か交わした後、少年たちはそれぞれ納得したようなしていないような顔をして修道院内へと戻っていった。

そんな中、絵本を持った少年がおずおずと男の元に近づいてきて私を指さした。うねったオレンジ色の髪と、レンズの大きな丸眼鏡をかけた子だ。

男の手が頭から離れる。少年は私の正面に立ちゆっくりと手を伸ばしてきた。少年とはいえ今の私の頭なら容易に握りつぶせそうな手に、私はまたぎゅっと目を瞑ってしまう。

そっと少年の手が私の毛先に触れて一瞬止まり、そのままふわっと撫でるような力が伝わってきた。恐る恐る目を開けると、彼は頬までオレンジに染まったように恥ずかしそうに微笑んで、私に何か短い言葉を掛けてくれた。


男に鏡を用意してもらい姿を確認すると、想像はついていたが、私は全身真っ白なうさぎになっていた。

私はその日から修道院で彼らと過ごすことになった。少年たちや老婦は皆、私を「イヘラ」という音で呼んだ。それは名前と呼べるようなものではなく「うさぎ」と種族名で呼ばれているようだった。

何日か過ごしていく中で、気付いたことは他にもあった。

男は皆から「サキュア」と呼ばれていること。

サキュアは魔法が使えること(彼はトートバックほどの大きさの袋から、何か月分にあたるかわからない食材や日用品、木材、それから私のための二階建てのケージなどを引き出して納屋に運び入れた。自由にものの出し入れができる魔法らしかった)。

ここには小学校高学年までの少年しかいないこと。彼らがサッカーのような遊びにご執心なこと。

足を怪我している私は、体育の授業を見学するように日陰から彼らを眺めていた。

誰かが蹴った球が私の元へと転がってくる。サキュアは私にデコピンのようなジェスチャーで(君が打ち返しなよ)と促してきたので、私はその指の動きに合わせ、顎を引いてから勢いよく顔を上げてボールを突き上げた。

ボールは気持ちよく宙に舞い上がり少年たちの元に戻っていく。頭がジンジン
する。少年たちは私にサムズアップをしてくれた。

ここはとても心地のいい場所だった。彼らは最初の一週間は私を警戒していたが、今ではペットのように触れてくれる。

夢なら覚めなくてもいい。命を失い転生したのならそれでも悪くないな、と私は思っていた。



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鼻をくすぐる草木の匂いと心地よい揺れに、ゆっくりと意識が覚醒する。
そっと目を開くとそこには草原が広がっていた。
変だ。あまりにも地面が近い。体が水平になっている感覚がある。
私、今、誰かに抱えられている?
視線を上げると、ローブに身を包んだ男の顔が見えた。
フードから銀色の前髪がこぼれている。
男に捕まっている状況に気付き四肢をバタバタ動かすと、右足に激痛が走った。
(うそ、足を怪我してるの?)と半ば絶望しかけたが、その衝撃すらも吹き飛ばすほどの事実が私の目に入った。
腕が、白い毛に覆われている。
理解できずに呆けていると、男が顔を近付け何かを熱心に話しかけてきた。
その言語は私が知るものではなかった。英語でも日本語でもなく、中国語やドイツ語のようなものでもない。どれだけ真剣に耳を傾けても理解できない言語のように思えた。
私が無反応なことに男は不思議そうな顔をして、私の額を人差し指でぐりぐりしてから同じように語りかけてきた。それでも通じないことを確認すると、男はなぜか楽しそうに笑ってまた歩き出した。
彼が一歩進む度に、さく、さく、と小気味良い音が鳴る。男は独り言を呟いたり、笑ったり、歌ったりと陽気に草原を歩いていた。私はそれに毒気を抜かれてしまい、すべての命運を彼に預けて運ばれるがままにした。
どれくらい歩いただろうか。ふと風の匂いが変わった。
顔を上げると、崖の上に古びた修道院が建っていた。雲一つない空と海が水平線で一つに溶け合っている。
(なんて絵になる風景だろうか)と眺めていると、扉の中から修道服に身を包んだ老婦が現れた。
男は老婦の元へ手を振りながら近づいて行った。
周りには他に建物などなく、目的地はここだったのだろうと推測が付く。
老婦は男との話の途中に私を一瞥し怪訝な顔をしながら私を指さして「イヘラ!」と言った。
私が(イヘラとはどういう意味なのだろう)と考えていると、今度は扉から子供が一斉に飛び出してきて、我先にと餌をねだる燕の子のように男の元に集まってくる。
しかし私の姿を目にした瞬間、その声が一斉に止まった。さっきまでの光がすべて失われた目を彼らは私に向ける。
その目に、私は覚えがあった。
――
この状況になる直前、私は階段から落ちた。
その日私は父に課された時代錯誤な門限を破ってしまい、玄関ではなく私の部屋の前で待ち構えていた父に階段から突き落とされたのだ。
――
少年たちの目は私に失望した父のそれではなく、私が父に向ける目そのものだった。
私が震えていると、男の手のひらが頭の上についた私の耳を優しくふさぐように降りてきた。少しだけ震えが治まる。ぼやけた声で何言か交わした後、少年たちはそれぞれ納得したようなしていないような顔をして修道院内へと戻っていった。
そんな中、絵本を持った少年がおずおずと男の元に近づいてきて私を指さした。うねったオレンジ色の髪と、レンズの大きな丸眼鏡をかけた子だ。
男の手が頭から離れる。少年は私の正面に立ちゆっくりと手を伸ばしてきた。少年とはいえ今の私の頭なら容易に握りつぶせそうな手に、私はまたぎゅっと目を瞑ってしまう。
そっと少年の手が私の毛先に触れて一瞬止まり、そのままふわっと撫でるような力が伝わってきた。恐る恐る目を開けると、彼は頬までオレンジに染まったように恥ずかしそうに微笑んで、私に何か短い言葉を掛けてくれた。
男に鏡を用意してもらい姿を確認すると、想像はついていたが、私は全身真っ白なうさぎになっていた。
私はその日から修道院で彼らと過ごすことになった。少年たちや老婦は皆、私を「イヘラ」という音で呼んだ。それは名前と呼べるようなものではなく「うさぎ」と種族名で呼ばれているようだった。
何日か過ごしていく中で、気付いたことは他にもあった。
男は皆から「サキュア」と呼ばれていること。
サキュアは魔法が使えること(彼はトートバックほどの大きさの袋から、何か月分にあたるかわからない食材や日用品、木材、それから私のための二階建てのケージなどを引き出して納屋に運び入れた。自由にものの出し入れができる魔法らしかった)。
ここには小学校高学年までの少年しかいないこと。彼らがサッカーのような遊びにご執心なこと。
足を怪我している私は、体育の授業を見学するように日陰から彼らを眺めていた。
誰かが蹴った球が私の元へと転がってくる。サキュアは私にデコピンのようなジェスチャーで(君が打ち返しなよ)と促してきたので、私はその指の動きに合わせ、顎を引いてから勢いよく顔を上げてボールを突き上げた。
ボールは気持ちよく宙に舞い上がり少年たちの元に戻っていく。頭がジンジン
する。少年たちは私にサムズアップをしてくれた。
ここはとても心地のいい場所だった。彼らは最初の一週間は私を警戒していたが、今ではペットのように触れてくれる。
夢なら覚めなくてもいい。命を失い転生したのならそれでも悪くないな、と私は思っていた。