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密かな感情

ー/ー



「あれ、みーちゃん」
 入ってきたのは夏芽だった。カッターシャツの袖を捲って髪の毛をヘアゴムでひとまとめにしており、見るからに健康児といった風貌だ。
「おつかれ」
「全然疲れてないよ。これから校内のホシュテンケンに回るんだから」
 形骸化した挨拶を額面通り受け取るのも、この子らしいと言えばこの子らしい。ていうか、ホシュテンケンってなんだ? ……あ、保守点検か。そっか、そんなこともボランティア部は請け負ってるんだ。
「こんにちは、小瀬さん」
 そして、この人。夏芽に続いて教室に入ってきた樋渡先輩の完璧な微笑みは、今日も私の心をほんの少しだけ波立たせる。
「お疲れ様です、樋渡先輩」
「ありがと。でも別に疲れてないかな。保守点検もパパッと済ませないといけないし。ね、和久井さん」
「はい、綾さん」
 そんなやりとりを披露されて、あはは、と私は気のない笑いを浮かべてしまう。
 夏芽は、樋渡先輩のことを綾さん、と呼ぶようになった。どうやらそれなりに懐いているらしい。最近では部活動の終わりにあの喫茶店に寄ってから帰ることもあるようで、樋渡先輩と一緒に過ごす時間がどんどん増えている。その分私との時間が減ってしまっているわけだけれど、まあそれはこの際仕方のないことだ。今の所、あの人の存在がなにか夏芽に悪影響を及ぼしているわけではないし、夏芽の私に対する信頼は相変わらず揺るぎない。交友関係が広がるということそれ自体は、至極健全なことだと思う。
 けれど、樋渡先輩から放たれる底知れなさのようなものは、知り合ってから二ヶ月が経とうとしている今でも、私を身構えさせる。
 樋渡綾。二つ上の先輩で、長岡先輩と幼馴染で、ボランティア部の部長。綺麗で、清潔感があり、頭が良くて、人当たりも要領も良い。実際、課外活動での際の立ち居振る舞いを見ていても、全くそつがない。挨拶や、私たちへの指示出しや、レクリエーションのパフォーマンスや、現地で会った人たちとの交流を、ごく自然に、一定の余裕と温かさを纏わせながら実践している。そんな姿を目にすると、どう考えても部員三名の同好会みたいな部活動の部長なんかに収まる器じゃないな、と思ってしまう。もしかしたら、そういう目的の読めなさというか、結果として生じる不合理性みたいなのが、私は腑に落ちないのかもしれない。
 二人が校内の保守点検に向かったあと、どうしてボランティア部なんかに入ろうと思ったのか、長岡先輩にそれとなく訊ねてみた。彼は少しの間考える様子を見せてから、「俺たちがボランティア部にこだわる理由を、小瀬は知りたいのか」と言った。
「私、そんな嫌な訊き方したつもりないんですけど」
「そうか。すまない」
 あ、笑った。普段あまり表情を変えない分、この人の笑顔は見たらなんだか得したような気分になる。
「ボランティア部は受けがいいんだよ」
 と長岡先輩は言った。
「学校側にってことですか?」
「ああ。大っぴらに公表されてこそいないが、過去に指定校推薦をもらった先輩たちの割合を見るとボランティア部のOBが多い。実際、俺たちの一つ上の代からも何人かが推薦枠をもらっている」
「なんだか胡散臭い話ですね」
「種を明かせば単純な話さ。部活動としてのボランティア部の活動と、慈善活動としてのボランティア部の課外活動が、それぞれ内申点に個別に加算されるから、他の部活よりも評価されやすいというだけのことだ」
「二重請求ってことですか」
「他の高校ではどうか知らないが、うちではそういうシステムになっているらしい」
「それで、お二人も推薦枠を狙ってる、と」
「……まあ、そういうことになるな」
 自分で白状しておきながら言葉尻に罪悪感のようなものが見え隠れしているのがおかしい。
「そんなの馬鹿正直に言わない方が良かったんじゃないですか」
 お前が言うな、とか突っ込まれるかな、と思ったけれど、彼は嫌に真剣な表情を浮かべてこう言った。
「小瀬が、言いにくいことを言ってくれたからな」
 予想外のことを言われて、私はすぐに返事をすることができなかった。
「ええと、私がこれまでの男関係についてあれこれ話したから、そのお返しに、ってことですか?」
「ああ」
「等価交換的なことですか?」
「……多分、そういうことになるんだろうな」
 なんだか変な話だけれど、長岡先輩はどうやらそういうふうに納得して、私に打ち明けてくれたらしい。そもそもこっちはその『言いにくいこと』も都合よく編集された内容しか晒していないわけで、少しだけ罪悪感がある。
「将来を見据えてボランティア活動って、なんだか不健全ですよね」
 もう少しからかってみたくて、私はそう言った。
「打算だろうが偽善だろうが、相手に気取られずに実行できればそれは献身とみなされる」
 間髪入れずにそう断言されて、おお、と私はちょっとだけ感心してしまった。
「その言葉、めっちゃ刺さりました」
 茶化されたと思ったのか、長岡先輩は「事実だからな」と素っ気なく言った。
「それに、綾が前に立って、それを見ている子どもやご老人が笑顔になっていると、その場に携われてよかった、と心から思える。そこには打算もなにもない」
「なるほど」
 とりあえず頷いておいたけれど、今この人、さらっとすごいことを言った気がする。
 もしかして樋渡先輩のことが好きなんですか、とかそんなことを訊いてみたいと思っていたら、長岡先輩は思いがけないことを口にした。
「しかし、和久井は凄いな」
 夏芽の名前を出されて、私は反射的に身構えてしまう。
「夏芽がですか?」
「俺も綾も、今言ったようなことを彼女にはなに一つ話していない。聞けば、中学のときもボランティア活動をしていたそうじゃないか。だから、余計に感心してしまう。俺には彼女が眩しく映って仕方がない。自分が忘れていた……というより、そもそも最初から持ち併せていなかった志のようなものを、あの子を見ていると感じるんだ。もしかしたら、そのあたりは綾も同じなんじゃないかな」
 夏芽が志とやらを持っているかどうかはともかく、どうやらボランティア部においてもあの子は異質な存在で、けれど、少なくとも排斥される恐れはない。長岡先輩の話を聞く限り、そんなふうに感じる。
「綾も、和久井と一緒に活動するのは楽しそうだ。内申点の件はほとんど裏情報みたいなものだから、去年は一つ下の学年から誰も入部してこなかった。そんな中で純粋にボランティアに関心がある和久井が俺たちにとって初めての後輩になった。綾もきっと可愛がっているんだろう」
 訊ねるまでもなく、樋渡先輩のことを話すときの表情を見ていると、あの人のことが好きなのかもしれない、と思った。その一方で、私にも多少心を許してくれているんだろうな、とも。それらの事実を並べて、比較してみても、特になにも感慨は生まれなかった。前までそうしていたように、ある程度確度の高い情報はその人のデータとして私の中にインプットされるという、それだけのことだ。


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「あれ、みーちゃん」
 入ってきたのは夏芽だった。カッターシャツの袖を捲って髪の毛をヘアゴムでひとまとめにしており、見るからに健康児といった風貌だ。
「おつかれ」
「全然疲れてないよ。これから校内のホシュテンケンに回るんだから」
 形骸化した挨拶を額面通り受け取るのも、この子らしいと言えばこの子らしい。ていうか、ホシュテンケンってなんだ? ……あ、保守点検か。そっか、そんなこともボランティア部は請け負ってるんだ。
「こんにちは、小瀬さん」
 そして、この人。夏芽に続いて教室に入ってきた樋渡先輩の完璧な微笑みは、今日も私の心をほんの少しだけ波立たせる。
「お疲れ様です、樋渡先輩」
「ありがと。でも別に疲れてないかな。保守点検もパパッと済ませないといけないし。ね、和久井さん」
「はい、綾さん」
 そんなやりとりを披露されて、あはは、と私は気のない笑いを浮かべてしまう。
 夏芽は、樋渡先輩のことを綾さん、と呼ぶようになった。どうやらそれなりに懐いているらしい。最近では部活動の終わりにあの喫茶店に寄ってから帰ることもあるようで、樋渡先輩と一緒に過ごす時間がどんどん増えている。その分私との時間が減ってしまっているわけだけれど、まあそれはこの際仕方のないことだ。今の所、あの人の存在がなにか夏芽に悪影響を及ぼしているわけではないし、夏芽の私に対する信頼は相変わらず揺るぎない。交友関係が広がるということそれ自体は、至極健全なことだと思う。
 けれど、樋渡先輩から放たれる底知れなさのようなものは、知り合ってから二ヶ月が経とうとしている今でも、私を身構えさせる。
 樋渡綾。二つ上の先輩で、長岡先輩と幼馴染で、ボランティア部の部長。綺麗で、清潔感があり、頭が良くて、人当たりも要領も良い。実際、課外活動での際の立ち居振る舞いを見ていても、全くそつがない。挨拶や、私たちへの指示出しや、レクリエーションのパフォーマンスや、現地で会った人たちとの交流を、ごく自然に、一定の余裕と温かさを纏わせながら実践している。そんな姿を目にすると、どう考えても部員三名の同好会みたいな部活動の部長なんかに収まる器じゃないな、と思ってしまう。もしかしたら、そういう目的の読めなさというか、結果として生じる不合理性みたいなのが、私は腑に落ちないのかもしれない。
 二人が校内の保守点検に向かったあと、どうしてボランティア部なんかに入ろうと思ったのか、長岡先輩にそれとなく訊ねてみた。彼は少しの間考える様子を見せてから、「俺たちがボランティア部にこだわる理由を、小瀬は知りたいのか」と言った。
「私、そんな嫌な訊き方したつもりないんですけど」
「そうか。すまない」
 あ、笑った。普段あまり表情を変えない分、この人の笑顔は見たらなんだか得したような気分になる。
「ボランティア部は受けがいいんだよ」
 と長岡先輩は言った。
「学校側にってことですか?」
「ああ。大っぴらに公表されてこそいないが、過去に指定校推薦をもらった先輩たちの割合を見るとボランティア部のOBが多い。実際、俺たちの一つ上の代からも何人かが推薦枠をもらっている」
「なんだか胡散臭い話ですね」
「種を明かせば単純な話さ。部活動としてのボランティア部の活動と、慈善活動としてのボランティア部の課外活動が、それぞれ内申点に個別に加算されるから、他の部活よりも評価されやすいというだけのことだ」
「二重請求ってことですか」
「他の高校ではどうか知らないが、うちではそういうシステムになっているらしい」
「それで、お二人も推薦枠を狙ってる、と」
「……まあ、そういうことになるな」
 自分で白状しておきながら言葉尻に罪悪感のようなものが見え隠れしているのがおかしい。
「そんなの馬鹿正直に言わない方が良かったんじゃないですか」
 お前が言うな、とか突っ込まれるかな、と思ったけれど、彼は嫌に真剣な表情を浮かべてこう言った。
「小瀬が、言いにくいことを言ってくれたからな」
 予想外のことを言われて、私はすぐに返事をすることができなかった。
「ええと、私がこれまでの男関係についてあれこれ話したから、そのお返しに、ってことですか?」
「ああ」
「等価交換的なことですか?」
「……多分、そういうことになるんだろうな」
 なんだか変な話だけれど、長岡先輩はどうやらそういうふうに納得して、私に打ち明けてくれたらしい。そもそもこっちはその『言いにくいこと』も都合よく編集された内容しか晒していないわけで、少しだけ罪悪感がある。
「将来を見据えてボランティア活動って、なんだか不健全ですよね」
 もう少しからかってみたくて、私はそう言った。
「打算だろうが偽善だろうが、相手に気取られずに実行できればそれは献身とみなされる」
 間髪入れずにそう断言されて、おお、と私はちょっとだけ感心してしまった。
「その言葉、めっちゃ刺さりました」
 茶化されたと思ったのか、長岡先輩は「事実だからな」と素っ気なく言った。
「それに、綾が前に立って、それを見ている子どもやご老人が笑顔になっていると、その場に携われてよかった、と心から思える。そこには打算もなにもない」
「なるほど」
 とりあえず頷いておいたけれど、今この人、さらっとすごいことを言った気がする。
 もしかして樋渡先輩のことが好きなんですか、とかそんなことを訊いてみたいと思っていたら、長岡先輩は思いがけないことを口にした。
「しかし、和久井は凄いな」
 夏芽の名前を出されて、私は反射的に身構えてしまう。
「夏芽がですか?」
「俺も綾も、今言ったようなことを彼女にはなに一つ話していない。聞けば、中学のときもボランティア活動をしていたそうじゃないか。だから、余計に感心してしまう。俺には彼女が眩しく映って仕方がない。自分が忘れていた……というより、そもそも最初から持ち併せていなかった志のようなものを、あの子を見ていると感じるんだ。もしかしたら、そのあたりは綾も同じなんじゃないかな」
 夏芽が志とやらを持っているかどうかはともかく、どうやらボランティア部においてもあの子は異質な存在で、けれど、少なくとも排斥される恐れはない。長岡先輩の話を聞く限り、そんなふうに感じる。
「綾も、和久井と一緒に活動するのは楽しそうだ。内申点の件はほとんど裏情報みたいなものだから、去年は一つ下の学年から誰も入部してこなかった。そんな中で純粋にボランティアに関心がある和久井が俺たちにとって初めての後輩になった。綾もきっと可愛がっているんだろう」
 訊ねるまでもなく、樋渡先輩のことを話すときの表情を見ていると、あの人のことが好きなのかもしれない、と思った。その一方で、私にも多少心を許してくれているんだろうな、とも。それらの事実を並べて、比較してみても、特になにも感慨は生まれなかった。前までそうしていたように、ある程度確度の高い情報はその人のデータとして私の中にインプットされるという、それだけのことだ。