私は自分のことを、少なくとも同年代の子たちと比較すると大人びた、自立した人間だと思っていた。そんな私が唯一情緒をかき乱されるのが、夏芽のことを考えているときだった。
セックスもピロートークも落ち着き、相手が眠ってしまったあと(大抵、彼らは私よりも先に眠ってしまう)、決まって夏芽のことを考える。いつの日か、彼女が初体験を迎える夜のこと。そんな日が本当に来るのだろうか、と真剣に考えてみる。そして、夏芽はいつまでも、無垢で、無邪気で、無辜であるべきだ、と強く思う。そうやって、香水やタバコの匂いや体臭なんかが混じり合ったベッドの中で相手の体温を感じながら夏芽のことを一通り考えて眠りにつくとき、決まって言い知れぬ切なさを覚えるのだった。
夏芽にとって私は、信頼の置ける親友であると同時に「なんでも教えてくれるお姉さん」というべき存在になっていた。四年生からずっと同じだったクラスも中学二年からは別になってしまったけれど、わからないことがあればまず私に訊ねる、という完成されていた流れが変わることもなかった。
折に触れて寄せられる夏芽からの問いに対して、無意識的に自分の中で創り上げられた理想の夏芽像と照らし合わせた答えを用意している、と自覚したのは、比較的最近のことだ。そういったやりとりを、時間をかけて丁寧に積み重ねていったことで、夏芽の知識体系は着実に私が望んだ方向性――愛や正義といった世の中の表層的な美徳を受け入れ、ごく一般的に良い子とされる青少年像に則った模範生らしいもの――へと進んだ。
和久井夏芽という存在の瑞々しさは、成長を重ねるにつれてよりいっそう周囲に認知されていった。まるで自分たちの中から失われていったものを求めるように、多くの人間が夏芽を愛で、好感を抱いた。勿論、みんながみんな夏芽の美徳を受け入れたわけではない。その素直さや年不相応な幼さを嗤う人たちもいた。中には、嫌悪感を抱いているらしい子もいた。私はそんな悪意から(あくまでさりげなく、夏芽自身が気付かないような形で)彼女を護っていたけれど、同時にそうやって夏芽を避けたり攻撃したりしてしまう人間の心理というのも、なんとなく理解できるような気がした。
夏芽自身の持つ資質と、穏やかで優しい祖父母との三人暮らしという牧歌的な養育環境、そして私の意思が反映された情報の選別により、中学三年を迎えても、夏芽はほとんど世間擦れしていない無垢な少女のていを保っていた。そんな彼女を目の当たりにして誇らしい気持ちになることもあれば、怖くなることもある。見ていて腹立たしくなることもある。なぜか悲しくなることがある。彼女の存在はまるで、その時々の私の深層心理を映す鏡のようだった。
けれど、私の努力ではどうしようもないこともある。特に性に関する知識は、保健体育の授業で教師が話す内容を真面目に傾聴したり、誰かから借りた少女漫画の過激な描写を目にしたりすることで、止めようもなく蓄積されていく。
私が恐れているのは、夏芽が知識を得ることそれ自体ではなく、知識を得ることで夏芽の感性に変革が訪れることだった。夏芽が、そうやって少しずつ自分たちの方へと近づいて来ようとしているのを、私は拒みたいと思っている。夏芽から夏芽らしさが失われてしまうなんて、あってはならないことだと、強く思っている。
けれど、ある日のセックスの後、唐突にこう思った。
――夏芽が夏芽のままではいられなくなる日は、そう遠くないのかもしれない。
どうしてそう考えるようになったのかは、自分でもわからない。まるで唐突にスイッチがパチンと入れられて、それまで見えなかったものが光に曝されるように、私の中でそのイメージは急に現れた。
そして、高校に入学した今に至るまで、常に心の何処かに消えることなく居座っているのだった。