会いに
ー/ー 熱があって学校に行けない。
入学式の日の朝、泣き顔の絵文字付きでそんなメッセージが送られてきた。私は小さく欠伸を漏らしながら、頭の中で放課後の算段を立てる。一つ息を吸って、めんどくさいことになったな、とため息をついてみるも、今日という日をおそらくは全新入生の中で最も心待ちにしていたであろうあの子の間の悪さや不憫さを思うと、薄い微笑が止めようもなく浮かんでしまう。
一方で私は、高校生になるという実感がまるでない。驚くほどない。先月の自分と今月の自分を比較しても、変化なんてなに一つ見受けられないのに、然るべき時が来たからもう中学生じゃなくて高校生ですよ、と強制的に立場を変えられるのは、なんとなく不服だった。小学校から中学校に上がるときって、こんなこと考えてたっけ。
多分、私は中学生の頃の生活リズムがそれなりに好きだったんだろう。身体と意識が、あの日々に馴染みすぎていたのだ。
学校では、人気者の一番の親友というポジションにおさまってそれなりに楽しく、波風立てずにやってきた。すっかり主目的が男漁りとなっていた塾に通っていたときも、講義自体はしっかりと聴いていた。学生の本分は勉強ですよ、と言わんばかりのあの擬態は、論理的に思考するという習慣を身につける良いきっかけになったし、塾で得た知識は勉強を教えてほしがっていたあの子にフィードバックすることで私の中にも定着し、お互いのテスト結果にもちゃんと結びついた。そしてなにより、数えきれないほどのセックスとそれに付随するコミュニケーションをもたらし、表層的な関わりでは決して測れない様々な人間模様を私に教えてくれた。
十三歳から十五歳にかけての三年間、健全な安寧も、不健全な刺激も、弛まぬ努力によって(それは私にとっての努力だったんだ。決して誇張ではなく)過不足なく日常に落とし込めていた。すべてが、理想的なサイクルで回っていたように思う。だから私にとっては、新しい環境に対する期待なんかよりも、それまでのサイクルが失われたことに対する不満やストレスの方がずっと大きかった。
そんなわけで、体育館で校長やら役員やら在校生代表やらの挨拶を聞いていても、見知らぬ教室の見慣れぬ顔の集団の中に放り込まれても、頭の中を巡るのはどうすればかつてのサイクルを取り戻せるか、というその一点のみで、周囲で気もそぞろな初対面同士が顔を突き合わせているその流れを横目に私は一人で机に頬杖をついている。右手でスマホを触っているふりをして、誰も話しかけてくれるなポーズの完成。
「ねね、どこの中学だった?」
こんな無表情でスマホを触っているやつに声をかける物好きなんていないだろう、と思っていたけれど、前の席から身体ごとこちらに向けて喋りかけてくる子がいた。セミロングの髪をふわふわとカールさせた、男受けしそうな見た目の子だった。
「東中」
「え、やば、あたしの元彼いるよ、東中」
だからなんだ、と思ったけれど、流石に馬鹿正直に口にするわけにはいかず、「そうなんだ」と曖昧に笑って頷いておく。
「セイヤってわかる? サッカー部だったやつ」
「あー、高泉君?」
「そいつ! え、知ってんだ。なんか恥ずいわー」
ヒエラルキーのわりと上位にいた高泉と付き合ってたんだ、と私はちょっとだけ彼女の評価を改める。くだらない評価基準だとは思うけれど、初対面の相手を推し量る上でとりあえずの指標として機能するのもまた事実だった。
「結構モテるでしょ?」
と私は彼女を指さしながら、なんの脈絡もなく言ってみた。白いファンデーションに隠れた頬が、上機嫌に色づくのがわかった。名前知らん子にめっちゃ褒められた、とゲラゲラ笑ってから、彼女は付け足した。
「ありがと! めっちゃいい子! え、てか名前は?」
私は自己紹介をしてから、「そっちの名前は?」と訊ねた。
「あたし、リリイ」
「リリイ?」
「笑うよね、変な名前で。字も地味にムズいのがまた腹立つんよ」
そう言って、彼女は璃李依、と入力したスマホの画面を見せてくれた。
「そんなことない。いい名前だと思う」
「え、ミミって神なの?」
聞き慣れない響きが自分の呼び名だと気づくのに、少し時間がかかってしまう。
「なに、ミミって」
「ミミとリリってさあ、すでにコンビじゃんねあたしら」
「璃李依って全然人の話聞かないね」
ぎゃーディスられたー、と笑う璃李依につられて私も笑ってしまう。そして当然のように連絡先を交換した。この子と仲良くしたいかも、と素直に思えた。
「そういや気づいたんだけどさ、廊下側の一番後ろの席、空いてるくない?」
「そうだね」
そこが空席となっている理由に関してはちゃんと知っていたけれど、一から説明するのは面倒だったので、あえてなにも言わないでおこうと思った。
「もしかしてさ、いきなり不登校かます感じかな?」
「どうだろう」
もしかしてだけどー、と璃李依は私の返事を待たずに歌い出す。このマイペースな感じは、あの空席の主と通ずるものがある。
放課後になると、多くのクラスメートはできたてほやほやの友達との会話に勤しんでいたけれど、私は璃李依に手を振って別れると彼らには目もくれず教室を出て、まっすぐ帰路についた。コンビニに寄ってみかんゼリーを買って、帰宅するなら右に曲がらないといけない交差点をまっすぐ進む。入学祝いに買ってもらったワイヤレスイヤホンから流れるプレイリストを適当に聴き流しながら歩いていると、なんだか不意に高校生になった実感が湧いてくる。
和久井、と書かれた表札の前に立って、インターホンを押す。すると、いきなりすりガラスのはめられた引き戸がガラガラと開いた。
「あらら、みーちゃん、それ高校の制服?」
白髪混じりの短髪を簡素なピンで留めたおばあちゃんは、私の全身を見渡して笑った。
「うん。似合う?」
くるん、とその場で軽やかに一回転して見せると、おばあちゃんは「可愛い可愛い」と手を叩いた。私はなんだか照れくさくなって、スカートの裾なんか触ってしまう。
「早く上がって。あの子も待ってるんだよ」
「はーい」
昔ながらの木造建築二階建ての家の中には、お線香と畳と今日の夕食に出るであろう煮物の匂いが折り重なって漂っていて、和風という概念の標準、みたいな感じがする。
そんな事を考えながら、私は二階へ続く階段を登る。そして一番奥にある部屋のドアを、ノックもせずに開けた。
入学式の日の朝、泣き顔の絵文字付きでそんなメッセージが送られてきた。私は小さく欠伸を漏らしながら、頭の中で放課後の算段を立てる。一つ息を吸って、めんどくさいことになったな、とため息をついてみるも、今日という日をおそらくは全新入生の中で最も心待ちにしていたであろうあの子の間の悪さや不憫さを思うと、薄い微笑が止めようもなく浮かんでしまう。
一方で私は、高校生になるという実感がまるでない。驚くほどない。先月の自分と今月の自分を比較しても、変化なんてなに一つ見受けられないのに、然るべき時が来たからもう中学生じゃなくて高校生ですよ、と強制的に立場を変えられるのは、なんとなく不服だった。小学校から中学校に上がるときって、こんなこと考えてたっけ。
多分、私は中学生の頃の生活リズムがそれなりに好きだったんだろう。身体と意識が、あの日々に馴染みすぎていたのだ。
学校では、人気者の一番の親友というポジションにおさまってそれなりに楽しく、波風立てずにやってきた。すっかり主目的が男漁りとなっていた塾に通っていたときも、講義自体はしっかりと聴いていた。学生の本分は勉強ですよ、と言わんばかりのあの擬態は、論理的に思考するという習慣を身につける良いきっかけになったし、塾で得た知識は勉強を教えてほしがっていたあの子にフィードバックすることで私の中にも定着し、お互いのテスト結果にもちゃんと結びついた。そしてなにより、数えきれないほどのセックスとそれに付随するコミュニケーションをもたらし、表層的な関わりでは決して測れない様々な人間模様を私に教えてくれた。
十三歳から十五歳にかけての三年間、健全な安寧も、不健全な刺激も、弛まぬ努力によって(それは私にとっての努力だったんだ。決して誇張ではなく)過不足なく日常に落とし込めていた。すべてが、理想的なサイクルで回っていたように思う。だから私にとっては、新しい環境に対する期待なんかよりも、それまでのサイクルが失われたことに対する不満やストレスの方がずっと大きかった。
そんなわけで、体育館で校長やら役員やら在校生代表やらの挨拶を聞いていても、見知らぬ教室の見慣れぬ顔の集団の中に放り込まれても、頭の中を巡るのはどうすればかつてのサイクルを取り戻せるか、というその一点のみで、周囲で気もそぞろな初対面同士が顔を突き合わせているその流れを横目に私は一人で机に頬杖をついている。右手でスマホを触っているふりをして、誰も話しかけてくれるなポーズの完成。
「ねね、どこの中学だった?」
こんな無表情でスマホを触っているやつに声をかける物好きなんていないだろう、と思っていたけれど、前の席から身体ごとこちらに向けて喋りかけてくる子がいた。セミロングの髪をふわふわとカールさせた、男受けしそうな見た目の子だった。
「東中」
「え、やば、あたしの元彼いるよ、東中」
だからなんだ、と思ったけれど、流石に馬鹿正直に口にするわけにはいかず、「そうなんだ」と曖昧に笑って頷いておく。
「セイヤってわかる? サッカー部だったやつ」
「あー、高泉君?」
「そいつ! え、知ってんだ。なんか恥ずいわー」
ヒエラルキーのわりと上位にいた高泉と付き合ってたんだ、と私はちょっとだけ彼女の評価を改める。くだらない評価基準だとは思うけれど、初対面の相手を推し量る上でとりあえずの指標として機能するのもまた事実だった。
「結構モテるでしょ?」
と私は彼女を指さしながら、なんの脈絡もなく言ってみた。白いファンデーションに隠れた頬が、上機嫌に色づくのがわかった。名前知らん子にめっちゃ褒められた、とゲラゲラ笑ってから、彼女は付け足した。
「ありがと! めっちゃいい子! え、てか名前は?」
私は自己紹介をしてから、「そっちの名前は?」と訊ねた。
「あたし、リリイ」
「リリイ?」
「笑うよね、変な名前で。字も地味にムズいのがまた腹立つんよ」
そう言って、彼女は璃李依、と入力したスマホの画面を見せてくれた。
「そんなことない。いい名前だと思う」
「え、ミミって神なの?」
聞き慣れない響きが自分の呼び名だと気づくのに、少し時間がかかってしまう。
「なに、ミミって」
「ミミとリリってさあ、すでにコンビじゃんねあたしら」
「璃李依って全然人の話聞かないね」
ぎゃーディスられたー、と笑う璃李依につられて私も笑ってしまう。そして当然のように連絡先を交換した。この子と仲良くしたいかも、と素直に思えた。
「そういや気づいたんだけどさ、廊下側の一番後ろの席、空いてるくない?」
「そうだね」
そこが空席となっている理由に関してはちゃんと知っていたけれど、一から説明するのは面倒だったので、あえてなにも言わないでおこうと思った。
「もしかしてさ、いきなり不登校かます感じかな?」
「どうだろう」
もしかしてだけどー、と璃李依は私の返事を待たずに歌い出す。このマイペースな感じは、あの空席の主と通ずるものがある。
放課後になると、多くのクラスメートはできたてほやほやの友達との会話に勤しんでいたけれど、私は璃李依に手を振って別れると彼らには目もくれず教室を出て、まっすぐ帰路についた。コンビニに寄ってみかんゼリーを買って、帰宅するなら右に曲がらないといけない交差点をまっすぐ進む。入学祝いに買ってもらったワイヤレスイヤホンから流れるプレイリストを適当に聴き流しながら歩いていると、なんだか不意に高校生になった実感が湧いてくる。
和久井、と書かれた表札の前に立って、インターホンを押す。すると、いきなりすりガラスのはめられた引き戸がガラガラと開いた。
「あらら、みーちゃん、それ高校の制服?」
白髪混じりの短髪を簡素なピンで留めたおばあちゃんは、私の全身を見渡して笑った。
「うん。似合う?」
くるん、とその場で軽やかに一回転して見せると、おばあちゃんは「可愛い可愛い」と手を叩いた。私はなんだか照れくさくなって、スカートの裾なんか触ってしまう。
「早く上がって。あの子も待ってるんだよ」
「はーい」
昔ながらの木造建築二階建ての家の中には、お線香と畳と今日の夕食に出るであろう煮物の匂いが折り重なって漂っていて、和風という概念の標準、みたいな感じがする。
そんな事を考えながら、私は二階へ続く階段を登る。そして一番奥にある部屋のドアを、ノックもせずに開けた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
熱があって学校に行けない。
入学式の日の朝、泣き顔の絵文字付きでそんなメッセージが送られてきた。私は小さく欠伸を漏らしながら、頭の中で放課後の算段を立てる。一つ息を吸って、めんどくさいことになったな、とため息をついてみるも、今日という日をおそらくは全新入生の中で最も心待ちにしていたであろうあの子の間の悪さや不憫さを思うと、薄い微笑が止めようもなく浮かんでしまう。
一方で私は、高校生になるという実感がまるでない。驚くほどない。先月の自分と今月の自分を比較しても、変化なんてなに一つ見受けられないのに、然るべき時が来たからもう中学生じゃなくて高校生ですよ、と強制的に立場を変えられるのは、なんとなく不服だった。小学校から中学校に上がるときって、こんなこと考えてたっけ。
多分、私は中学生の頃の生活リズムがそれなりに好きだったんだろう。身体と意識が、あの日々に馴染みすぎていたのだ。
学校では、人気者の一番の親友というポジションにおさまってそれなりに楽しく、波風立てずにやってきた。すっかり主目的が男漁りとなっていた塾に通っていたときも、講義自体はしっかりと聴いていた。学生の本分は勉強ですよ、と言わんばかりのあの擬態は、論理的に思考するという習慣を身につける良いきっかけになったし、塾で得た知識は勉強を教えてほしがっていたあの子にフィードバックすることで私の中にも定着し、お互いのテスト結果にもちゃんと結びついた。そしてなにより、数えきれないほどのセックスとそれに付随するコミュニケーションをもたらし、表層的な関わりでは決して測れない様々な人間模様を私に教えてくれた。
十三歳から十五歳にかけての三年間、健全な安寧も、不健全な刺激も、弛まぬ努力によって(それは私にとっての努力だったんだ。決して誇張ではなく)過不足なく日常に落とし込めていた。すべてが、理想的なサイクルで回っていたように思う。だから私にとっては、新しい環境に対する期待なんかよりも、それまでのサイクルが失われたことに対する不満やストレスの方がずっと大きかった。
そんなわけで、体育館で校長やら役員やら在校生代表やらの挨拶を聞いていても、見知らぬ教室の見慣れぬ顔の集団の中に放り込まれても、頭の中を巡るのはどうすればかつてのサイクルを取り戻せるか、というその一点のみで、周囲で気もそぞろな初対面同士が顔を突き合わせているその流れを横目に私は一人で机に頬杖をついている。右手でスマホを触っているふりをして、誰も話しかけてくれるなポーズの完成。
「ねね、どこの中学だった?」
こんな無表情でスマホを触っているやつに声をかける物好きなんていないだろう、と思っていたけれど、前の席から身体ごとこちらに向けて喋りかけてくる子がいた。セミロングの髪をふわふわとカールさせた、男受けしそうな見た目の子だった。
「東中」
「え、やば、あたしの元彼いるよ、東中」
だからなんだ、と思ったけれど、流石に馬鹿正直に口にするわけにはいかず、「そうなんだ」と曖昧に笑って頷いておく。
「セイヤってわかる? サッカー部だったやつ」
「あー、高泉君?」
「そいつ! え、知ってんだ。なんか恥ずいわー」
ヒエラルキーのわりと上位にいた高泉と付き合ってたんだ、と私はちょっとだけ彼女の評価を改める。くだらない評価基準だとは思うけれど、初対面の相手を推し量る上でとりあえずの指標として機能するのもまた事実だった。
「結構モテるでしょ?」
と私は彼女を指さしながら、なんの脈絡もなく言ってみた。白いファンデーションに隠れた頬が、上機嫌に色づくのがわかった。名前知らん子にめっちゃ褒められた、とゲラゲラ笑ってから、彼女は付け足した。
「ありがと! めっちゃいい子! え、てか名前は?」
私は自己紹介をしてから、「そっちの名前は?」と訊ねた。
「あたし、リリイ」
「リリイ?」
「笑うよね、変な名前で。字も地味にムズいのがまた腹立つんよ」
そう言って、彼女は璃李依、と入力したスマホの画面を見せてくれた。
「そんなことない。いい名前だと思う」
「え、ミミって神なの?」
聞き慣れない響きが自分の呼び名だと気づくのに、少し時間がかかってしまう。
「なに、ミミって」
「ミミとリリってさあ、すでにコンビじゃんねあたしら」
「璃李依って全然人の話聞かないね」
ぎゃーディスられたー、と笑う璃李依につられて私も笑ってしまう。そして当然のように連絡先を交換した。この子と仲良くしたいかも、と素直に思えた。
「そういや気づいたんだけどさ、廊下側の一番後ろの席、空いてるくない?」
「そうだね」
そこが空席となっている理由に関してはちゃんと知っていたけれど、一から説明するのは面倒だったので、あえてなにも言わないでおこうと思った。
「もしかしてさ、いきなり不登校かます感じかな?」
「どうだろう」
もしかしてだけどー、と璃李依は私の返事を待たずに歌い出す。このマイペースな感じは、あの空席の主と通ずるものがある。
入学式の日の朝、泣き顔の絵文字付きでそんなメッセージが送られてきた。私は小さく欠伸を漏らしながら、頭の中で放課後の算段を立てる。一つ息を吸って、めんどくさいことになったな、とため息をついてみるも、今日という日をおそらくは全新入生の中で最も心待ちにしていたであろうあの子の間の悪さや不憫さを思うと、薄い微笑が止めようもなく浮かんでしまう。
一方で私は、高校生になるという実感がまるでない。驚くほどない。先月の自分と今月の自分を比較しても、変化なんてなに一つ見受けられないのに、然るべき時が来たからもう中学生じゃなくて高校生ですよ、と強制的に立場を変えられるのは、なんとなく不服だった。小学校から中学校に上がるときって、こんなこと考えてたっけ。
多分、私は中学生の頃の生活リズムがそれなりに好きだったんだろう。身体と意識が、あの日々に馴染みすぎていたのだ。
学校では、人気者の一番の親友というポジションにおさまってそれなりに楽しく、波風立てずにやってきた。すっかり主目的が男漁りとなっていた塾に通っていたときも、講義自体はしっかりと聴いていた。学生の本分は勉強ですよ、と言わんばかりのあの擬態は、論理的に思考するという習慣を身につける良いきっかけになったし、塾で得た知識は勉強を教えてほしがっていたあの子にフィードバックすることで私の中にも定着し、お互いのテスト結果にもちゃんと結びついた。そしてなにより、数えきれないほどのセックスとそれに付随するコミュニケーションをもたらし、表層的な関わりでは決して測れない様々な人間模様を私に教えてくれた。
十三歳から十五歳にかけての三年間、健全な安寧も、不健全な刺激も、弛まぬ努力によって(それは私にとっての努力だったんだ。決して誇張ではなく)過不足なく日常に落とし込めていた。すべてが、理想的なサイクルで回っていたように思う。だから私にとっては、新しい環境に対する期待なんかよりも、それまでのサイクルが失われたことに対する不満やストレスの方がずっと大きかった。
そんなわけで、体育館で校長やら役員やら在校生代表やらの挨拶を聞いていても、見知らぬ教室の見慣れぬ顔の集団の中に放り込まれても、頭の中を巡るのはどうすればかつてのサイクルを取り戻せるか、というその一点のみで、周囲で気もそぞろな初対面同士が顔を突き合わせているその流れを横目に私は一人で机に頬杖をついている。右手でスマホを触っているふりをして、誰も話しかけてくれるなポーズの完成。
「ねね、どこの中学だった?」
こんな無表情でスマホを触っているやつに声をかける物好きなんていないだろう、と思っていたけれど、前の席から身体ごとこちらに向けて喋りかけてくる子がいた。セミロングの髪をふわふわとカールさせた、男受けしそうな見た目の子だった。
「東中」
「え、やば、あたしの元彼いるよ、東中」
だからなんだ、と思ったけれど、流石に馬鹿正直に口にするわけにはいかず、「そうなんだ」と曖昧に笑って頷いておく。
「セイヤってわかる? サッカー部だったやつ」
「あー、高泉君?」
「そいつ! え、知ってんだ。なんか恥ずいわー」
ヒエラルキーのわりと上位にいた高泉と付き合ってたんだ、と私はちょっとだけ彼女の評価を改める。くだらない評価基準だとは思うけれど、初対面の相手を推し量る上でとりあえずの指標として機能するのもまた事実だった。
「結構モテるでしょ?」
と私は彼女を指さしながら、なんの脈絡もなく言ってみた。白いファンデーションに隠れた頬が、上機嫌に色づくのがわかった。名前知らん子にめっちゃ褒められた、とゲラゲラ笑ってから、彼女は付け足した。
「ありがと! めっちゃいい子! え、てか名前は?」
私は自己紹介をしてから、「そっちの名前は?」と訊ねた。
「あたし、リリイ」
「リリイ?」
「笑うよね、変な名前で。字も地味にムズいのがまた腹立つんよ」
そう言って、彼女は璃李依、と入力したスマホの画面を見せてくれた。
「そんなことない。いい名前だと思う」
「え、ミミって神なの?」
聞き慣れない響きが自分の呼び名だと気づくのに、少し時間がかかってしまう。
「なに、ミミって」
「ミミとリリってさあ、すでにコンビじゃんねあたしら」
「璃李依って全然人の話聞かないね」
ぎゃーディスられたー、と笑う璃李依につられて私も笑ってしまう。そして当然のように連絡先を交換した。この子と仲良くしたいかも、と素直に思えた。
「そういや気づいたんだけどさ、廊下側の一番後ろの席、空いてるくない?」
「そうだね」
そこが空席となっている理由に関してはちゃんと知っていたけれど、一から説明するのは面倒だったので、あえてなにも言わないでおこうと思った。
「もしかしてさ、いきなり不登校かます感じかな?」
「どうだろう」
もしかしてだけどー、と璃李依は私の返事を待たずに歌い出す。このマイペースな感じは、あの空席の主と通ずるものがある。
放課後になると、多くのクラスメートはできたてほやほやの友達との会話に勤しんでいたけれど、私は璃李依に手を振って別れると彼らには目もくれず教室を出て、まっすぐ帰路についた。コンビニに寄ってみかんゼリーを買って、帰宅するなら右に曲がらないといけない交差点をまっすぐ進む。入学祝いに買ってもらったワイヤレスイヤホンから流れるプレイリストを適当に聴き流しながら歩いていると、なんだか不意に高校生になった実感が湧いてくる。
和久井、と書かれた表札の前に立って、インターホンを押す。すると、いきなりすりガラスのはめられた引き戸がガラガラと開いた。
「あらら、みーちゃん、それ高校の制服?」
白髪混じりの短髪を簡素なピンで留めたおばあちゃんは、私の全身を見渡して笑った。
「うん。似合う?」
くるん、とその場で軽やかに一回転して見せると、おばあちゃんは「可愛い可愛い」と手を叩いた。私はなんだか照れくさくなって、スカートの裾なんか触ってしまう。
「早く上がって。あの子も待ってるんだよ」
「はーい」
昔ながらの木造建築二階建ての家の中には、お線香と畳と今日の夕食に出るであろう煮物の匂いが折り重なって漂っていて、和風という概念の標準、みたいな感じがする。
そんな事を考えながら、私は二階へ続く階段を登る。そして一番奥にある部屋のドアを、ノックもせずに開けた。
和久井、と書かれた表札の前に立って、インターホンを押す。すると、いきなりすりガラスのはめられた引き戸がガラガラと開いた。
「あらら、みーちゃん、それ高校の制服?」
白髪混じりの短髪を簡素なピンで留めたおばあちゃんは、私の全身を見渡して笑った。
「うん。似合う?」
くるん、とその場で軽やかに一回転して見せると、おばあちゃんは「可愛い可愛い」と手を叩いた。私はなんだか照れくさくなって、スカートの裾なんか触ってしまう。
「早く上がって。あの子も待ってるんだよ」
「はーい」
昔ながらの木造建築二階建ての家の中には、お線香と畳と今日の夕食に出るであろう煮物の匂いが折り重なって漂っていて、和風という概念の標準、みたいな感じがする。
そんな事を考えながら、私は二階へ続く階段を登る。そして一番奥にある部屋のドアを、ノックもせずに開けた。