『アメイジング・グレイス』――今、僕の目の前で優雅にトランペットを吹く男が演奏している曲。作曲者は不明だが、イギリスの牧師が讃美歌として作詞したことで、世界中に愛されている名曲である。
一見して僕らよりも歳上に見える彼は、大人の色気を纏った男前で、アッシュグレー色のウェーブしたミディアムヘアがよく似合っている。ただ、なんとなく眼鏡に白衣といったキザな格好が鼻についた。
「あの、貴方は……」
僕たちに気づいていない、わけじゃないよな? でも話しかけられても、彼は演奏をやめる様子がない。
「おい、何とか言ったらどうなんだ」
「待て近江。和泉の例があるんだ、必ずしも僕らのことが分かるとは限らないさ」
後から追いかけてきた近江が、痺れを切らして再度呼びかけた。だが僕はそれを一旦制する。僕らの声を聞いても無反応ということは、和泉のように記憶がない可能性は十分あるのだ。
とはいえ、このタイミングでの遭遇は、狙いどおりライブ会場に居合わせて合流しにきたと思うのが自然だ。それに和泉が彼の音に不快を感じなかったことが、彼がブリッランテの一員であると証明している。
――トランペットを担当楽器とする、副長・武蔵国首領の武蔵。
和泉の次に統率権を持つ彼が、ついに現れた。
アメイジング・グレイスをワンフレーズ吹き終えた武蔵は、ゆっくり目を開いて漆黒の瞳を僕らに向けた。無の表情からは何の意図も読み取れないが、再会を喜んでいる感じではない。
そのまま身体ごと僕らの方に向き直し、唐突に彼は持っていたトランペットを前に突き出した。僕たちがこの動作をするのは、あの時しかない。
「
変化」
「!?」
予測を裏切ることなく武蔵は淡々と呪文を発言し、楽器を彼の武器・両刃斧に変化させた。近江と困惑した表情で顔を見合わせるが、とりあえず記憶がない線は消えたわけだ。
でも彼は一体、何を考えているんだ。
これじゃ、まるで。
反射的に腰を落として身構える。心の底から胸騒ぎがした。
そして奇しくもその予感は的中。あろうことか武蔵は仲間である僕らに向かって、その斧を振りかざし突進してきたのだ。
「っ……チッ!
変化!」
真っ先に近江が反応してサーベルを出現させると、勢いよく振り下ろされた武蔵の斧を受け止めた。金属のぶつかり合う鈍い音が響き渡り、衝撃で生まれた風圧に目が眩む。二人とも、なんてパワーだ。
しかし後ろから和泉の悲鳴が聞こえて、慌てて僕も楽器を掲げた。変化したレイピアをキャッチし、彼女を振り返る。
「大丈夫か、和泉! 日向、君は近江に加勢してくれ! 僕は彼女を――」
当たり前に近くにいるだろうと呼びかけたところで、何故かその人物の姿がないことに僕はようやく気がついた。不思議に思い和泉を見つめるが、彼女も「知らない」と言わんばかりに首を横に振る。
馬鹿な、さっきまで一緒にいたのに!
「くそっ、なんでだよ!?」
さっきから頭が混乱することばかりだ。とにかく和泉を守るために僕は彼女の方向に駆けようとしたが、それより早く「安芸!」と注意を促す近江の叫び声が飛んできた。見ると近江との交戦を振り切って、武蔵も和泉の方に向かってきていたのだ。
そうはさせまいとレイピアを構えると、武蔵は唸り声を上げて斧を振りかざした。五音衆・羽のハンマーほどではないだろうが、あれだって相当の重量はあるはずだ。しかも羽より明らかな細身で、一体どこからそのパワーを捻り出してくるのか。加えてスピードも申し分ない。
僕のレイピアでは、防ぎきれないかもしれない。
多少の負傷を覚悟して歯を食いしばった。
だがその前に全力で追いかけてきた近江が滑り込み、サーベルで応戦。武蔵はよろけるも華麗にステップを踏み彼の攻撃を避け、再度斧を上げて力一杯振り下ろした。
そこで近江がそのまま地面を転がって回避し、武蔵の背後に隙が生じる。僕はそれを見逃さず一気に刺突を加えたが、彼は楽しそうに笑みを浮かべながら軽やかに飛び退いた。
僕と近江は横並びになって和泉の前を立ち塞ぎ、武蔵に面と向き合った。
すると彼はようやく「ふむ」と声を発したのだ。
「動きは悪くないですねぇ……けど、君たちの実力はそんなものですか? 近江君、それに安芸君」
「やっと口を聞いたかと思えば、言ってくれるじゃんか。お前こそどうゆうつもりだ、メストに寝返ったとか言うんじゃないだろうな」
近江が啖呵を切ると、武蔵は斧を担ぎ上げてクスクスと笑い声を上げた。しかし彼が長い前髪を掻き上げた直後、表情が一転して氷のように冷めた。
「誰にモノを言っているのです? 僕は副長ですよ、言葉を慎みなさい」
ものすごいプレッシャーだ。僕と近江はその瞬間、息もできないくらい身動きが取れなかった。
記憶の中の武蔵も、仲間にはもちろん自分にも厳しい人だった。正義感が強く、和泉と共に率先してメストの殲滅に命を掛けていたのだ。だが決して冷酷な人ではなかった。
「武蔵さん、やめましょう! 僕たちは仲間でしょう!?」
「あんな目してる奴に何言っても無駄だ、安芸。……来るぞ!」
近江の言うとおり、僕の問いかけも虚しく次のラウンドが始まった。
躊躇なく猛進する武蔵の斧を、近江が受け止めて跳ね返す。
間髪入れずにサーベルが切りかかり斧の柄に防御されるも、近江は冷静に2打目の斬撃を加えた。しかし武蔵は斧の分厚い側面で阻止。
近江が小さく舌打ちして一歩引いた。そこへ武蔵は右後方へ大きく振りかぶる。
まだ体勢が立て直せていない近江に、彼は容赦ない一振りを浴びせた……が、その刹那に近江は上体を大きく後方へ仰け反らせた。
瞬間。
「はぁあッ!」
「――――ッ!」
近江の背後から刺突で現れた僕の姿に、武蔵は驚いて思わず後ろへアクロバティックに飛び退いた。大技の後でレイピアの素早さには、引くことしか対応できまい。更に近江が休む暇も与えず武蔵を追い込む。
我ながら見事な連携だろう。まずは和泉から少しでも彼を遠ざけるのが、僕らには最優先事項だ。
「和泉! 今のうちにどこかに」
背後にいた和泉へ呼びかけると、彼女は大きく頷いた。
だが結局、和泉はそこから動くことはなかった。
近江の悲痛な雄叫びが、昼下がりの空に響き渡ったのだから。