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マーブル模様の空

ー/ー



ファルケンブルク本邸にたどり着いたのは、もう空も茜色に変わり始めた夕刻でした。

報告のために書斎に伺うと、エトガルは執務机の奥で泣きはらしたような赤い目をしていて、マティアスは穏やかな笑顔を浮かべていましたが、その柔和な顔はたった半日のうちに心労でやつれたようでした。

「――全て、知ってしまったのか」

言うなり、エトガルの青い瞳から涙が一粒こぼれ落ちました。――それは痛恨の涙でした。

「リリ。――きみとグンヴァルトソン准将に渡したいものがある」

マティアスが静かに言って、淡い菫色の表紙の、まだ新しい(…――アルバム?)を、差し出しました。
受け取って、そっと表紙を捲ると――…

「……これは、私ですか?」

2歳くらいの女の子が、雪に中に佇み、不思議そうに降ってくる雪片に手を伸ばしている写真。
暖かそうな、白いファーの耳当てに、可愛らしい桃色のコート、小さな赤いブーツ――…

「そうだ」

次ページには、3歳くらいの、淡い水色の毛布にくるまれてすやすやと眠っている女の子の姿。
肩までしっかりと掛けられた毛布には毛玉一つなく、傍には美しい装丁の絵本が積み上げられていました。

その隣のページには、4歳ほどの女の子が、木からリンゴをもいでいる写真。
フードの付いたふわふわの白いケープをすっぽり被せられて、その下からは淡い薔薇色のワンピースが覗いていました。
複雑に編み込まれた髪の毛、懸命に背伸びする小さな足元は綺麗な靴に包まれて――…

どの写真も、どの写真も――…大切に養育されていたことが伝わる、しかし、どこか違和感のある写真でした。

(そういえば、私、リンデンベルク屋敷で写真を撮られた記憶がない――…)

視線がカメラを向いた写真は一枚もなく、全てがいわゆる隠し撮りでした。

「――この写真、キャンバーランド伯爵夫人から?」
「そうだ」

もう私には、本当に何が真実かわからなくなってしまいました。
キャンバーランド伯爵夫人は一度たりとも私に微笑みかけなかった。
それなのに、どうして、写真の中の女の子は、健やかに守り育てられているように見えるのでしょう。

(愛情が――あったのかしら)

キャンバーランド伯爵夫人の、感情の欠落したような凍り付いた無表情を思い起こします。
それは、長年自分を欺き続けてきた人間に特有のものであるように思われたのです。
淡い期待の込められた思いつきに縋りそうになって、私は首を振り、強いてその考えを追い払いました。

――私はもう、真意について考えることをやめたのです。

「ありがとうございます、エトガル。マティアス」

アルバムを閉じ、私は微笑んで礼を言いました。

「…こんな小さな頃に助けてやれなかったこと、本当に、申し訳ない」

もはや涙が止まらない様子のエトガルの隣で、

「きみは、初めて会ったとき笑い方も分からないようだった。でも私たちは――リリ。きみが可哀想だから、可愛がったわけではないよ。ただひたすらに、可愛かった。きみという存在が愛おしかったんだ」

マティアスも目を赤くして、堪えきれぬといったように私の頭をそっと撫でました。

「はい――エトガル。マティアス。あなた方は、私を心から慈しんで育ててくださいました。
 スサンヌ姉上やアリーセ姉上、バーバラ姉上も可愛がってくださった。
 フォルカー兄上に、ラグナル――…グウィネヴィア叔母様に、ライノールトにオーウィン。シュテファンやエイリークもいます。
 だから、もういいのです」

それに――と、私は微笑み、視線をグンヴァルトソン准将に向けました。グンヴァルトソン准将の青緑色の双眸が優しく微笑み返します。

「そうだった。――式まであとわずかだったね」
「幸せになるんだぞ。リリ、私たちの可愛い妹――」

泣き笑いといった顔のエトガルとマティアスの背後の大窓の外では、茜色だった空に紫の夕闇が混じり始めていました。

――人は、空を見上げているときは、不幸になれない。

挙式の日に見上げるイザールの空は、どんな色をしているのでしょう――…

漠然とそんなことを考えつつ、私は、ぐちゃぐちゃにもつれたまま、もう解ける当てがなさそうな我が心を、そのままそっとマーブル模様を描く空に解き放ったのでした――…。


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ファルケンブルク本邸にたどり着いたのは、もう空も茜色に変わり始めた夕刻でした。
報告のために書斎に伺うと、エトガルは執務机の奥で泣きはらしたような赤い目をしていて、マティアスは穏やかな笑顔を浮かべていましたが、その柔和な顔はたった半日のうちに心労でやつれたようでした。
「――全て、知ってしまったのか」
言うなり、エトガルの青い瞳から涙が一粒こぼれ落ちました。――それは痛恨の涙でした。
「リリ。――きみとグンヴァルトソン准将に渡したいものがある」
マティアスが静かに言って、淡い菫色の表紙の、まだ新しい(…――アルバム?)を、差し出しました。
受け取って、そっと表紙を捲ると――…
「……これは、私ですか?」
2歳くらいの女の子が、雪に中に佇み、不思議そうに降ってくる雪片に手を伸ばしている写真。
暖かそうな、白いファーの耳当てに、可愛らしい桃色のコート、小さな赤いブーツ――…
「そうだ」
次ページには、3歳くらいの、淡い水色の毛布にくるまれてすやすやと眠っている女の子の姿。
肩までしっかりと掛けられた毛布には毛玉一つなく、傍には美しい装丁の絵本が積み上げられていました。
その隣のページには、4歳ほどの女の子が、木からリンゴをもいでいる写真。
フードの付いたふわふわの白いケープをすっぽり被せられて、その下からは淡い薔薇色のワンピースが覗いていました。
複雑に編み込まれた髪の毛、懸命に背伸びする小さな足元は綺麗な靴に包まれて――…
どの写真も、どの写真も――…大切に養育されていたことが伝わる、しかし、どこか違和感のある写真でした。
(そういえば、私、リンデンベルク屋敷で写真を撮られた記憶がない――…)
視線がカメラを向いた写真は一枚もなく、全てがいわゆる隠し撮りでした。
「――この写真、キャンバーランド伯爵夫人から?」
「そうだ」
もう私には、本当に何が真実かわからなくなってしまいました。
キャンバーランド伯爵夫人は一度たりとも私に微笑みかけなかった。
それなのに、どうして、写真の中の女の子は、健やかに守り育てられているように見えるのでしょう。
(愛情が――あったのかしら)
キャンバーランド伯爵夫人の、感情の欠落したような凍り付いた無表情を思い起こします。
それは、長年自分を欺き続けてきた人間に特有のものであるように思われたのです。
淡い期待の込められた思いつきに縋りそうになって、私は首を振り、強いてその考えを追い払いました。
――私はもう、真意について考えることをやめたのです。
「ありがとうございます、エトガル。マティアス」
アルバムを閉じ、私は微笑んで礼を言いました。
「…こんな小さな頃に助けてやれなかったこと、本当に、申し訳ない」
もはや涙が止まらない様子のエトガルの隣で、
「きみは、初めて会ったとき笑い方も分からないようだった。でも私たちは――リリ。きみが可哀想だから、可愛がったわけではないよ。ただひたすらに、可愛かった。きみという存在が愛おしかったんだ」
マティアスも目を赤くして、堪えきれぬといったように私の頭をそっと撫でました。
「はい――エトガル。マティアス。あなた方は、私を心から慈しんで育ててくださいました。
 スサンヌ姉上やアリーセ姉上、バーバラ姉上も可愛がってくださった。
 フォルカー兄上に、ラグナル――…グウィネヴィア叔母様に、ライノールトにオーウィン。シュテファンやエイリークもいます。
 だから、もういいのです」
それに――と、私は微笑み、視線をグンヴァルトソン准将に向けました。グンヴァルトソン准将の青緑色の双眸が優しく微笑み返します。
「そうだった。――式まであとわずかだったね」
「幸せになるんだぞ。リリ、私たちの可愛い妹――」
泣き笑いといった顔のエトガルとマティアスの背後の大窓の外では、茜色だった空に紫の夕闇が混じり始めていました。
――人は、空を見上げているときは、不幸になれない。
挙式の日に見上げるイザールの空は、どんな色をしているのでしょう――…
漠然とそんなことを考えつつ、私は、ぐちゃぐちゃにもつれたまま、もう解ける当てがなさそうな我が心を、そのままそっとマーブル模様を描く空に解き放ったのでした――…。