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【2】

ー/ー



「私、離婚してこの家から出て行くの」
 アルバイトから帰宅して、リビングルームで母と顔を合わせる。
 ごく普通に「ただいま」と告げようとした葉月に、何の前触れもなく唐突にぶつけられた言葉。

「ずっと『母親』って役をやってたの。もうあなたも母親が必要な歳じゃないし、そろそろ解放してくれてもいいんじゃない?」
 薄っすらと笑みを浮かべて、冷ややかに言い放つ母。

「ああ、あの人とはもう話もついてるから。明日、届を出しに行くわ。一応報告してからと思ってね」
 届……。
 離婚届のことだ。嬉しそうに娘の前で口にすることだろうか。
 確かにそう感じつつも、葉月は心のどこかで納得していた。
 母が子どもが好きではないのも、夫である父を嫌っているのも知っていたからだ。
 だから母の台詞そのものに疑問はなかった。
 むしろよく今まで言い出さなかったものだ、と考えてしまうほど。

 真顔ならまた違ったかもしれない。
 しかしこの表情で伝わってしまった。あるいは伝えたかったための故意なのか。
 母は本当に、心の底から家族が憎くて邪魔だったのだ、と。
 父だけではなく葉月も、母の愛の対象ではなかった。

「なんで黙ってるの? 私は自己主張なんてしないと思ってた? そういうところも父親に似たのね」
 少しも自分に似ていない娘を、母が疎ましく感じていたのも薄々は察していた。
 己と共通した部分が多いのも理解した上で、嘘でも好きとは言えない父。
 葉月自身さえも、『父親だから』渋々相手をしてやっているだけの男によく似た娘を。
 親、つまり葉月の祖父母を安心させるための結婚だったという。
 母にとっては妥協の産物でしかなかったのだろう。『娘』としての役割を果たすために。
 そして母が義理立てしたかった彼らは、もうこの世にはいない。

「どっちにしても、もうあなたやあの人と一緒に暮らすつもりなんかないから。同じ家にいるのもうんざりなの。──気分が悪い」
 相変わらず笑みを絶やさない母。
 きっと母は、この日を待ち望んでいた。父と葉月を捨てると宣言する、この瞬間を。
 葉月には、抑えきれない、あるいは抑える意志などない内心の高揚が伝わる。楽しくて堪らないのが全身から滲み出ている目の前の母の。

 ──そのために耐えて来たの? 私たちをどうやって傷つけようか、それだけ楽しみにして『母親』の演技を続けたの?

 もっと早く教えて欲しかった。
 愛も情もないのに厭々共に過ごしてもらうより、母自身の幸せを大切にして欲しかった。
 それさえも、もしかしたら「お前が言うな」なのだろうか。
 葉月は母が好きだった。大切で愛していた。
 見て見ぬ振りをしたかっただけで、愛されてなどいないと心の奥底ではわかっていても。

 ──我慢しなきゃ一緒にいられない、最後にどうしても吐き出さずにはいられないくらい、私はママにとって不愉快な存在だった?

「何よ、その顔。大学卒業するまでは育てるのがだから仕方ないでしょう。でも、もうおしまい。やっとね」
 葉月が生まれていなければ、おそらく母はとうの昔に父とは別れていた。
 遅くとも、結婚から三年後だという祖母の告別式のすぐ後には。当時一歳だった葉月には、その記憶は無論ない。
 祖父は孫が生まれる前、両親の結婚式の半年後には亡くなっている。だから急いだのだと察せられた。
 何事にも完璧を求める人だから、『母親』としての役割を果たすために止むを得ず今まで待ったのか。

 この人は二十年以上も、妻と母を演じて来た。
 ただの役割演技(ロールプレイング)。機械のプログラムと同じく。
 他人に見せつけるためでも家族に愛されるためでもないから、葉月に本音を見透かされていたと知っても動じはしないだろう。
 それどころか、母は葉月が「演技」を見抜いていることなど確実にわかっていた筈だ。それでも、表面上は何ら変わりはなかった。
 娘の反応や気持ちなど、きっとどうでもよかったから。

「来週までの我慢ね。それまでは、もう私はいないものだと思って。もちろんあなた達の世話なんて一切しないから、全部自分で勝手にやって頂戴」
 声だけは柔らかなまま宣言し、母は最後に満面の笑みを向けて来た。
 娘の返事など待つ気もない風にくるりと踵を返した母の背中を、葉月は呆然と見送る。
 彼女は『妻』『母』という役で立っていた舞台を降りた。母自身が発した通り、待ち望んだ日が来てようやく。

 そして一人残された空間で葉月は思い当たる。
 母は今の話の中で、葉月のことも父のことも一度も名前では呼ばなかった。「あなた」と「あの人」という代名詞に置き換えられた二人。
 そして一人称もすべて「私」。普段は葉月に向けて使う「ママ」ではなく。

 ──ああ、そうか。もうママの中に私たちはいないんだ。としては。

 だからもう、『役名』は必要なくなった。

  ~END~



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「私、離婚してこの家から出て行くの」
 アルバイトから帰宅して、リビングルームで母と顔を合わせる。
 ごく普通に「ただいま」と告げようとした葉月に、何の前触れもなく唐突にぶつけられた言葉。
「ずっと『母親』って役をやってたの。もうあなたも母親が必要な歳じゃないし、そろそろ解放してくれてもいいんじゃない?」
 薄っすらと笑みを浮かべて、冷ややかに言い放つ母。
「ああ、あの人とはもう話もついてるから。明日、届を出しに行くわ。一応報告してからと思ってね」
 届……。
 離婚届のことだ。嬉しそうに娘の前で口にすることだろうか。
 確かにそう感じつつも、葉月は心のどこかで納得していた。
 母が子どもが好きではないのも、夫である父を嫌っているのも知っていたからだ。
 だから母の台詞そのものに疑問はなかった。
 むしろよく今まで言い出さなかったものだ、と考えてしまうほど。
 真顔ならまた違ったかもしれない。
 しかしこの表情で伝わってしまった。あるいは伝えたかったための故意なのか。
 母は本当に、心の底から家族が憎くて邪魔だったのだ、と。
 父だけではなく葉月も、母の愛の対象ではなかった。
「なんで黙ってるの? 私は自己主張なんてしないと思ってた? そういうところも父親に似たのね」
 少しも自分に似ていない娘を、母が疎ましく感じていたのも薄々は察していた。
 己と共通した部分が多いのも理解した上で、嘘でも好きとは言えない父。
 葉月自身さえも、『父親だから』渋々相手をしてやっているだけの男によく似た娘を。
 親、つまり葉月の祖父母を安心させるための結婚だったという。
 母にとっては妥協の産物でしかなかったのだろう。『娘』としての役割を果たすために。
 そして母が義理立てしたかった彼らは、もうこの世にはいない。
「どっちにしても、もうあなたやあの人と一緒に暮らすつもりなんかないから。同じ家にいるのもうんざりなの。──気分が悪い」
 相変わらず笑みを絶やさない母。
 きっと母は、この日を待ち望んでいた。父と葉月を捨てると宣言する、この瞬間を。
 葉月には、抑えきれない、あるいは抑える意志などない内心の高揚が伝わる。楽しくて堪らないのが全身から滲み出ている目の前の母の。
 ──そのために耐えて来たの? 私たちをどうやって傷つけようか、それだけ楽しみにして『母親』の演技を続けたの?
 もっと早く教えて欲しかった。
 愛も情もないのに厭々共に過ごしてもらうより、母自身の幸せを大切にして欲しかった。
 それさえも、もしかしたら「お前が言うな」なのだろうか。
 葉月は母が好きだった。大切で愛していた。
 見て見ぬ振りをしたかっただけで、愛されてなどいないと心の奥底ではわかっていても。
 ──我慢しなきゃ一緒にいられない、最後にどうしても吐き出さずにはいられないくらい、私はママにとって不愉快な存在だった?
「何よ、その顔。大学卒業するまでは育てるのが《《義務》》だから仕方ないでしょう。でも、もうおしまい。やっとね」
 葉月が生まれていなければ、おそらく母はとうの昔に父とは別れていた。
 遅くとも、結婚から三年後だという祖母の告別式のすぐ後には。当時一歳だった葉月には、その記憶は無論ない。
 祖父は孫が生まれる前、両親の結婚式の半年後には亡くなっている。だから急いだのだと察せられた。
 何事にも完璧を求める人だから、『母親』としての役割を果たすために止むを得ず今まで待ったのか。
 この人は二十年以上も、妻と母を演じて来た。
 ただの|役割演技《ロールプレイング》。機械のプログラムと同じく。
 他人に見せつけるためでも家族に愛されるためでもないから、葉月に本音を見透かされていたと知っても動じはしないだろう。
 それどころか、母は葉月が「演技」を見抜いていることなど確実にわかっていた筈だ。それでも、表面上は何ら変わりはなかった。
 娘の反応や気持ちなど、きっとどうでもよかったから。
「来週までの我慢ね。それまでは、もう私はいないものだと思って。もちろんあなた達の世話なんて一切しないから、全部自分で勝手にやって頂戴」
 声だけは柔らかなまま宣言し、母は最後に満面の笑みを向けて来た。
 娘の返事など待つ気もない風にくるりと踵を返した母の背中を、葉月は呆然と見送る。
 彼女は『妻』『母』という役で立っていた舞台を降りた。母自身が発した通り、待ち望んだ日が来てようやく。
 そして一人残された空間で葉月は思い当たる。
 母は今の話の中で、葉月のことも父のことも一度も名前では呼ばなかった。「あなた」と「あの人」という代名詞に置き換えられた二人。
 そして一人称もすべて「私」。普段は葉月に向けて使う「ママ」ではなく。
 ──ああ、そうか。もうママの中に私たちはいないんだ。《《家族》》としては。
 だからもう、『役名』は必要なくなった。
  ~END~