病室の引き戸がノックされる。
「はい、何か?」
答えながらドアに向かった母が開けた向こうに看護師が立っていた。
「真佐子さんの同級生だと仰る女の子が二人、お見舞いにいらしてます。『タカハシ スミレ』さんと『テラオカ ハルナ』さん。どうします?」
「私のお友達です! 来てもらってください!」
メモを見ながら読み上げられる名に咄嗟に反応した真佐子の言葉に、看護師は母に「通して構いませんか?」と再度許可を取る。
「ええ、お願いします」
頷いて去った看護師が、しばらくして二人の級友を伴って戻って来た。
「お見舞いですけど。お腹の怪我だし、もし食べられないものとかあったら困るんでお花にしたんです。『お見舞い用だから』ってあんまり香りが強くなくて花粉が落ちないのを選んでもらいました」
「これ、クラスのみんなからね。他の子も来たがってたけど、大勢で押しかけたら迷惑だからって|島口《しまぐち》先生に止められたのよ」
澄麗と春菜が花束を母に差し出しながら説明する。
担任の島口 |章《あきら》は、あの日はかなり早い時間だったこともありまだ出勤していなかった。
受け持ちのクラスで「事件」が起きたのに、何も気づかず当日も役に立てなかった、とかなり気に病んでいるらしい。
「まあ、そこまで気を遣ってもらって。傷は本当に内臓にも影響なくて、食事制限も大したことはないんだけどありがたいわ。お花、生けてくるわね」
「おばさま、あたしが!」
慌てたように澄麗が口を開くのに、母が笑顔で答える。
「実はついでにお手洗いに行きたいのよ。申し訳ないけどその間、真佐子の相手をしてもらえるかしら」
「あ、そうなんですね。わかりました」
母が花瓶と花束を持ち病室を出ていくのを見送って、友人二人が真佐子のベッド脇にやって来た。
「真佐子、怪我して入院してるのに『良かった』って言ったら失礼かもしんないけど、でも無事で良かった」
「ありがとう、澄麗ちゃん、春菜ちゃん。もう痛みもあんまりないし、|主治医《先生》も『奇跡的なくらい、ギリギリ危ない部分を避けてますよ』って。もう少しズレたら大変だったみたい」
「そんな他人事みたいに……!」
怒り半分の声を上げた澄麗が、突然なにかに気づいたように口を噤んだ。
「あ、あたしつい真佐子って。ごめん、嫌だったんだよね。他の呼び方でなんかない? あだ名っていうかあ」
「それは違うの! 私、名前で呼ばれたくないなんて言ってない!」
「……え? でも」
これだけは伝えなければ、と詳しい状況を友人に話すことにする。
あの朝、家が遠いため電車の連絡の関係でいつも通りクラスで一番早く登校した真佐子は、教室に向かう途中でたまたま顔を合わせた間中に声を掛けて捕まえた。
「先生。私、『真佐子』って呼ばれるのが嫌なんて言ってませんし、間中先生に相談もしてないです。ただ先生に話し掛けられたから『今まで名前で呼ばれることなんてなかったし、戸惑うけど嬉しいです』ってだけです」
決死の覚悟で絞り出した真佐子の台詞に、間中は顔色を変えた。
「戸惑った、って嫌ってことだろう!? 静宮は確かに僕に『名前で呼ばれるのは困る』って言ったじゃないか!」
勝手に自分の思い通りに事実を歪めているかのような間中に、まるで別世界の人間のような気味悪さに襲われる。
「いえ、だから私は困るなんて言ってませ──」
一瞬、何が起こったかわからなかった。
気がつくと、真佐子は腹を押さえて蹲っていた。
刺されたのだ、と気づいたのはいつだったのか。痛みに支配されて呼吸さえ止まるような異様な感覚。身体から力が抜けて行くように、真佐子は結果的には教室の床に横になっていた。
次の記憶は春菜の声だった気がする。
救急隊員が到着する前に、いろいろな音、……校長や他の教諭たちが駆け付けて話していたのを耳が拾ったのも、随分あとになって蘇ってきたのだ。
「根来先生に|真佐子のクラス《一年三組》のことは聞いてましたけど、間中先生って職員室でもコミュニケーション取れないし。そのくせ『先生ごっこ』はしたがるんですよね。多分静宮さんもそれで……。今の若い先生って本当に、その、昔なら絶対試験に受からなかった、講師にさえ採用されなかったような人が多くてうんざりする、って話してたんです。でもまさかここまで──」
「奥野先生。それは今ここではちょっとお控えください」
校長らしき年配の声に諌められていたのは国語の|奥野《おくの》教諭か。三十代半ばだろう、中堅の女性だ。根来教諭とは一回りほど違うのではないか。
「何!? そんなの、真佐子どっこも悪くないじゃん! 間中の思い込みで、さ、刺されて死ぬとこだったんだよ!」
真相を聞かされた澄麗の声が震えている。
「真佐子、他の子のことはあたし何も言えない。でも澄麗は本当に真佐子のこと好きで心配してた。あの日ももう泣いてたよ。澄麗はそういう子なの。それだけ忘れないでね」
「ちょっと春菜、やめてよ!」
「やめない。澄麗が誤解されんのあたしが嫌だから」
こういうのを「親友同士」というのだろうか。
「それはわかってる。あの日ね、私全部聞こえてたの。身体は動かせなかったけど、目も見えてた。だからちゃんと理解できてる、と思うわ」
少し羨ましく感じつつも、真佐子は二人に返す。
「じゃあ、これからは『真佐子』って呼んでもいい?」
「もちろん。というかすごく嬉しい。私、友達いなかったから、親以外に名前で呼ばれたことないかも」
そこへ母が、花を生けた花瓶を抱えて戻って来た。
「高橋さんと寺岡さん、よね? よかったらお菓子食べていかない? いただきものがあるんだけど、まだ真佐子は食べられないしおばさん一人じゃ片付かなくて。|生物《なまもの》だから期限も短いのよ」
母が冷蔵庫を指しながら尋ねるのに、二人の友人は顔を見合わせ笑顔で答えた。
「え、いいんですか? いただきます!」
「あたしも〜。なんかラッキーですぅ」
本当に困っているのを瞬時に察して、故意に「厚かましい子」を演じるかのような彼女たち。
実際に真佐子の状態を考えない見舞客からの生菓子で、小さな冷蔵庫は埋まっている。
「プリンとケーキなの。両方でも大丈夫?」
「はい、甘いものならいくらでも入りますから!」
「期限切れそうなの全部いただきますよ〜」
母が渡した皿を礼を述べて受け取った澄麗と春菜は、真佐子に話し掛けるのはやめずに菓子を片付けてくれた。
「あ、やだ! さっと帰ろうと思ってたのにすみません。──真佐子、もし疲れちゃわなかったらまた来てもいい?」
「うん。一人部屋だし暇で仕方ないの。来てくれたら嬉しい」
母に謝った澄麗が尋ねるのに、真佐子は勢いよく返す。
「じゃあさ、次はもう少し人数増えてもいい? |理沙《りさ》とか|七星《ななせ》も来たがってたんだけど島口先生に止められてさあ。……構いませんか?」
「もちろん!」
「気を遣わせて悪いけど、本当に助かるわ」
真佐子と母を交互に見て許可を得る友人に、同時に承諾を返していた。
「真佐子! またお見舞いには来るけど、早く退院して学校来られるように祈ってるから」
「ありがとう、澄麗ちゃん。春菜ちゃんも」
二人を送り出したあと。
「|あの学校《アンジェラ》に行って良かったわね。お母さん、最初は止めて悪かったわ」
「お母さんの心配もわかってるから大丈夫。最後は私に決めさせてくれたし。──初めてみんなが『真佐子』って呼んでくれるの。話し掛けて仲間に入れてくれるの。私……」
思わず感極まって涙を滲ませた真佐子に、母の目も僅かに潤んでいる気がした。
名前で呼ばれる。
こんな些細なことが嬉しいなどと、普通の子には伝わらない気もする。
事件に巻き込まれたのは災難だったが、真に信用できる友人の存在を改めて認識できた。傷痕は残るかもしれないが、見るたびに思い出すのはきっと間中ではなく澄麗や春菜になる。
真佐子の大切な、初めての《《お友達》》なのだから。
~END~