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"Monna Innominata":クリスティナ・ロセッティ

ー/ー



廊下の上の方から微かに人の声がして、私は階段を上った。踊り場から見上げると、生徒二人が屋上に出る扉の前に腰を下ろしている。二人は気まずそうな顔をしていて、私は声をかけるのを一瞬ためらってしまった。

「……もう六時だから、何もなければ帰りなさい」

 はーい、と二人は間延びした返事をして私とすれ違った。扉には鎖が巻かれていて、決して屋上には出られないようになっている。扉にあんな細工がされたのは私が卒業した直後らしく、人工的な緑色の中で味わえる束の間の解放感を、今の生徒たちは知らない。鈍い銀色をした扉の窓から、紫がかった夕焼けの空が見えた。もう十年も経ってしまったけれど、あの日もこんな空だった気がする。

     *

 私はその日も、校舎の屋上に寝転がっていた。濃い灰色に染まった雲の切れ間から差し込む西陽が、生徒たちの喧騒と静寂が綾なす箱庭を黄金色に染め上げている。カレンダー上では九月も半ばに入ろうとしていた。だが、じりじりと灼けつく屋上と粘っこい気温は、まだ夏の面影を残している。

 暦の上ではセプテンバー、でも天気は超サマー。流行りの朝ドラの挿入歌を替え歌にして口ずさんでいると、何それ、と笑う声が降ってきた。首だけで声の方を見ると、夏海が出入口の日陰からひょっこり顔を覗かせている。ボブカットの髪が風に揺れていた。

「あまちゃんの替え歌?」
「うん、なんとなく思いついただけ」
「ふーん。てか、今補習時間でしょ。こんなところでサボってていいの?」

 夏海も一緒じゃん、と私は言い返した。それを予期していたかのように、夏海はぺろっと舌を出した。

「私は優秀な莉緒と違って期待されてないからいいの。センターも数学と理科使わないしね」
「優秀なんかじゃ……」と私はまた空を見上げた。鱗雲の間を縫うように、飛行機が一筋の尾を引いている。
「優秀だって。国立志望でしょ? 十分だよ、自信持ちなよ」

 国立大学に行けるか分からないのに、家から出たいけれどあまり離れたくないという曖昧な動機からただ志望しているだけなのに、それだけで優秀なんて言えるのだろうか。志望大学で優秀さが決まるなら、京大を目指している理数科の明子の方が優秀だ。動機で優秀さが決まるなら、明確に医学部を目指している五組の優香や、震災の被害を受けて建築学部を目指している六組の沙耶の方が優秀だ。

 私にはそのどちらもない。それでも自信を持ちなよという夏海の発言は、きっと裏表のない素直な発言なのだろうが、飲み込むには引っ掛かりが多すぎた。

 サッカー部か野球部が張り上げている大声が、遠くに響いている。それと同時に、補修を終えて帰宅する生徒たちの声が、階下の窓から聞こえてきた。二人の間に沈黙が流れた。

「ねえ、そこ暑くない?」夏海の声に、「別に」と私は短く返した。
「さすが九州の人間は暑さ耐性が高いねえ。東北の私からすると暑くてたまんないわ」

 夏海は一昨年の春先に故郷の仙台を離れて、親戚を頼って福岡に引っ越してきていた。その事実は知っていたが、それを彼女がどう思っているのかは知らない――あるいは、知ろうともしていない。あの震災から二年経ったとはいえ、彼女の中では二年しか経っていないかもしれない。二年半同じクラスではあるが、距離感は未だに掴めていない。私は夏海から一人分離れたところに腰を下ろした。

「夏休み、何してた?」
「学校に出たり、図書館で受験勉強したり……かな」
「え、めちゃくちゃ真面目じゃん。夏祭りとか花火大会とか行かなかったの?」と、信じられない、とでも言いたげに目を丸くして夏海は言った。

「一応、今宿と大濠の花火大会は見に行ったよ。あ、あと風立ちぬも見に行った」
「ちゃんとエンジョイしてんじゃん。てかあれ理解できた? めっちゃ難しいって聞いて見にいくの迷ってるんだけど」
「あんまり分かんなかったかなあ。お母さんはジブリっぽくないけど好きだってさ」
「大人向けなのかな、やっぱ。部活は?」
「高総体で終わり。陸上だしね」
「そっかー、運動部は最後の夏は勉強漬けになるんだよね」

 かわいそうに、と夏海は腕を組んでうんうんと頷いている。そう言っている夏海は吹奏楽部なので、今月末の文化祭が終わるまで部活をやり切るつもりらしい。

「あ、そうそう」と夏海は言った。「あたし、カレシできたんだよね」
「へえ、やったじゃん。誰?」
「二組の滝川。この間、吹部の練習終わりに告られちゃってさ」
「滝川って、サックスの? 結構モテモテなんでしょ、彼?」
「そうそう。一年くらい前から好きで~だってさ。可愛くない?」

 可愛いじゃん、とは言ったが、滝川を見たことはあるけれども、その素性はよく知らない。彼の印象と言えば、昨年の文化祭の「ディープ・パープルメドレー」で身長の半分くらいあるサックスを振り回しながらソロを吹いていたくらいだ。その頃から密かに思いを寄せていたのだろうか。でもまあ、夏海とは華やかでお似合いだと思う。大学はどうするの、と聞くと、夏海はピースして見せた。

「同じところ志望してるよ。これはたまたまだけど。何ていうか、バラ色の人生、とか未来、って感じ」

 そう言うと夏海は仰向けに寝転がった。ちょっと単純じゃない、苦笑する私に、夏海は単純なくらいが今は丁度いいよ、と言った。

「あまり考えてもしょうがないじゃん? 色々訳わかんない時代だし。小っちゃい幸せがあるだけましだよ」
「……仙台には、戻れそう?」

 さあね、と夏海は他人事のように笑った。陽の沈みかけた屋上に冷たい風が吹き抜けて、夏海の膝丈のスカートがふわりとめくれ上がり、曲げた白い右脚が露わになる。肉付きの良い太腿の付け根を隠す、水色の下着のレースが目に入った。

 瞬間、脳内を映像が走り抜けた。彼の大きな手が、夏海の制服のボタンの間から侵入する。少し浮いたブラの隙間から、張りの良い乳房を包み、撫で、柔らかい腹を伝い、その下の茂みに吸い込まれていく。エスカレートしそうな妄想を、私は理性で抑えつけた。快活で人懐っこい夏海は、すぐにではなくとも、いずれ早いうちに、柔肌を重ねるのを彼に許すだろう。私の前では決して見せない顔を見せるだろう。それを想像して、私はそっと眼を反らした。

「何赤くなってんの? あ、もしかしてパンツ見た?」
「風が悪いんだって」
「えっちぃ。このスカートとおパンツはクリスだけのものよ!」
「クリスって……はいはい、クリステルね、滝川君ね。そのあだ名、本人はどうなの?」
「さあ、気に入ってるみたいだけど?」

「じゃあ、いいのかな」と嘯いて気づいたのは、さっきから批評家めいたことしか言っていないことだ。どこまでも彼女の、あるいは彼女と彼の関係性を外から眺めているに過ぎなかった。それなのに、ここにいて話しているこの瞬間がむずがゆい。

 同じクラスでありながら関わりは最低限くらいしかなかったし、彼女のことを深く知らずにここまで来た。仙台でどんな風に育って、誰と関係性を築いてきて、それを一瞬にして失い、それとどう向き合ってきたのか。それをどうやって乗り越えて、私たちと共に生きているのか。一度強制的に白紙に戻された未来予想図を、今彼女はどのように描き直しているのか。

 それにも関わらず、滝川という存在が近くにあるのが引っかかった。きっと彼は、同じ部活に入った時から、夏海を視界にとらえてきたのだろう。どんな風に話し、どんな風に笑い、どんな風に涙を流すのか。私は彼女が一体なんの楽器を演奏しているのかすらも知らない。

 ならば、滝川は彼女のそばにいるに相応しい。ならば、私は――相応しくない。

 そう認めざるを得ないのが、なぜか悔しい。

 私は夏海の隣に寝転がった。

「So dull to mark the budding of my tree」
「……何それ」
「クリスティナ・ロセッティ。イギリスの詩人」
「あー……赤本で?」
「まあ、そんなところ」
「どんな意味?」夏海が身体をこちらに向けたのが、目尻に映った。私は仰向けのまま、そのうち教える、と言った。

     *

 結局、ロセッティの詩の意味は言わなかった。言えば水を差すと思ったから。

 夏海と滝川は昨年結婚したらしい。沙耶がLINEで教えてくれた。

 そんな沙耶は大学院に進んだらしい。明子は京大を出た後あっさり地元で就職し、優香は看護師をやっている。

 私は大学の英文科を出て、今は英語教師をやっている。ロセッティの詩を生徒に教えることはない。教えたら、気づいてしまう子が必ずいるからだ。

 私は帰宅した後、大学時代に買ったロセッティの詩集を取り出した。


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廊下の上の方から微かに人の声がして、私は階段を上った。踊り場から見上げると、生徒二人が屋上に出る扉の前に腰を下ろしている。二人は気まずそうな顔をしていて、私は声をかけるのを一瞬ためらってしまった。
「……もう六時だから、何もなければ帰りなさい」
 はーい、と二人は間延びした返事をして私とすれ違った。扉には鎖が巻かれていて、決して屋上には出られないようになっている。扉にあんな細工がされたのは私が卒業した直後らしく、人工的な緑色の中で味わえる束の間の解放感を、今の生徒たちは知らない。鈍い銀色をした扉の窓から、紫がかった夕焼けの空が見えた。もう十年も経ってしまったけれど、あの日もこんな空だった気がする。
     *
 私はその日も、校舎の屋上に寝転がっていた。濃い灰色に染まった雲の切れ間から差し込む西陽が、生徒たちの喧騒と静寂が綾なす箱庭を黄金色に染め上げている。カレンダー上では九月も半ばに入ろうとしていた。だが、じりじりと灼けつく屋上と粘っこい気温は、まだ夏の面影を残している。
 暦の上ではセプテンバー、でも天気は超サマー。流行りの朝ドラの挿入歌を替え歌にして口ずさんでいると、何それ、と笑う声が降ってきた。首だけで声の方を見ると、夏海が出入口の日陰からひょっこり顔を覗かせている。ボブカットの髪が風に揺れていた。
「あまちゃんの替え歌?」
「うん、なんとなく思いついただけ」
「ふーん。てか、今補習時間でしょ。こんなところでサボってていいの?」
 夏海も一緒じゃん、と私は言い返した。それを予期していたかのように、夏海はぺろっと舌を出した。
「私は優秀な莉緒と違って期待されてないからいいの。センターも数学と理科使わないしね」
「優秀なんかじゃ……」と私はまた空を見上げた。鱗雲の間を縫うように、飛行機が一筋の尾を引いている。
「優秀だって。国立志望でしょ? 十分だよ、自信持ちなよ」
 国立大学に行けるか分からないのに、家から出たいけれどあまり離れたくないという曖昧な動機からただ志望しているだけなのに、それだけで優秀なんて言えるのだろうか。志望大学で優秀さが決まるなら、京大を目指している理数科の明子の方が優秀だ。動機で優秀さが決まるなら、明確に医学部を目指している五組の優香や、震災の被害を受けて建築学部を目指している六組の沙耶の方が優秀だ。
 私にはそのどちらもない。それでも自信を持ちなよという夏海の発言は、きっと裏表のない素直な発言なのだろうが、飲み込むには引っ掛かりが多すぎた。
 サッカー部か野球部が張り上げている大声が、遠くに響いている。それと同時に、補修を終えて帰宅する生徒たちの声が、階下の窓から聞こえてきた。二人の間に沈黙が流れた。
「ねえ、そこ暑くない?」夏海の声に、「別に」と私は短く返した。
「さすが九州の人間は暑さ耐性が高いねえ。東北の私からすると暑くてたまんないわ」
 夏海は一昨年の春先に故郷の仙台を離れて、親戚を頼って福岡に引っ越してきていた。その事実は知っていたが、それを彼女がどう思っているのかは知らない――あるいは、知ろうともしていない。あの震災から二年経ったとはいえ、彼女の中では二年しか経っていないかもしれない。二年半同じクラスではあるが、距離感は未だに掴めていない。私は夏海から一人分離れたところに腰を下ろした。
「夏休み、何してた?」
「学校に出たり、図書館で受験勉強したり……かな」
「え、めちゃくちゃ真面目じゃん。夏祭りとか花火大会とか行かなかったの?」と、信じられない、とでも言いたげに目を丸くして夏海は言った。
「一応、今宿と大濠の花火大会は見に行ったよ。あ、あと風立ちぬも見に行った」
「ちゃんとエンジョイしてんじゃん。てかあれ理解できた? めっちゃ難しいって聞いて見にいくの迷ってるんだけど」
「あんまり分かんなかったかなあ。お母さんはジブリっぽくないけど好きだってさ」
「大人向けなのかな、やっぱ。部活は?」
「高総体で終わり。陸上だしね」
「そっかー、運動部は最後の夏は勉強漬けになるんだよね」
 かわいそうに、と夏海は腕を組んでうんうんと頷いている。そう言っている夏海は吹奏楽部なので、今月末の文化祭が終わるまで部活をやり切るつもりらしい。
「あ、そうそう」と夏海は言った。「あたし、カレシできたんだよね」
「へえ、やったじゃん。誰?」
「二組の滝川。この間、吹部の練習終わりに告られちゃってさ」
「滝川って、サックスの? 結構モテモテなんでしょ、彼?」
「そうそう。一年くらい前から好きで~だってさ。可愛くない?」
 可愛いじゃん、とは言ったが、滝川を見たことはあるけれども、その素性はよく知らない。彼の印象と言えば、昨年の文化祭の「ディープ・パープルメドレー」で身長の半分くらいあるサックスを振り回しながらソロを吹いていたくらいだ。その頃から密かに思いを寄せていたのだろうか。でもまあ、夏海とは華やかでお似合いだと思う。大学はどうするの、と聞くと、夏海はピースして見せた。
「同じところ志望してるよ。これはたまたまだけど。何ていうか、バラ色の人生、とか未来、って感じ」
 そう言うと夏海は仰向けに寝転がった。ちょっと単純じゃない、苦笑する私に、夏海は単純なくらいが今は丁度いいよ、と言った。
「あまり考えてもしょうがないじゃん? 色々訳わかんない時代だし。小っちゃい幸せがあるだけましだよ」
「……仙台には、戻れそう?」
 さあね、と夏海は他人事のように笑った。陽の沈みかけた屋上に冷たい風が吹き抜けて、夏海の膝丈のスカートがふわりとめくれ上がり、曲げた白い右脚が露わになる。肉付きの良い太腿の付け根を隠す、水色の下着のレースが目に入った。
 瞬間、脳内を映像が走り抜けた。彼の大きな手が、夏海の制服のボタンの間から侵入する。少し浮いたブラの隙間から、張りの良い乳房を包み、撫で、柔らかい腹を伝い、その下の茂みに吸い込まれていく。エスカレートしそうな妄想を、私は理性で抑えつけた。快活で人懐っこい夏海は、すぐにではなくとも、いずれ早いうちに、柔肌を重ねるのを彼に許すだろう。私の前では決して見せない顔を見せるだろう。それを想像して、私はそっと眼を反らした。
「何赤くなってんの? あ、もしかしてパンツ見た?」
「風が悪いんだって」
「えっちぃ。このスカートとおパンツはクリスだけのものよ!」
「クリスって……はいはい、クリステルね、滝川君ね。そのあだ名、本人はどうなの?」
「さあ、気に入ってるみたいだけど?」
「じゃあ、いいのかな」と嘯いて気づいたのは、さっきから批評家めいたことしか言っていないことだ。どこまでも彼女の、あるいは彼女と彼の関係性を外から眺めているに過ぎなかった。それなのに、ここにいて話しているこの瞬間がむずがゆい。
 同じクラスでありながら関わりは最低限くらいしかなかったし、彼女のことを深く知らずにここまで来た。仙台でどんな風に育って、誰と関係性を築いてきて、それを一瞬にして失い、それとどう向き合ってきたのか。それをどうやって乗り越えて、私たちと共に生きているのか。一度強制的に白紙に戻された未来予想図を、今彼女はどのように描き直しているのか。
 それにも関わらず、滝川という存在が近くにあるのが引っかかった。きっと彼は、同じ部活に入った時から、夏海を視界にとらえてきたのだろう。どんな風に話し、どんな風に笑い、どんな風に涙を流すのか。私は彼女が一体なんの楽器を演奏しているのかすらも知らない。
 ならば、滝川は彼女のそばにいるに相応しい。ならば、私は――相応しくない。
 そう認めざるを得ないのが、なぜか悔しい。
 私は夏海の隣に寝転がった。
「So dull to mark the budding of my tree」
「……何それ」
「クリスティナ・ロセッティ。イギリスの詩人」
「あー……赤本で?」
「まあ、そんなところ」
「どんな意味?」夏海が身体をこちらに向けたのが、目尻に映った。私は仰向けのまま、そのうち教える、と言った。
     *
 結局、ロセッティの詩の意味は言わなかった。言えば水を差すと思ったから。
 夏海と滝川は昨年結婚したらしい。沙耶がLINEで教えてくれた。
 そんな沙耶は大学院に進んだらしい。明子は京大を出た後あっさり地元で就職し、優香は看護師をやっている。
 私は大学の英文科を出て、今は英語教師をやっている。ロセッティの詩を生徒に教えることはない。教えたら、気づいてしまう子が必ずいるからだ。
 私は帰宅した後、大学時代に買ったロセッティの詩集を取り出した。