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恐塊

ー/ー



第一部
 
 霧雨が降り続く十一月の午後、私は偶然にも「恐塊」という奇妙な小説投稿サイトを発見した。
 窓の外では鉛色の空が重く垂れ込め、細かな雨粒が窓ガラスを叩く音が、私の部屋に静かなリズムを刻んでいた。
 パソコンの画面に映る「恐塊」のトップページは一見すると何の変哲もない小説投稿サイトのように見えるが、よく目を凝らすと、そこには何とも言えない不穏な空気が漂っていることに気づく。背景は漆黒で、文字は血のように赤い。サイトのロゴはじわじわと蠢いていた。
 好奇心に駆られた私は恐る恐るカーソルを動かして投稿作品一覧をクリックした。次の画面では二十にわたる短編小説のタイトルが並んでいるのが目に入った。
 「むねひろさん」「死神」「溶ける」……。
 私は思わず眉をひそめた。どれも不気味なタイトルばかりだが、何か引き寄せられるような魅力も感じていた。これらの物語が私に読まれることを望んでいるかのように。
 その誘惑とも感じる望みにためらいながらも私は最初の物語「むねひろさん」をクリックした。
 
 物語は、ある家族の日常から始まった。一見平凡な家族の様子が描かれているが、どこか違和感がある。家族の会話の中に、「むねひろさん」という存在が当たり前のように登場する。その「むねひろさん」が誰なのか、どこにいるのかは、一切説明されないその異常さに興味が惹かれる。
 読み進めるうちに、私の背筋に冷たいものが走った。この「むねひろさん」という存在が徐々に不気味さを増していく…… 。
 物語を読み終えた時、私は思わず周囲を見回していた。部屋には誰もいない。当たり前だと自らの心に言い聞かせるが、誰かがいるような錯覚に陥る。(気のせいだ)私は次の物語「死神」をクリックした。
 
 落語家と死神との駆け引きを描いたこの物語は、どこか滑稽でありながら底知れぬ恐怖を感じさせるものだった。主人公の落語家が、自らの才覚で死神を出し抜こうとする話だ。最後には死神に騙され、魂を奪われてしまう…… 。
 読み終えた私の額には冷や汗が浮かんでいた。なぜだろう。単なる創作なのにまるで本当にあった出来事のように感じられる。気配を感じて振り返ると、部屋の隅に黒い影のようなものが見えた。――気がした。私は慌ててパソコンの電源を切った。画面が消えた後もじんわりと「恐塊」のロゴが網膜に焼き付いて離れない。その夜、私は悪夢にうなされた。
 夢の中で「むねひろさん」と名乗る影のような存在が私を追いかけ、そして最後には死神が私の魂を刈り取ろうとする…… 目が覚めると私の体は冷や汗でびっしょりだった。台所でのどを潤していると、あの「恐塊」サイトの他の物語も読みたいという強い衝動に駆られていた。
 
 翌日。
 私は再びパソコンの前に座った。外では相変わらず霧雨が降り続いている。今日は一日中こうなのだろうか。 一呼吸おいて「恐塊」サイトを開き、食事を摂ることも忘れて「溶ける」をクリックしていた。
 この物語は、人類が死ななくなった世界を描いていた。永遠の命という祝福ではなく呪いの物語。人々は徐々に溶け始めるが、完全には消滅せず永遠に苦しみ続ける……読み終えると私は思わず自分の手を見ていた。自分自身も溶け始めているような錯覚を覚えたからだ。心を落ち着ける為に窓外を見ると通り行く人々がどこかぼんやりとしているようにも見える。私は窓外から目を逸らして次なる物語へ進むことにした。
 
第二部
 
 次にクリックしたのは「料理店」だった。物語の舞台は山奥にある不気味な料理店。そこでは訪れた客が二度と帰ってこない。人々は引き寄せられるようにその店を訪れ続ける……読み進めるうちに私の鼻腔をかすかな香りが満たし始める。甘ったるい香りと腐敗臭が入り混じり、何とも言えない不快感を覚え、思わず胸を押さえた。気持ちが悪い。吐き気がこみ上げてくる。それでもこの短編集を読むのをやめられずに次々と物語を読み進めていた。「祈り」「壁に数字」「ソウルメイト」……それぞれの物語が、私の現実世界に少しずつ侵食してくるような感覚。
 
 誰かに騙されて操られているような気がする。部屋の壁紙の模様が何かの数字に見える。誰かと出会うたびに、その人が自分のソウルメイトなのではないかという妄想に駆られる。
 気がつけば外は暗くなっていた。しかし霧雨は相変わらず降り続いている。街灯の光が霧の中でぼんやりと滲み、揺らめいていた。私は震える手で次の物語「XFucter」をクリックした。
 
 SNSを通じて広がる恐怖。真相不明の事件。その背後に潜む得体の知れない存在…… 読み終えた時、私のスマートフォンが突然鳴った。見知らぬ番号からのメッセージが画面の表示されている。
 「あなたも、もう私たちの一員です」私は思わずスマートフォンを投げ出したが、すぐに我に返り、それを拾い上げる。スマートフォンの画面を見ると先ほどのメッセージは消えていた。送信履歴にも残っていないので、幻覚だったのだろうか?と結論を焦る。でも、もしかすると……私は再びパソコンの画面に目を向けた。残りの物語たちがまるで私を誘うかのように、そこで淡い光をまとっていた。
 
 深夜。
 時計の針が午前2時を指す頃、私は「激辛」という物語を読み始めていた。極限の辛さを追求する主婦の物語。彼女は世界最強の唐辛子「爆弾」に挑戦する。その結末は……読み進めるうちに私の口内が異様に熱くなってきた。舌が焼けるような感覚。そして胸の辺りに激しい痛みが走る。私は慌てて水を飲んだ。その水さえも溶岩のように熱く感じられた。次なる物語「由緒正しい参拝」に進む。

 神社で厳格な参拝作法を巡る恐怖と皮肉……読み終えた後、私は無意識に自分の日常動作にも注意を払うようになっていた。歩く時、足をどちらから運ぶべきか?物を持つ時、手はどう使えばいい?全ての日常動作が儀式的なものとして感じられる。それから「贖網」を読み始めた。

 謎めいた食材によって翻弄される男の物語……読み終えた時、私の胃袋で何かが蠢いている感覚に襲われた。自分自身の体内へ未知なる生物が住み着いたかのようで気持ちが悪くなった。不快感を紛らわすために外を見ると霧はさらに濃くなっていた。街灯はオレンジ色の点となり、その光さえもにじんだ世界へ吸い込まれていく。その霧中には人影とも思えるものがぐにぐにと見え隠れしているように見えた。私は慌てて目を逸らし、次なる物語「寒さ対策」をクリックした。

 寒さから逃れようとして起こる悲劇的な出来事。読み進めるうちに部屋の温度が急激に下がっていくのを感じた。私は思わず震えて毛布を体に巻き付けるが、その毛布が徐々に私の体を締め付けていくような錯覚に陥る。息苦しさを感じた私は必死で毛布を振り払った。それでも物語を読みたいという欲望は消えず、震える指で次の物語「ギャンブル」をクリックした。
 ギャンブル依存がもたらす恐ろしい結末。読み進めるうちに私の耳にはスロットマシンの音が聞こえてくるような気がした。ヴーカチカチカツッという機械音。それと、どこからともなく聞こえてくる人々の興奮した声や絶望的な叫び声……私は耳を塞いだ。その音は消えずに頭の中で鳴り続けている。次なる物語「異世界」。

 異世界を渡り歩く能力の代償を描いた物語。それを読み終えた時、私の周りの景色が歪み始めた。壁や家具の輪郭が揺らぎ、その歪みの中心に吸われて別世界へ引き込まれそうになる。私は必死で現実に踏みとどまろうとした。その努力が逆効果だったのか、気がつけば私の指は勝手に動きだし休憩も挟まずに次なる物語「死に化粧」をクリックしていた。
 死者を蘇らせる能力を持つ女性の葛藤。読み進めるうちに私の鏡に映る自分自身の顔が徐々に変化していくような気配……鏡を取り出して私の顔を確認する。肌が蒼白になり、目が窪み、唇が紫色へと変色していく……。慌てて鏡から目を逸らした。視線を戻すと既に「魚の骨」が表示されていた。

 魚への愛が招いた永遠の呪い。読み終えると同時に私の喉に何かが刺さったような感覚に襲われた。それは魚の小骨ようだった……どれだけ飲み込もうとしてもその違和感は消えない。そのまま「小説」を読む。

 小説を書き続けることで命を削る作家たちの物語……この物語を読み始めると、私自身の指が勝手に動き始めた。キーボードを打つような動き。画面には私自身の知らない言葉がずらーっと次々に現れ始める。その言葉たちは瞬きをすると消えた。私は恐怖に震えながらも、まだ見ぬ物語たちを一気に読み進めた。「コックリさん」「ライブハウス」……それぞれの物語が私自身の日常世界をさらに歪めていく。部屋中には見えない存在たちが増えていく気配を感じ、壁からは奇妙な音が響き、空気中には得体知れぬ匂いが漂う……全て読み終えた時、私の部屋そのものは完全に異世界化していた。
 
第三部
 
  壁は脈動し、床は呼吸をしている。天井からは得体の知れない液体が滴り落ちる。画面には新たな物語が表示されていた。 タイトルは「恐塊」。 私は震える手でその物語をクリックした。

 「恐塊」の物語を読もうと目を運んだ瞬間、目の前がぐにゃりと曲がり、浮遊感に包まれた。自分の体から抜け出して物語の中へと引き込まれていくかのような感覚の中、文字を追っていく。物語はある主人公(「私」と呼ばれている)が奇妙な小説投稿サイトを発見するところから始まる。その展開はあまりにも私自身の体験と酷似していることに戦慄を覚えた。だが、それは始まりに過ぎなかった。 物語が進むにつれ、「私」の周囲で奇妙な出来事が次々と起こり始める。それらの出来事は先ほど読んだ20の物語と不気味なほど重なっていく。「むねひろさん」を読んだ後、「私」の家族が見えない存在について話し始める場面。私は思わず自分の背後を振り返った。そこには何もなかった。「溶ける」の世界が現実に侵食してくる描写。私は自分の手を見た。まるで指先から溶け始めているかのような錯覚に陥った。「料理店」の世界が広がる場面。私の鼻腔に再び例の香りが満ちてきた。美味しそうで腐敗した肉の匂いがした。

 物語の「私」が体験する恐怖は、そのまま現実の私にも及んでくる。物語と現実の境界線が曖昧になっていくかのように。 そうして物語の中の「私」が、自分も新たな物語を書き始めていることに気づく場面。私自身の指も再び勝手に動き出していた。この物語の中の「私」はキーボードではなく、ペンを握っている。目の前にはいつの間にか白い原稿用紙が広がっていた。 私は恐怖に震えながらもペンを走らせずにはいられなかった。意思に反して書かれていく文章は今の私自身の状況を描写したものだった。「私はペンを走らせている。しかし、それは私の意思ではない。まるで何者かに操られているかのように……」 その文章を目にした瞬間、私自身の背後に20の影が現れた。 振り返るとそこには先ほど読んだ20の物語の主人公たちが立っていた。
 
 むねひろさん、死神に騙された落語家、溶け続ける人々、山奥の料理店の店主……彼らは皆、口々に語りかけてきた。
「君も、もう私たちの仲間なんだ」
「物語は永遠に続くよ」
「新たな『恐塊』の一部となるんだ」
 私は叫び声を上げようとしたが、声が出ない。私の声の代わりに持っていたペンが紙上を滑っていく。
「私は叫び声を上げようとしたが、声は出ない。私の声の代わりに持っていたペンが紙上を滑っていく……」
 
 現実と物語が完全に融合していた。
 
最終部
 
 現実と物語が完全に融合したと気づき、私は悟った。自分が物語の中に閉じ込められてしまったことに。そして、この物語が誰かに読まれ、新たな犠牲者を生み出すことも。もはやそれを止めることはできない。ペンは私の意思とは無関係に動き続ける。
 新たな恐怖の物語がここから始まろうとしていた。それは永遠に続いていく……気がつくと私は再び自分の部屋にいた。だが、何かが違う。
 壁には見たこともない模様が浮かび上がり、床からはかすかに息遣いが聞こえてくる。天井には得体の知れない影が蠢いている。その中で私は震える手に力を込めて机の上に置かれた原稿用紙を手に取った。
 そこには先ほどの出来事が克明に記されていた。読み進めたが、最後の一文だけがまだ書かれていないことに気づいた。私はおもむろにペンを取り、こう書いた。
 
【そして、新たな読者がこの物語を手に取る。】

  ペンを置いた時、部屋の空気が凍りついたように感じた。その凍てつく寒さのどこからか声が聞こえてきた。 「よく書けました。次はあなたの番ですね」 私はゆっくりと振り返る。そこには一枚の大きな鏡があった。近寄って鏡に映る私の姿を確認して、少し後ろへ下がる。明らかに"私"ではなかったから。
 
 髪は長く伸び、顔は蒼白で目は深く窪んでいる。その唇は不自然なほど赤く、まるで血に染まったかのようだ。 私は思わず後ずさりした。すると、鏡の中の"私"は一歩前に出てきた。そして真っ赤な唇を開く。

「怖がることはないですよ」

 鏡の中の"私"が言った。「あなたは今目の前のあなたを見ています」
 私は震える声で尋ねた。「あなたは……誰?」
 "私"は微笑む。その笑顔には底知れぬ闇が潜んでいるように感じられた。
「私は……あなた。そして、ここにいる全ての物語の登場人物でもあるの」
 その言葉とともに鏡の中の景色が変わり始める。変化する景色の"私"の後ろには、先ほど読んだ二十の物語の主人公たちが立っていた。
 むねひろさん、死神、溶け続ける人々、山奥の料理店の店主……彼らは皆、じっと私を見つめている。

「私たちは皆、『恐塊』という名の物語に囚われた存在」
 "私"は続けた。
「そして今、あなたも同じく囚われている」
 私は必死で現実を取り戻そうとしていた。
「これは夢だ。そうに違いない!」
 鏡の中の"私"は首を横に振った。
「夢ではないのです。これが新しい現実。あなたの書いた物語がこの世界を作り出したの」
 "私"がそういうと、私の周りの空間が歪み始めた。壁が溶け、床が波打ち、天井が呼吸を始める。その歪んだ空間の中央から二十の物語の世界が次々と現れ始めた。
 
 むねひろさんの家族が見えない存在と会話している。
 死神が新たな魂を求めてさまよっている。
 人々が溶け続けながらも永遠の苦痛に耐えている。
 山奥の料理店で得体知れない料理が振る舞われている…… それらの世界が重なり合い、混ざり合い、新たな恐怖の風景を作り出していく。

「さあ、物語を続けましょう」
 "私"が言った。

「あなたの筆でこの世界をさらに素晴らしいものにしましょう」
 私は抵抗しようとしたが、気づくと手にはペンを握っていた。そして目の前には無限に広がる原稿用紙……。
 ペンは動き始める。私自身とは無関係に。
 
「新たな恐怖が生まれる。それは読む者すべてを永遠へ縛り付ける」
 その文字が紙上へ刻まれると世界全体がさらに大きく歪んだ。その歪み続ける世界で私は悟った。
 自分自身が物語を生み出す存在であると同時にその物語へ飲み込まれる存在でもあることを。そして、この「恐塊」という名の循環から逃れることなど決してできないということも……。
 悟ったとて、私が握るペンは止まることなく動き続ける。物語は終わることなく続いていくということだ。
 この物語を読む新たな読者によって、また新しい呪いの物語が生み出されていくことだろう。
 
 あなたもこの物語を読み終えた読者の一人。
 あなたもこの「恐塊」の一部となったこと。
 それに気づいたあなたはペンを執るだろう。
 新しい恐怖という連なる鎖の中に加わる時。
 あなたの執筆する終わらぬ恐怖が塊となる。
 永遠へ続く物語の一部を恐塊に捧げ続ける。
 あなたが書き続けるその物語は誰の物なの?


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第一部
 霧雨が降り続く十一月の午後、私は偶然にも「恐塊」という奇妙な小説投稿サイトを発見した。
 窓の外では鉛色の空が重く垂れ込め、細かな雨粒が窓ガラスを叩く音が、私の部屋に静かなリズムを刻んでいた。
 パソコンの画面に映る「恐塊」のトップページは一見すると何の変哲もない小説投稿サイトのように見えるが、よく目を凝らすと、そこには何とも言えない不穏な空気が漂っていることに気づく。背景は漆黒で、文字は血のように赤い。サイトのロゴはじわじわと蠢いていた。
 好奇心に駆られた私は恐る恐るカーソルを動かして投稿作品一覧をクリックした。次の画面では二十にわたる短編小説のタイトルが並んでいるのが目に入った。
 「むねひろさん」「死神」「溶ける」……。
 私は思わず眉をひそめた。どれも不気味なタイトルばかりだが、何か引き寄せられるような魅力も感じていた。これらの物語が私に読まれることを望んでいるかのように。
 その誘惑とも感じる望みにためらいながらも私は最初の物語「むねひろさん」をクリックした。
 物語は、ある家族の日常から始まった。一見平凡な家族の様子が描かれているが、どこか違和感がある。家族の会話の中に、「むねひろさん」という存在が当たり前のように登場する。その「むねひろさん」が誰なのか、どこにいるのかは、一切説明されないその異常さに興味が惹かれる。
 読み進めるうちに、私の背筋に冷たいものが走った。この「むねひろさん」という存在が徐々に不気味さを増していく…… 。
 物語を読み終えた時、私は思わず周囲を見回していた。部屋には誰もいない。当たり前だと自らの心に言い聞かせるが、誰かがいるような錯覚に陥る。(気のせいだ)私は次の物語「死神」をクリックした。
 落語家と死神との駆け引きを描いたこの物語は、どこか滑稽でありながら底知れぬ恐怖を感じさせるものだった。主人公の落語家が、自らの才覚で死神を出し抜こうとする話だ。最後には死神に騙され、魂を奪われてしまう…… 。
 読み終えた私の額には冷や汗が浮かんでいた。なぜだろう。単なる創作なのにまるで本当にあった出来事のように感じられる。気配を感じて振り返ると、部屋の隅に黒い影のようなものが見えた。――気がした。私は慌ててパソコンの電源を切った。画面が消えた後もじんわりと「恐塊」のロゴが網膜に焼き付いて離れない。その夜、私は悪夢にうなされた。
 夢の中で「むねひろさん」と名乗る影のような存在が私を追いかけ、そして最後には死神が私の魂を刈り取ろうとする…… 目が覚めると私の体は冷や汗でびっしょりだった。台所でのどを潤していると、あの「恐塊」サイトの他の物語も読みたいという強い衝動に駆られていた。
 翌日。
 私は再びパソコンの前に座った。外では相変わらず霧雨が降り続いている。今日は一日中こうなのだろうか。 一呼吸おいて「恐塊」サイトを開き、食事を摂ることも忘れて「溶ける」をクリックしていた。
 この物語は、人類が死ななくなった世界を描いていた。永遠の命という祝福ではなく呪いの物語。人々は徐々に溶け始めるが、完全には消滅せず永遠に苦しみ続ける……読み終えると私は思わず自分の手を見ていた。自分自身も溶け始めているような錯覚を覚えたからだ。心を落ち着ける為に窓外を見ると通り行く人々がどこかぼんやりとしているようにも見える。私は窓外から目を逸らして次なる物語へ進むことにした。
第二部
 次にクリックしたのは「料理店」だった。物語の舞台は山奥にある不気味な料理店。そこでは訪れた客が二度と帰ってこない。人々は引き寄せられるようにその店を訪れ続ける……読み進めるうちに私の鼻腔をかすかな香りが満たし始める。甘ったるい香りと腐敗臭が入り混じり、何とも言えない不快感を覚え、思わず胸を押さえた。気持ちが悪い。吐き気がこみ上げてくる。それでもこの短編集を読むのをやめられずに次々と物語を読み進めていた。「祈り」「壁に数字」「ソウルメイト」……それぞれの物語が、私の現実世界に少しずつ侵食してくるような感覚。
 誰かに騙されて操られているような気がする。部屋の壁紙の模様が何かの数字に見える。誰かと出会うたびに、その人が自分のソウルメイトなのではないかという妄想に駆られる。
 気がつけば外は暗くなっていた。しかし霧雨は相変わらず降り続いている。街灯の光が霧の中でぼんやりと滲み、揺らめいていた。私は震える手で次の物語「XFucter」をクリックした。
 SNSを通じて広がる恐怖。真相不明の事件。その背後に潜む得体の知れない存在…… 読み終えた時、私のスマートフォンが突然鳴った。見知らぬ番号からのメッセージが画面の表示されている。
 「あなたも、もう私たちの一員です」私は思わずスマートフォンを投げ出したが、すぐに我に返り、それを拾い上げる。スマートフォンの画面を見ると先ほどのメッセージは消えていた。送信履歴にも残っていないので、幻覚だったのだろうか?と結論を焦る。でも、もしかすると……私は再びパソコンの画面に目を向けた。残りの物語たちがまるで私を誘うかのように、そこで淡い光をまとっていた。
 深夜。
 時計の針が午前2時を指す頃、私は「激辛」という物語を読み始めていた。極限の辛さを追求する主婦の物語。彼女は世界最強の唐辛子「爆弾」に挑戦する。その結末は……読み進めるうちに私の口内が異様に熱くなってきた。舌が焼けるような感覚。そして胸の辺りに激しい痛みが走る。私は慌てて水を飲んだ。その水さえも溶岩のように熱く感じられた。次なる物語「由緒正しい参拝」に進む。
 神社で厳格な参拝作法を巡る恐怖と皮肉……読み終えた後、私は無意識に自分の日常動作にも注意を払うようになっていた。歩く時、足をどちらから運ぶべきか?物を持つ時、手はどう使えばいい?全ての日常動作が儀式的なものとして感じられる。それから「贖網」を読み始めた。
 謎めいた食材によって翻弄される男の物語……読み終えた時、私の胃袋で何かが蠢いている感覚に襲われた。自分自身の体内へ未知なる生物が住み着いたかのようで気持ちが悪くなった。不快感を紛らわすために外を見ると霧はさらに濃くなっていた。街灯はオレンジ色の点となり、その光さえもにじんだ世界へ吸い込まれていく。その霧中には人影とも思えるものがぐにぐにと見え隠れしているように見えた。私は慌てて目を逸らし、次なる物語「寒さ対策」をクリックした。
 寒さから逃れようとして起こる悲劇的な出来事。読み進めるうちに部屋の温度が急激に下がっていくのを感じた。私は思わず震えて毛布を体に巻き付けるが、その毛布が徐々に私の体を締め付けていくような錯覚に陥る。息苦しさを感じた私は必死で毛布を振り払った。それでも物語を読みたいという欲望は消えず、震える指で次の物語「ギャンブル」をクリックした。
 ギャンブル依存がもたらす恐ろしい結末。読み進めるうちに私の耳にはスロットマシンの音が聞こえてくるような気がした。ヴーカチカチカツッという機械音。それと、どこからともなく聞こえてくる人々の興奮した声や絶望的な叫び声……私は耳を塞いだ。その音は消えずに頭の中で鳴り続けている。次なる物語「異世界」。
 異世界を渡り歩く能力の代償を描いた物語。それを読み終えた時、私の周りの景色が歪み始めた。壁や家具の輪郭が揺らぎ、その歪みの中心に吸われて別世界へ引き込まれそうになる。私は必死で現実に踏みとどまろうとした。その努力が逆効果だったのか、気がつけば私の指は勝手に動きだし休憩も挟まずに次なる物語「死に化粧」をクリックしていた。
 死者を蘇らせる能力を持つ女性の葛藤。読み進めるうちに私の鏡に映る自分自身の顔が徐々に変化していくような気配……鏡を取り出して私の顔を確認する。肌が蒼白になり、目が窪み、唇が紫色へと変色していく……。慌てて鏡から目を逸らした。視線を戻すと既に「魚の骨」が表示されていた。
 魚への愛が招いた永遠の呪い。読み終えると同時に私の喉に何かが刺さったような感覚に襲われた。それは魚の小骨ようだった……どれだけ飲み込もうとしてもその違和感は消えない。そのまま「小説」を読む。
 小説を書き続けることで命を削る作家たちの物語……この物語を読み始めると、私自身の指が勝手に動き始めた。キーボードを打つような動き。画面には私自身の知らない言葉がずらーっと次々に現れ始める。その言葉たちは瞬きをすると消えた。私は恐怖に震えながらも、まだ見ぬ物語たちを一気に読み進めた。「コックリさん」「ライブハウス」……それぞれの物語が私自身の日常世界をさらに歪めていく。部屋中には見えない存在たちが増えていく気配を感じ、壁からは奇妙な音が響き、空気中には得体知れぬ匂いが漂う……全て読み終えた時、私の部屋そのものは完全に異世界化していた。
第三部
  壁は脈動し、床は呼吸をしている。天井からは得体の知れない液体が滴り落ちる。画面には新たな物語が表示されていた。 タイトルは「恐塊」。 私は震える手でその物語をクリックした。
 「恐塊」の物語を読もうと目を運んだ瞬間、目の前がぐにゃりと曲がり、浮遊感に包まれた。自分の体から抜け出して物語の中へと引き込まれていくかのような感覚の中、文字を追っていく。物語はある主人公(「私」と呼ばれている)が奇妙な小説投稿サイトを発見するところから始まる。その展開はあまりにも私自身の体験と酷似していることに戦慄を覚えた。だが、それは始まりに過ぎなかった。 物語が進むにつれ、「私」の周囲で奇妙な出来事が次々と起こり始める。それらの出来事は先ほど読んだ20の物語と不気味なほど重なっていく。「むねひろさん」を読んだ後、「私」の家族が見えない存在について話し始める場面。私は思わず自分の背後を振り返った。そこには何もなかった。「溶ける」の世界が現実に侵食してくる描写。私は自分の手を見た。まるで指先から溶け始めているかのような錯覚に陥った。「料理店」の世界が広がる場面。私の鼻腔に再び例の香りが満ちてきた。美味しそうで腐敗した肉の匂いがした。
 物語の「私」が体験する恐怖は、そのまま現実の私にも及んでくる。物語と現実の境界線が曖昧になっていくかのように。 そうして物語の中の「私」が、自分も新たな物語を書き始めていることに気づく場面。私自身の指も再び勝手に動き出していた。この物語の中の「私」はキーボードではなく、ペンを握っている。目の前にはいつの間にか白い原稿用紙が広がっていた。 私は恐怖に震えながらもペンを走らせずにはいられなかった。意思に反して書かれていく文章は今の私自身の状況を描写したものだった。「私はペンを走らせている。しかし、それは私の意思ではない。まるで何者かに操られているかのように……」 その文章を目にした瞬間、私自身の背後に20の影が現れた。 振り返るとそこには先ほど読んだ20の物語の主人公たちが立っていた。
 むねひろさん、死神に騙された落語家、溶け続ける人々、山奥の料理店の店主……彼らは皆、口々に語りかけてきた。
「君も、もう私たちの仲間なんだ」
「物語は永遠に続くよ」
「新たな『恐塊』の一部となるんだ」
 私は叫び声を上げようとしたが、声が出ない。私の声の代わりに持っていたペンが紙上を滑っていく。
「私は叫び声を上げようとしたが、声は出ない。私の声の代わりに持っていたペンが紙上を滑っていく……」
 現実と物語が完全に融合していた。
最終部
 現実と物語が完全に融合したと気づき、私は悟った。自分が物語の中に閉じ込められてしまったことに。そして、この物語が誰かに読まれ、新たな犠牲者を生み出すことも。もはやそれを止めることはできない。ペンは私の意思とは無関係に動き続ける。
 新たな恐怖の物語がここから始まろうとしていた。それは永遠に続いていく……気がつくと私は再び自分の部屋にいた。だが、何かが違う。
 壁には見たこともない模様が浮かび上がり、床からはかすかに息遣いが聞こえてくる。天井には得体の知れない影が蠢いている。その中で私は震える手に力を込めて机の上に置かれた原稿用紙を手に取った。
 そこには先ほどの出来事が克明に記されていた。読み進めたが、最後の一文だけがまだ書かれていないことに気づいた。私はおもむろにペンを取り、こう書いた。
【そして、新たな読者がこの物語を手に取る。】
  ペンを置いた時、部屋の空気が凍りついたように感じた。その凍てつく寒さのどこからか声が聞こえてきた。 「よく書けました。次はあなたの番ですね」 私はゆっくりと振り返る。そこには一枚の大きな鏡があった。近寄って鏡に映る私の姿を確認して、少し後ろへ下がる。明らかに"私"ではなかったから。
 髪は長く伸び、顔は蒼白で目は深く窪んでいる。その唇は不自然なほど赤く、まるで血に染まったかのようだ。 私は思わず後ずさりした。すると、鏡の中の"私"は一歩前に出てきた。そして真っ赤な唇を開く。
「怖がることはないですよ」
 鏡の中の"私"が言った。「あなたは今目の前のあなたを見ています」
 私は震える声で尋ねた。「あなたは……誰?」
 "私"は微笑む。その笑顔には底知れぬ闇が潜んでいるように感じられた。
「私は……あなた。そして、ここにいる全ての物語の登場人物でもあるの」
 その言葉とともに鏡の中の景色が変わり始める。変化する景色の"私"の後ろには、先ほど読んだ二十の物語の主人公たちが立っていた。
 むねひろさん、死神、溶け続ける人々、山奥の料理店の店主……彼らは皆、じっと私を見つめている。
「私たちは皆、『恐塊』という名の物語に囚われた存在」
 "私"は続けた。
「そして今、あなたも同じく囚われている」
 私は必死で現実を取り戻そうとしていた。
「これは夢だ。そうに違いない!」
 鏡の中の"私"は首を横に振った。
「夢ではないのです。これが新しい現実。あなたの書いた物語がこの世界を作り出したの」
 "私"がそういうと、私の周りの空間が歪み始めた。壁が溶け、床が波打ち、天井が呼吸を始める。その歪んだ空間の中央から二十の物語の世界が次々と現れ始めた。
 むねひろさんの家族が見えない存在と会話している。
 死神が新たな魂を求めてさまよっている。
 人々が溶け続けながらも永遠の苦痛に耐えている。
 山奥の料理店で得体知れない料理が振る舞われている…… それらの世界が重なり合い、混ざり合い、新たな恐怖の風景を作り出していく。
「さあ、物語を続けましょう」
 "私"が言った。
「あなたの筆でこの世界をさらに素晴らしいものにしましょう」
 私は抵抗しようとしたが、気づくと手にはペンを握っていた。そして目の前には無限に広がる原稿用紙……。
 ペンは動き始める。私自身とは無関係に。
「新たな恐怖が生まれる。それは読む者すべてを永遠へ縛り付ける」
 その文字が紙上へ刻まれると世界全体がさらに大きく歪んだ。その歪み続ける世界で私は悟った。
 自分自身が物語を生み出す存在であると同時にその物語へ飲み込まれる存在でもあることを。そして、この「恐塊」という名の循環から逃れることなど決してできないということも……。
 悟ったとて、私が握るペンは止まることなく動き続ける。物語は終わることなく続いていくということだ。
 この物語を読む新たな読者によって、また新しい呪いの物語が生み出されていくことだろう。
 あなたもこの物語を読み終えた読者の一人。
 あなたもこの「恐塊」の一部となったこと。
 それに気づいたあなたはペンを執るだろう。
 新しい恐怖という連なる鎖の中に加わる時。
 あなたの執筆する終わらぬ恐怖が塊となる。
 永遠へ続く物語の一部を恐塊に捧げ続ける。
 あなたが書き続けるその物語は誰の物なの?