「みなとー。持ち込みのを使ってくれって言ってたけど、このクーラーボックスか?」
「そうだよ。あっ、シーバスの卵巣だけは取っといて!」
「わかったよ。カラスミ作るんだろ? 湊作るの好きだったから、ふくさんに伝えとくよ」
厨房に向かった久志さんと右隣に座る旦那様がやり取りをしています。明るく話していて、それで私や、私のお父様やお母様と話されている時のような緊張感が感じられません。気を休められる存在だとはっきり伝わってきます。私で言う櫻さんのような存在なんだと思います。楽しそうな旦那様を見ていると、私も楽しくなってきます。
待つ間に、少し店内を見回してみます。外観通りに赤みがかった茶色の木々が、お洒落で温かみのある空間を演出しています。照明もLEDのはずですが、白熱球のような温かみを演出しています。休む、喧騒から離れると言うのに相応しい場所でしょう。座っている椅子も木製で統一されていますので、コンセプトがしっかりされています。
私が今まで行った店にはない、優しく馴染みやすい雰囲気です。厳かで格調高いものもいいですが、こう言ったお店も大好きになれそうです。
「椿ちゃん、気に入った?」
旦那様が優しく微笑みかけてきます。
「……はい。いいお店、ですね」
私は素直に答えました。褒め言葉が嫌な人はいないでしょうから。
「ならばよかったよ。卓也と久志にもちゃんと言っておくよ」
「どう言う事ですか?」
「僕が居た時はプレハブ小屋だったんだ。それを僕が抜けた後にどうするか二人を中心に考えて、去年今の形にしたんだ」
お二人の話ですが、旦那様はどこか誇らしげです。私はてっきり旦那様主導で昔からそうだったと思っていましたから、驚いています。これならば旦那様がお二人を優秀だと言うのも頷けます。
「二人は僕を凄いって言うけど、卓也も久志も十分凄いんだよね。同じ年齢でここまで自分の店を大きくできる人はそう居ない。今日は夕方まで貸切にしたけど、普段は一時間待ちがザラらしいからね」
「一時間も……! 私はそんなに並んだ経験がありませんので、とても気の長いように思います。それでも、人が来続けるのは、やはりいいお店だからだと思います」
「だよね。料理人さんも自分がいた頃の人が同じ時期に抜けたけど、ちゃんと代わりの人を自分達で見つけてきて、それで上手くやれているから本当に優秀なんだ。二人がいなかったら、今の僕はないんだ」
旦那様は少し顔を上に向けていました。思いを馳せているように感じます。
料理を作られるのは、久志さんと卓也さんではありませんが、楽しみになってきました。
少しだけ待っていると、白髪のふくよかなご老人が二つの料理が乗ったお皿を持ってきました。
「お待たせ致しました。クロダイのカルパッチョになります」
柔らかな紳士と言う表現が似合う声と、サーブで料理がテーブルに並べられます。クロダイの刺身と四等分にカットされたミニトマト、スプラウト、スライスされた玉ねぎに黄金色のドレッシングがかけられています。
高級で世間一般で言えばいいお店に連れて行ってもらった経験は幾度もあります。カルパッチョも何度も見たはずです。しかし、それに劣らない程の見た目です。ここまで綺麗であれば味もかなり期待できそうです。
箸置きに置かれた箸を使って、刺身をくるっと巻くように掴んで口に運びます。
衝撃の味でした。
食感は柔らかく、でも食べ応えを感じられるほど。旨味もマダイと遜色はないです。それ以上に、ドレッシングが絶品です。
ベースはオリーブオイルです。そこに酢、醤油、おそらく生姜がアクセントになっていてさっぱりと食べることができます。程よい塩加減、しょっぱさもあり、それを酸味と生姜の独特の辛味と風味がよくマッチしています。安い言葉と表現しかできないのが、とても申し訳なくなる程の味です。
味見た目ともに高級店と変わりありません。他の料理を食べていませんが、前菜のカルパッチョでこれです。間違いなく美味しいです。
これならば一時間以上並ぶのも無理はありません。ちらっと見たメニュー表に書かれていたお値段も私の感覚ではかなりお安いと感じますので、他の方にはかなりお得に感じるでしょう。
旦那様はうんうんと頷きながら食べています。美味しいと感じているのが伝わってきます。これはとてもいいお店に連れてきてもらえました。
もっと食べたくなる気持ちを抑えて、ゆっくりと品をちゃんと意識してカルパッチョを食べ切りました。
「椿ちゃん……、僕が居た頃より明らかに美味しすぎて困惑してるんだ……」
「いえ。私も想定していた数倍美味しいものでしたので、困惑しております……」
困惑という言葉を使いながらも次の料理を心の底から待っています。次の料理をこんなにも待ち望むのは初めてかもしれません。さあ次は何が来るのでしょうか。