五章 回顧 37
ー/ー
それから四年が流れ、ラジオでは戦争が、終わりを告げたことを放送していた。終わったといっても、生活が今すぐ変わるわけではなく、物や命が戻ってくることもない。ただただ失っただけなのだ。
「ちょっと、外歩かない?」落ち着いたある日、鶴子ちゃんと幸江ちゃんに誘われた。あてどなく歩いていると途中で弘君と会い、気がつくと海岸の石段に腰掛けていた。まるで目の前にたっちゃんが居て、私達を先導しているかのように思えた。
「僕、教員になるよ」弘君が突然、話し始めた。「吉川先生、戦死しちゃっただろ?僕、先生みたいになって、子供達に勉強を教えたいんだ」
「うん、弘君は優しいし、向いてると思う」幸江ちゃんはもう、虚ろな目ではなくなっていた。「きっといい先生になるよ」
幸江ちゃんの声は、少し震えているように聞こえた。先生、という言葉を聞いて、紗江ちゃんが学校に通う姿を私でも思い出したのだから、彼女にも確実に浮かんでいることだろう。
「本読んでたらさ、いい一節を見つけたんだ」
弘君の手には宮沢賢治の詩集があった。すらすらと、淀みなく読み上げる。
——諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか——
「この本読んでさ、たっちゃんのことを思い出したんだ。あいつにとってはこの詩のように、未来圏からの風を感じていたのかなって」喋れば喋るほど、弘君の声が震え、嗄れていく。「なのに、あんなことになっちまって。やりきれねぇよ」
弘君は途切れ途切れに話す。あの日彼は、用事があって先に帰っていたらしい。もし、自分がいたら、急いで防空壕に連れて行けたのかもしれない、と後悔しているのだ。悔やんでも悔やみきれない。それは私も同じだった。今でも思うことがある。私が探しに行っていれば、と。
「そんなこと言ったって、何も始まらないでしょ」私の気持ちを察したかのように、鶴子ちゃんが話し始める。「たっちゃんは今頃笑ってるよ。いつまでもめそめそ泣いてるもやしっ子だって。先生になるんでしょ。シャキッとしなさいよ」
「鶴子は、阿呆みたいに強い」弘君は笑いながら、目尻の涙を拭う。
「ふん」と鶴子は顔を背ける。鼻を、啜っている。「私はね、弁当屋をやるよ」
「弁当屋?」私と弘君は、素っ頓狂な声を上げてしまう。幸江ちゃんがくすくすと笑っている。
「この島は元に戻る途中でしょ。そしてどんどん、発展していく。働き手も必要になれば、当然、お昼も必要になる。そこで、弁当屋よ」鶴子ちゃんは得意げに腕を組む。「ね。幸江。私たちで島を発展させていくって決めたんだよね。あんたは、何するんだっけ?」
「私は、民宿をやるよ」
「どうして民宿を?」私と弘君は再び、同じ反応をする。
「鶴子ちゃんの言った通り、この島は今、何もないでしょう。まっさらで、真っ白でしょう。その中で島の人達がゆっくり休める場所を作りたいの。その日一日を、大切に過ごしてもらいたい。名前は、決めてるの」
「どんな名前なの?」私が訊ねる。
「『彩』だよ」
先程と違い、幸江ちゃんの声は震えていなかった。堂々とした、力強さを感じさせる。
「私だけじゃない。みんな、辛い思いを、沢山したでしょう。そんな人生の中の、小さな彩りになって欲しい。だから『彩』にするの」
「『彩』」私はぽつりと呟く。『これからの成長を見守るのが楽しみなの』そう話す幸江ちゃんの目は輝いていた。そして紗江ちゃんを亡くした時、彼女はそれこそ虚ろで、色の失った目をしていた。
私は今目の前の幸江ちゃんを見る。目の奥に少しの憂を感じるが、輝きを取り戻していた。しっかり前を、見据えていた。
「願いが込められた、とても素敵な、名前だと思う」私は思わず、拍手をしてしまう。周りの幸せを願うことができる、心優しい幸江ちゃんらしいきっかけだった。
「幸江とね、話したんだ。えっちゃんに伝えようって。そしたら、なぜか弘もいるんだけどね」鶴子ちゃんは苦笑する。「どうやら教員目指すらしいし、ちょうどよかったよ」
弘君が小さく笑い、頭を掻く。私は祝う気持ちと同時に、彼、彼女らが自分の道を切り拓いていることに、焦りを感じていた。私だけ何も決まってない、と。浮かない顔をしていたのだろう。幸江ちゃんが声をかけてきた。
「大丈夫。焦らなくていいんだよ」
「え?」私は俯いていた顔を上げ、ハッとする。幸江ちゃんは涙を堪えていた。
「たっちゃんのこと、すぐには乗り越えられないよね。私も、同じだよ。紗江はね、栄養失調だったの。日に日に痩せ細ってさ、元気がなくなっていくの。どれだけ、苦しかったんだろうね。私が、代わってあげたいって、何度も思ったよ」
私はそこで、思い違いをしていたことに気づく。幸江ちゃんは乗り越えてなどいないのだ、と。そもそも乗り越えるものではない。ただ、事実を受け入れ、その上で、彼女は前を向いたのだ。
「最近になって、ようやく、思えるようになったの。紗江の分も生きよう、生きなきゃ、って」
「私も、同じ気持ちだよ」あの日、紗江ちゃんが私の指を精一杯の力で握ってくれたから、今を生きることができているのだ。
「もし、もしだよ。これからえっちゃんがまた誰かを好きになって、子供が産まれたら、その子をうんと、幸せにしてあげて。『お母ちゃんうるさい』って言われるくらいにさ」幸江ちゃんはこぼれ落ちた涙を拭い、満面の笑みを浮かべている。「その子がまた、次の誰かの縁に繋がるの。素敵だと思わない?」
「うん」私は頷いた。「そうなればこの島はもっと、素敵な場所になると思う」
「その子が小学生に上がる頃には、弘が教えているのかもしれないよ」鶴子ちゃんは弘君の背中を叩く。
「たっちゃんみたいな悪餓鬼は勘弁してくれよ」弘君が呻くように言うので私達は噴き出してしまう。
上を向くと、雲一つない、折り紙のような青が空には広がっていた。目を落とすと海は太陽の光を反射させて、きらきらと輝いている。私は眩しさに目を細めると一瞬、砂浜にたっちゃんの後ろ姿が見えたような気がした。
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「ちょっと、外歩かない?」落ち着いたある日、鶴子ちゃんと幸江ちゃんに誘われた。あてどなく歩いていると途中で弘君と会い、気がつくと海岸の石段に腰掛けていた。まるで目の前にたっちゃんが居て、私達を先導しているかのように思えた。
「僕、教員になるよ」弘君が突然、話し始めた。「吉川先生、戦死しちゃっただろ?僕、先生みたいになって、子供達に勉強を教えたいんだ」
「うん、弘君は優しいし、向いてると思う」幸江ちゃんはもう、虚ろな目ではなくなっていた。「きっといい先生になるよ」
幸江ちゃんの声は、少し震えているように聞こえた。先生、という言葉を聞いて、紗江ちゃんが学校に通う姿を私でも思い出したのだから、彼女にも確実に浮かんでいることだろう。
「本読んでたらさ、いい一節を見つけたんだ」
弘君の手には宮沢賢治の詩集があった。すらすらと、淀みなく読み上げる。
——諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか——
「この本読んでさ、たっちゃんのことを思い出したんだ。あいつにとってはこの詩のように、未来圏からの風を感じていたのかなって」喋れば喋るほど、弘君の声が震え、|嗄《しわが》れていく。「なのに、あんなことになっちまって。やりきれねぇよ」
弘君は途切れ途切れに話す。あの日彼は、用事があって先に帰っていたらしい。もし、自分がいたら、急いで防空壕に連れて行けたのかもしれない、と後悔しているのだ。悔やんでも悔やみきれない。それは私も同じだった。今でも思うことがある。私が探しに行っていれば、と。
「そんなこと言ったって、何も始まらないでしょ」私の気持ちを察したかのように、鶴子ちゃんが話し始める。「たっちゃんは今頃笑ってるよ。いつまでもめそめそ泣いてるもやしっ子だって。先生になるんでしょ。シャキッとしなさいよ」
「鶴子は、阿呆みたいに強い」弘君は笑いながら、目尻の涙を拭う。
「ふん」と鶴子は顔を背ける。鼻を、啜っている。「私はね、弁当屋をやるよ」
「弁当屋?」私と弘君は、素っ頓狂な声を上げてしまう。幸江ちゃんがくすくすと笑っている。
「この島は元に戻る途中でしょ。そしてどんどん、発展していく。働き手も必要になれば、当然、お昼も必要になる。そこで、弁当屋よ」鶴子ちゃんは得意げに腕を組む。「ね。幸江。私たちで島を発展させていくって決めたんだよね。あんたは、何するんだっけ?」
「私は、民宿をやるよ」
「どうして民宿を?」私と弘君は再び、同じ反応をする。
「鶴子ちゃんの言った通り、この島は今、何もないでしょう。まっさらで、真っ白でしょう。その中で島の人達がゆっくり休める場所を作りたいの。その日一日を、大切に過ごしてもらいたい。名前は、決めてるの」
「どんな名前なの?」私が訊ねる。
「『|彩《あや》』だよ」
先程と違い、幸江ちゃんの声は震えていなかった。堂々とした、力強さを感じさせる。
「私だけじゃない。みんな、辛い思いを、沢山したでしょう。そんな人生の中の、小さな彩りになって欲しい。だから『彩』にするの」
「『彩』」私はぽつりと呟く。『これからの成長を見守るのが楽しみなの』そう話す幸江ちゃんの目は輝いていた。そして紗江ちゃんを亡くした時、彼女はそれこそ虚ろで、色の失った目をしていた。
私は今目の前の幸江ちゃんを見る。目の奥に少しの|憂《うれい》を感じるが、輝きを取り戻していた。しっかり前を、見据えていた。
「願いが込められた、とても素敵な、名前だと思う」私は思わず、拍手をしてしまう。周りの幸せを願うことができる、心優しい幸江ちゃんらしいきっかけだった。
「幸江とね、話したんだ。えっちゃんに伝えようって。そしたら、なぜか弘もいるんだけどね」鶴子ちゃんは苦笑する。「どうやら教員目指すらしいし、ちょうどよかったよ」
弘君が小さく笑い、頭を掻く。私は祝う気持ちと同時に、彼、彼女らが自分の道を切り拓いていることに、焦りを感じていた。私だけ何も決まってない、と。浮かない顔をしていたのだろう。幸江ちゃんが声をかけてきた。
「大丈夫。焦らなくていいんだよ」
「え?」私は俯いていた顔を上げ、ハッとする。幸江ちゃんは涙を堪えていた。
「たっちゃんのこと、すぐには乗り越えられないよね。私も、同じだよ。紗江はね、栄養失調だったの。日に日に痩せ細ってさ、元気がなくなっていくの。どれだけ、苦しかったんだろうね。私が、代わってあげたいって、何度も思ったよ」
私はそこで、思い違いをしていたことに気づく。幸江ちゃんは乗り越えてなどいないのだ、と。そもそも乗り越えるものではない。ただ、事実を受け入れ、その上で、彼女は前を向いたのだ。
「最近になって、ようやく、思えるようになったの。紗江の分も生きよう、生きなきゃ、って」
「私も、同じ気持ちだよ」あの日、紗江ちゃんが私の指を精一杯の力で握ってくれたから、今を生きることができているのだ。
「もし、もしだよ。これからえっちゃんがまた誰かを好きになって、子供が産まれたら、その子をうんと、幸せにしてあげて。『お母ちゃんうるさい』って言われるくらいにさ」幸江ちゃんはこぼれ落ちた涙を拭い、満面の笑みを浮かべている。「その子がまた、次の誰かの縁に繋がるの。素敵だと思わない?」
「うん」私は頷いた。「そうなればこの島はもっと、素敵な場所になると思う」
「その子が小学生に上がる頃には、弘が教えているのかもしれないよ」鶴子ちゃんは弘君の背中を叩く。
「たっちゃんみたいな悪餓鬼は勘弁してくれよ」弘君が呻くように言うので私達は噴き出してしまう。
上を向くと、雲一つない、折り紙のような青が空には広がっていた。目を落とすと海は太陽の光を反射させて、きらきらと輝いている。私は眩しさに目を細めると一瞬、砂浜にたっちゃんの後ろ姿が見えたような気がした。