五章 回顧 36
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それから私達は避難所で生活することになり、遺体安置所には次々と人が並べられた。行こうとすると、母に強く止められた。「見るもんじゃない」と。
しかし私は居ても立ってもいられなくなり、母がいない隙を狙って、見に行ったことがある。まず、何かが腐ったような匂いが鼻をついた。黒い何かが飛んでいる。よく見ると、蝿だった。その時点で、引き返すべきだったのだ。しかし歩みを進めてしまう。私は目の前の光景に、目を背け、その場から走り出した。迫り上がってくるものを必死で抑えるが、目に焼きついた光景が流れてきて、道端で嘔吐する。手や足、頭が欠けていたり、焼け爛れて顔がわからない人もいた。そんな異様な空間の中で、生き残った人達は身内を探し、死んだ目で彷徨っていた。生きているのに、死んでいるようだった。
手足が震え、立ち上がることができなかった。道端で蹲っていると優しく、背中に手が置かれた。振り返ると、たっちゃんの母親だった。頬がこけ、目元が涙の跡で赤く腫れている、どれほど、泣いたのだろう。そういえば彷徨う人達の中に、いたような気がする。彼女は何かを大事そうに持っていた。静かに口を開き、名前を呼ばれる。
「えっちゃん」
「なんですか?」
「たっちゃんと遊んでくれて、ありがとね」
その瞬間、私の胸にぽっかりと穴が空いた。その穴に、風が通る気がした。ただただ、涙が溢れてくる。私は何も言えずに、嗚咽することしかできなかった。
「たっちゃんがね、これを持っていたの」彼女は握りしめていたものを差し出した。それは、目をギュッと閉じるたっちゃんと、驚いて目を見開いた私の写真だった。「見当たらないと思ったら、あの子が肌身話さず持ち歩いてたのね。通りで見つからないわけよ。よっぽど、大切だったんでしょうね」
その写真は持ち出す暇もなく家を出たため、私の分は家と一緒に燃えてしまっていた。つまり、最後の一枚だ。たっちゃんはいなくても、まだそこに、生きていた。涙が、込み上げてくる。空を見ると、雲一つない青空で、私は恨めしい気持ちになった。人々が苦しもうと、どこ吹く風だ。変わらずに空は晴れるし、山はそこに在る。海も流れを止めることなく、さざなみを静かに響かせている。
「えっちゃん。あの子を忘れないであげて」彼女は写真を差し出してくる。
「え?でも」
「きっとあの子も、その方が喜ぶはずだから」彼女は言い終わる前に、その場で崩れ落ちた。
私は受け取り、写真に目を向ける。小さく笑ってしまい、更に涙が溢れた。「鼻垂らして、えっちゃん、ぶっさいくだなあ」そんなたっちゃんの声が、聞こえたような気がした。
困窮した生活は続き、満足したご飯にありつけることは殆どなかった。育ち盛りの私は飢えに苦しんだ。近所で五歳の男の子が柿を食べるために木登りをしたところ滑り落ち、頭を打ちつけて亡くなった話を聞いた。どれほどお腹が空いていたのだろう。他人事とは思えず、想像するだけで胸が痛かった。
男の子の話を聞いていたはずなのに、実際に同じ状況に陥ると、飢えには抗えない。私は目の前の柿の木に、釘付けになっていた。
散歩していた私は偶然、実った柿を見つけたのだ。石を投げつけたが落ちてこない。動けば動くほど、お腹が鳴る。生き残るために、なりふり構っていられなかったのだろう。気がつくと木に登ろうとし、手をかけるところだった。その時、男の怒鳴り声が響き渡り、私は心臓が飛び出しそうになる。上まで登っていたら、間違いなく落下していただろう。
「何をやっとるんじゃ!」
おじいさんだった。年齢を感じさせず、辺りに響き渡る声だった。ああ、おじいさんだ。私はそのようなことを呑気に考える。飢えと驚きで、頭が働かなかったのだ。正気を取り戻したのは襟首を掴まれ、引きずられている時だった。自身のみっともなさと、罪悪感で、涙が溢れてくる。必死に身を捩り抵抗するが、抜け出すことはできなかった。私は泣きながら謝る。ごめんなさい、ごめんなさい、と。しかしおじいさんの手は緩まず、無情にもぴしゃり、と戸が閉められた。
ようやく襟首から手が離されたが、苦しくて私は咳き込んでしまう。
「上がんなさい」
優しい女性の声が響き、私は振り返る。部屋の中央には囲炉裏があり、その奥でおばあさんが柔和な笑みを浮かべていた。
戸惑う私をよそに、促すように背中を押された。恐る恐るおじいさんを見ると、眉を下げ、申し訳なさそうな表情を浮かべている。
私は座敷に上がると、おばあさんは頭を下げた。「ごめんなさい。怖かったでしょう。本当は子供達みんなにご飯を分けてあげたいけど、蓄えには限りがある」
おじいさんも座敷に上がり、おばあさんの隣に座る。「だから主人と話したの。柿を盗むくらい飢えている子には、手を差し伸べようって」
「それで、周りに聞こえるくらい、あれほどの大声で叫んでいたんですか?」私が聞くとおじいさんはこくりと頷いた。
「そうすれば、恐れて柿を取る人は減るし、本当に飢えている子が分かると思ってな」おじいさんは頭を下げる。「ただ、怖かったよな。すまなかった」
老夫婦が苦しげに眉根に皺を寄せる。それだけで二人がどれだけのものを失ってきたのか想像することができた。おばあさんは囲炉裏に吊るしてある鍋に白米と水を入れ、ご飯の支度を始めている。「辛いことがいっぱい、あったでしょう。ここでは嫌なことを忘れて、ゆっくりしていきなさい」
おばあさんが木製の鍋の蓋を開けると、私は一瞬、老夫婦の姿を見失った。それ程の湯気が一気に立ち上ったのだ。私はごくりと生唾を飲み込んでしまう。鍋には一粒一粒のお米が、艶々と輝いていた。
「はい、どうぞ」おばあさんがご飯をよそい、茶碗を差し出してくる。体の底から空腹が一気に押し寄せ、お腹が鳴った。私は受け取ろうとしたところで、手を引っ込めてしまう。老夫婦の貴重な白米を食べることに、罪悪感が湧き上がってきたのだ。
「おばあさんたちの大切なご飯なのに、私が食べるのは、申し訳ないよ」加えて、母の姿も浮かんでいた。
「いいから食べなさい」おばあさんは声を落とし、般若のような顔で茶碗を突き出した。「子供が遠慮してどうするの。沢山食べなさい」
私は茶碗を受け取ると、一気に掻き込んだ。白米は大好きだが、どうしても父と過ごした最後の夜を思い出してしまう、込み上げるものを押さえ込むが、止められなかった。この時のしょっぱいご飯の味は、一生忘れることができないだろう。私はあっという間に平げた。おばあさんはにっこりと微笑んでいる。
「おかわりは?」
私は「お腹いっぱい」と断ろうとしたが、すぐに般若の顔を思い出す。おばあさんの顔を見て、茶碗を突き出した。
「おかわり!」
満腹感に包まれるのは本当に久しぶりだった。寝転ぶと全身が、ぽかぽかとした幸福感に包まれる。「おばあさん、ありがとう」
鍋の白米は空っぽだ。私が全部、平らげてしまったのだ。
「いいんだよ。しっかり食べてくれて安心したよ」おばあさんは嫌な顔をするどころか、にこにこと幸せそうな表情を浮かべている。「ね、あんた。嫌われ役を買って出た甲斐があったねえ」
「ああ、そうだな」おじいさんも同じように柔らかい表情だ。怒鳴られた時と同じ人だとは、思えなかった。それ程に、無理をしていたのだろう。
突然、おばあさんは身体を折り、おいおいと泣き始めた。「あなたは、悪くないんだからね。柿を盗もうとした自分を、どうか責めないであげて。ただ、生きようとしただけなんだから」
私はこくりこくりと頷いた。その優しさに、救われた気持ちになる。おじいさんはおばあさんの背中に手を添え、優しくさすっていた。
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それから私達は避難所で生活することになり、遺体安置所には次々と人が《《並べられた》》。行こうとすると、母に強く止められた。「見るもんじゃない」と。
しかし私は居ても立ってもいられなくなり、母がいない隙を狙って、見に行ったことがある。まず、何かが腐ったような匂いが鼻をついた。黒い何かが飛んでいる。よく見ると、|蝿《はえ》だった。その時点で、引き返すべきだったのだ。しかし歩みを進めてしまう。私は目の前の光景に、目を背け、その場から走り出した。迫り上がってくるものを必死で抑えるが、目に焼きついた光景が流れてきて、道端で嘔吐する。手や足、頭が欠けていたり、焼け爛れて顔がわからない人もいた。そんな異様な空間の中で、生き残った人達は身内を探し、死んだ目で|彷徨《さまよ》っていた。生きているのに、死んでいるようだった。
手足が震え、立ち上がることができなかった。道端で|蹲《うずくま》っていると優しく、背中に手が置かれた。振り返ると、たっちゃんの母親だった。頬がこけ、目元が涙の跡で赤く腫れている、どれほど、泣いたのだろう。そういえば彷徨う人達の中に、いたような気がする。彼女は何かを大事そうに持っていた。静かに口を開き、名前を呼ばれる。
「えっちゃん」
「なんですか?」
「たっちゃんと遊んでくれて、ありがとね」
その瞬間、私の胸にぽっかりと穴が空いた。その穴に、風が通る気がした。ただただ、涙が溢れてくる。私は何も言えずに、嗚咽することしかできなかった。
「たっちゃんがね、これを持っていたの」彼女は握りしめていたものを差し出した。それは、目をギュッと閉じるたっちゃんと、驚いて目を見開いた私の写真だった。「見当たらないと思ったら、あの子が肌身話さず持ち歩いてたのね。通りで見つからないわけよ。よっぽど、大切だったんでしょうね」
その写真は持ち出す暇もなく家を出たため、私の分は家と一緒に燃えてしまっていた。つまり、最後の一枚だ。たっちゃんはいなくても、まだそこに、生きていた。涙が、込み上げてくる。空を見ると、雲一つない青空で、私は恨めしい気持ちになった。人々が苦しもうと、どこ吹く風だ。変わらずに空は晴れるし、山はそこに在る。海も流れを止めることなく、さざなみを静かに響かせている。
「えっちゃん。あの子を忘れないであげて」彼女は写真を差し出してくる。
「え?でも」
「きっとあの子も、その方が喜ぶはずだから」彼女は言い終わる前に、その場で崩れ落ちた。
私は受け取り、写真に目を向ける。小さく笑ってしまい、更に涙が溢れた。「鼻垂らして、えっちゃん、ぶっさいくだなあ」そんなたっちゃんの声が、聞こえたような気がした。
困窮した生活は続き、満足したご飯にありつけることは殆どなかった。育ち盛りの私は飢えに苦しんだ。近所で五歳の男の子が柿を食べるために木登りをしたところ滑り落ち、頭を打ちつけて亡くなった話を聞いた。どれほどお腹が空いていたのだろう。他人事とは思えず、想像するだけで胸が痛かった。
男の子の話を聞いていたはずなのに、実際に同じ状況に陥ると、飢えには抗えない。私は目の前の柿の木に、釘付けになっていた。
散歩していた私は偶然、実った柿を見つけたのだ。石を投げつけたが落ちてこない。動けば動くほど、お腹が鳴る。生き残るために、なりふり構っていられなかったのだろう。気がつくと木に登ろうとし、手をかけるところだった。その時、男の怒鳴り声が響き渡り、私は心臓が飛び出しそうになる。上まで登っていたら、間違いなく落下していただろう。
「何をやっとるんじゃ!」
おじいさんだった。年齢を感じさせず、辺りに響き渡る声だった。ああ、おじいさんだ。私はそのようなことを呑気に考える。飢えと驚きで、頭が働かなかったのだ。正気を取り戻したのは襟首を掴まれ、引きずられている時だった。自身のみっともなさと、罪悪感で、涙が溢れてくる。必死に身を|捩《よじ》り抵抗するが、抜け出すことはできなかった。私は泣きながら謝る。ごめんなさい、ごめんなさい、と。しかしおじいさんの手は緩まず、無情にもぴしゃり、と戸が閉められた。
ようやく襟首から手が離されたが、苦しくて私は咳き込んでしまう。
「上がんなさい」
優しい女性の声が響き、私は振り返る。部屋の中央には|囲炉裏《いろり》があり、その奥でおばあさんが柔和な笑みを浮かべていた。
戸惑う私をよそに、促すように背中を押された。恐る恐るおじいさんを見ると、眉を下げ、申し訳なさそうな表情を浮かべている。
私は座敷に上がると、おばあさんは頭を下げた。「ごめんなさい。怖かったでしょう。本当は子供達みんなにご飯を分けてあげたいけど、蓄えには限りがある」
おじいさんも座敷に上がり、おばあさんの隣に座る。「だから主人と話したの。柿を盗むくらい飢えている子には、手を差し伸べようって」
「それで、周りに聞こえるくらい、あれほどの大声で叫んでいたんですか?」私が聞くとおじいさんはこくりと頷いた。
「そうすれば、恐れて柿を取る人は減るし、本当に飢えている子が分かると思ってな」おじいさんは頭を下げる。「ただ、怖かったよな。すまなかった」
老夫婦が苦しげに眉根に皺を寄せる。それだけで二人がどれだけのものを失ってきたのか想像することができた。おばあさんは囲炉裏に吊るしてある鍋に白米と水を入れ、ご飯の支度を始めている。「辛いことがいっぱい、あったでしょう。ここでは嫌なことを忘れて、ゆっくりしていきなさい」
おばあさんが木製の鍋の蓋を開けると、私は一瞬、老夫婦の姿を見失った。それ程の湯気が一気に立ち|上《のぼ》ったのだ。私はごくりと生唾を飲み込んでしまう。鍋には一粒一粒のお米が、艶々と輝いていた。
「はい、どうぞ」おばあさんがご飯をよそい、茶碗を差し出してくる。体の底から空腹が一気に押し寄せ、お腹が鳴った。私は受け取ろうとしたところで、手を引っ込めてしまう。老夫婦の貴重な白米を食べることに、罪悪感が湧き上がってきたのだ。
「おばあさんたちの大切なご飯なのに、私が食べるのは、申し訳ないよ」加えて、母の姿も浮かんでいた。
「いいから食べなさい」おばあさんは声を落とし、|般若《はんにゃ》のような顔で茶碗を突き出した。「子供が遠慮してどうするの。沢山食べなさい」
私は茶碗を受け取ると、一気に掻き込んだ。白米は大好きだが、どうしても父と過ごした最後の夜を思い出してしまう、込み上げるものを押さえ込むが、止められなかった。この時のしょっぱいご飯の味は、一生忘れることができないだろう。私はあっという間に平げた。おばあさんはにっこりと微笑んでいる。
「おかわりは?」
私は「お腹いっぱい」と断ろうとしたが、すぐに般若の顔を思い出す。おばあさんの顔を見て、茶碗を突き出した。
「おかわり!」
満腹感に包まれるのは本当に久しぶりだった。寝転ぶと全身が、ぽかぽかとした幸福感に包まれる。「おばあさん、ありがとう」
鍋の白米は空っぽだ。私が全部、平らげてしまったのだ。
「いいんだよ。しっかり食べてくれて安心したよ」おばあさんは嫌な顔をするどころか、にこにこと幸せそうな表情を浮かべている。「ね、あんた。嫌われ役を買って出た甲斐があったねえ」
「ああ、そうだな」おじいさんも同じように柔らかい表情だ。怒鳴られた時と同じ人だとは、思えなかった。それ程に、無理をしていたのだろう。
突然、おばあさんは身体を折り、おいおいと泣き始めた。「あなたは、悪くないんだからね。柿を盗もうとした自分を、どうか責めないであげて。ただ、生きようとしただけなんだから」
私はこくりこくりと頷いた。その優しさに、救われた気持ちになる。おじいさんはおばあさんの背中に手を添え、優しくさすっていた。