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五章 回顧 35

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そして私達が小学五年生の頃に、戦争が始まった。食料が配給制になり、白米の量などは年齢によって決まっていた。国が管理し、戦地や軍事施設に優先的に送られていたので、庶民の手に渡る量は限られている。離島のため、配給が遅れるのも日常茶飯事だった。闇市では白米が高値で取引されている時代で、庶民の貧しい生活が更に困窮した。贅沢することは敵だ。そのような空気が島全体に漂っていた。
 世の中が変わっても、日常は続いていく。戦況がラジオで放送されていたが、どこか遠い出来事のようで実感が湧かなかったのだ。そんな矢先、赤い札が、我が家にもやってきた。
 その日、私が学校から帰ると、母は茫然自失といった様子だった。「お母さん、どうしたの?」と口を開きかけて私は気づく。手には赤い札が握られていたのである。
 母は私の姿に気づくとゆっくりと頷いた。「悦子、今日は白米でお祝いしようか」
 その頃、白米は貴重で、麦飯と混ぜて食べるのが当たり前だった。白米のみで食べるのはお祝い事の時ぐらいである。国では戦地に向かうことを喜ぶべき尊いこと、と声高々に叫ばれているが、一家族にとっては悲劇でしかないのだ。大っぴらに反対をすれば、非国民として扱われてしまう。そのような時代だったのだ。
「お父さん、行っちゃうの?」
 母は問いには答えずに無言で私を抱き寄せた。着古(きふる)した服の匂いと、私の顔に母からこぼれ落ちたであろう涙が流れてくる。「辛いだろうけど、笑顔で、見送ろうね」
 母の声は震えていた。背中に回された腕がより強く、私を抱き締める。ふと頭の中に紗江ちゃんが浮かんできて、私も涙が止まらなくなった。
 その夜、赤い紙を確認した父の反応は、今でも覚えている。父は一瞬動揺し、眉を上げた後で、ゆっくりと目を閉じた。それは見えない何かに祈るような表情だった。長く息を吐いた後で、目を開けると父は力なく笑った。同じ笑うでも、母に小言を言われた時とは違う。抗わず、全てを受け入れた表情だった。人はどうしようもない時に、笑うのだ。
 私は母の言いつけを守り、父と同じように笑った。私は口を開かなかった。開けば、こぼれた水のように、泣き言が止まらないと分かっていたからである。母は空気を変えるように、すくっと立ち上がった。「さ、ご飯にしましょ。今日は白米なんだから」
 いくら悲しんでいても身体は正直だ。ご飯を目の前にすれば当然お腹は鳴る。父は美味しい美味しい、と呟きながらを頬張り、「母さん、お代わり」と茶碗を突き出していた。母は嬉しそうに茶碗を受け取り、父は私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。お酒が入っていたからだろう。「悦子もいっぱい食べるんだぞ」と笑う姿はまるで子供のようだった。
「じゃあ、行ってくる。必ず戻ってくるから、悦子も元気にしてるんだぞ」
 翌日、父は軽く言うと、そのまま家を出て行った。まるでいつもの仕事に行くのではないか、そう錯覚してしまうほどだったが現実に引き戻される。父の目元が赤く、腫れ上がっていたからだ。
 その日から示しを合わせたかのように、大人の男達が一人、また一人と姿を消していく。それは吉川先生も例外ではなかった。
 校庭で全校生徒が集まり、先生を見送った。特に男子生徒達が応援するように大きな声を上げている。たっちゃんもその一人だった。
 吉川先生が壇上で何を話していたのかは覚えていない。しかし予想はつく。命をこの国のために、などと話していたのだろう。唯一覚えているのは、力なく笑った表情が、父と重なっていたことだっった。
 父は父親として、吉川先生は先生として、本音を表に出さずに島の外。つまり戦地へと向かった。何一つ変わらない、同じ人間のはずなのに。そして二人の訃報を通知書で知った。実際に遺体と対面したわけではないので、実感が湧かず、私は泣くことはできなかった。それ以上にのうのうと生きている自分自身が申し訳なく感じてしまうほどだった。
 その気持ちは私だけではなかった。通学のため、いつものように幸江ちゃんの家に向かうと、彼女は(うつろ)な表情でふらふらと姿を現したのだ。私は全てを察し口を噤み、鶴子ちゃんは声をかける。
「幸江ちゃん、どうしたの?」
「……が……ちゃった」
 幸江ちゃんがぼそぼそと力なく話すので、上手く聞き取ることはできなかった。
「え?」
「紗江が、亡くなったの」幸江ちゃんはその場で崩れ落ち、人目も(はば)らずに泣き始めた。「どうして、私が生きてるの。紗江と、変わってあげたかった」
 鶴子ちゃんは「そんな……どうして」と呟いている。
 ふと、家の中を覗き込むと幸江の母親が何かを抱き、俯いているのが目に入る。幸江ちゃんの家も例外なく、父親が招集されていた。紗江ちゃんに慈しむような目を向けていた姿とは似ても似つかなかった。立て続けに身内を失い、疲れ切った表情が、そこにはあった。きっと私も、同じ表情をしているのだろう。誰かを失うのが日常になり、泣くことができなくなっていた。心が、麻痺しているのだ。
 私はただ茫然と、立ち尽くす。目の前に映る光景を、眺めることしかできなかった。
 
 もし、『飲めば楽に死ねる薬』なんてものが目の前にあれば、私は迷わずに飲んでいたことだろう。その日、学校の帰った私は家の手伝いをしながら、そのようなことを考えていた。それほどまでに、思い詰めていたのだ。
 突然、島中に警報のサイレンが鳴り響いた。不安を煽り、身体の底から恐怖心が湧き上がるような音である。最低限の持ち出し袋を持った母に手を引かれ、家を出る。出た瞬間に、飛び出してきた人影とぶつかり私は尻餅をついてしまう。
「えっちゃん、ごめんね。大丈夫?」たっちゃんの母親が手を伸ばしてくる。その表情は泡を食ったように慌てていた。「ねえ、たっちゃんを見てないかしら?」
 私が帰宅をしてから一時間が経っており、普段通りであれば辺りで遊んでいるかもしれない。そのことを伝えると、たっちゃんの母親は頭を抑え、その場で崩れ落ちそうになる。「早く帰ってこいとあれほど言ってるのに、あの子は……」
「探してくるよ」どこで遊んでいるのかは見当がついていたし、私自身、心配だった。「心当たりがある」
「馬鹿おっしゃい。今は自分の身を守るのが優先なのよ」母が怒鳴り、えっちゃんの母親にも目を向ける。「さあ、お母様も行きましょう。あの子は(たくま)しいですから、近くの防空壕に逃げ込んでますよ」
「でも、でも……」
 狼狽(うろ)える彼女に対し、母は一喝した。私はビクッと肩を竦めてしまう。
「でもじゃないでしょう。もしこのまま入れ違いになって、あの子が母親の死を知ったらどうするの?私達は今、信じて待つ。それしかできないのよ」母は金切声を上げたが、その声は途中から、掠れていた。 
 そのような問答をしている間にも、サイレンは鳴り続け、島の人々は走り回っている。心なしか、サイレンの音が大きくなっているように感じられた。母を見ると、頬に一筋の涙の跡が流れていることに気づく。母が感情を露わにするのは、久しぶりだった。父を失って以来、抜け殻のように放心状態となっていたからだ。繋いだ手が、震えている。私は込み上げるものを感じ、たっちゃんの母親に駆け寄って背中を叩く。「行こう。たっちゃんは大丈夫だから」
 尚も拒む彼女を私と母で引き連れて防空壕へ辿り着く。中に入ると、洞穴の中に既に人がひしめき合っており、身を寄せ、祈っていた。私達も同じように、身を屈め、祈る。
 外からは戦闘機のエンジン音が聞こえてくる。蜂の大群が、羽音を響かせているようだった。相手が蜂ではなく、同じ人間同士で争っているのは、信じられなかった。やがて、身体の底から突き上げる轟音が響き、防空壕の中が揺れる。私達は悲鳴を上げ、更に身を屈めた。母に抱きすくめられ、私は顔を上げる。
「大丈夫。大丈夫だから。たっちゃんは無事、帰ってくる」母は自分自身に言い聞かせるように、呟いていた。
 こくりと私は無言で頷き、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
 先ほどの母の鬼気迫る表情を見て、私は冷めていた感情を取り戻していた。死が間近に迫り、命が脅かされているこの状況で私は『生きたい』と必死に願っていた。
 人は(えん)で、できている。紗江ちゃんの、生命力が満ち溢れんばかりの姿を思い出す。人は、一人で生きているのではない。誰かが大切に育ててくれたから、今を生きていられるのだ。一人で生きてはいけないからこそ、助け合うのだ。それが、次の世代へと繋がっていく。今目の前で起こっていることは、繋がるはずだった縁を強引に断ち切るようなものだった。
 永遠とも思える時間が過ぎ、防空壕から出ると、辺り一帯が焼け野原になっていた。木造の家は燃え上がり、火花を散らしている。私達は広がる目の前に光景に、立ち尽くすことしかできなかった。母が私の手を力強く握る。「ここから、これからよ」前向きな言葉と裏腹に、声は震え、大量の涙が流れていた。


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そして私達が小学五年生の頃に、戦争が始まった。食料が配給制になり、白米の量などは年齢によって決まっていた。国が管理し、戦地や軍事施設に優先的に送られていたので、庶民の手に渡る量は限られている。離島のため、配給が遅れるのも日常茶飯事だった。闇市では白米が高値で取引されている時代で、庶民の貧しい生活が更に困窮した。贅沢することは敵だ。そのような空気が島全体に漂っていた。
 世の中が変わっても、日常は続いていく。戦況がラジオで放送されていたが、どこか遠い出来事のようで実感が湧かなかったのだ。そんな矢先、赤い札が、我が家にもやってきた。
 その日、私が学校から帰ると、母は茫然自失といった様子だった。「お母さん、どうしたの?」と口を開きかけて私は気づく。手には赤い札が握られていたのである。
 母は私の姿に気づくとゆっくりと頷いた。「悦子、今日は白米でお祝いしようか」
 その頃、白米は貴重で、麦飯と混ぜて食べるのが当たり前だった。白米のみで食べるのはお祝い事の時ぐらいである。国では戦地に向かうことを喜ぶべき尊いこと、と声高々に叫ばれているが、一家族にとっては悲劇でしかないのだ。大っぴらに反対をすれば、非国民として扱われてしまう。そのような時代だったのだ。
「お父さん、行っちゃうの?」
 母は問いには答えずに無言で私を抱き寄せた。|着古《きふる》した服の匂いと、私の顔に母からこぼれ落ちたであろう涙が流れてくる。「辛いだろうけど、笑顔で、見送ろうね」
 母の声は震えていた。背中に回された腕がより強く、私を抱き締める。ふと頭の中に紗江ちゃんが浮かんできて、私も涙が止まらなくなった。
 その夜、赤い紙を確認した父の反応は、今でも覚えている。父は一瞬動揺し、眉を上げた後で、ゆっくりと目を閉じた。それは見えない何かに祈るような表情だった。長く息を吐いた後で、目を開けると父は力なく笑った。同じ笑うでも、母に小言を言われた時とは違う。抗わず、全てを受け入れた表情だった。人はどうしようもない時に、笑うのだ。
 私は母の言いつけを守り、父と同じように笑った。私は口を開かなかった。開けば、こぼれた水のように、泣き言が止まらないと分かっていたからである。母は空気を変えるように、すくっと立ち上がった。「さ、ご飯にしましょ。今日は白米なんだから」
 いくら悲しんでいても身体は正直だ。ご飯を目の前にすれば当然お腹は鳴る。父は美味しい美味しい、と呟きながらを頬張り、「母さん、お代わり」と茶碗を突き出していた。母は嬉しそうに茶碗を受け取り、父は私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。お酒が入っていたからだろう。「悦子もいっぱい食べるんだぞ」と笑う姿はまるで子供のようだった。
「じゃあ、行ってくる。必ず戻ってくるから、悦子も元気にしてるんだぞ」
 翌日、父は軽く言うと、そのまま家を出て行った。まるでいつもの仕事に行くのではないか、そう錯覚してしまうほどだったが現実に引き戻される。父の目元が赤く、腫れ上がっていたからだ。
 その日から示しを合わせたかのように、大人の男達が一人、また一人と姿を消していく。それは吉川先生も例外ではなかった。
 校庭で全校生徒が集まり、先生を見送った。特に男子生徒達が応援するように大きな声を上げている。たっちゃんもその一人だった。
 吉川先生が壇上で何を話していたのかは覚えていない。しかし予想はつく。命をこの国のために、などと話していたのだろう。唯一覚えているのは、力なく笑った表情が、父と重なっていたことだっった。
 父は父親として、吉川先生は先生として、本音を表に出さずに島の外。つまり戦地へと向かった。何一つ変わらない、同じ人間のはずなのに。そして二人の訃報を通知書で知った。実際に遺体と対面したわけではないので、実感が湧かず、私は泣くことはできなかった。それ以上にのうのうと生きている自分自身が申し訳なく感じてしまうほどだった。
 その気持ちは私だけではなかった。通学のため、いつものように幸江ちゃんの家に向かうと、彼女は|虚《うつろ》な表情でふらふらと姿を現したのだ。私は全てを察し口を噤み、鶴子ちゃんは声をかける。
「幸江ちゃん、どうしたの?」
「……が……ちゃった」
 幸江ちゃんがぼそぼそと力なく話すので、上手く聞き取ることはできなかった。
「え?」
「紗江が、亡くなったの」幸江ちゃんはその場で崩れ落ち、人目も|憚《はば》らずに泣き始めた。「どうして、私が生きてるの。紗江と、変わってあげたかった」
 鶴子ちゃんは「そんな……どうして」と呟いている。
 ふと、家の中を覗き込むと幸江の母親が何かを抱き、俯いているのが目に入る。幸江ちゃんの家も例外なく、父親が招集されていた。紗江ちゃんに慈しむような目を向けていた姿とは似ても似つかなかった。立て続けに身内を失い、疲れ切った表情が、そこにはあった。きっと私も、同じ表情をしているのだろう。誰かを失うのが日常になり、泣くことができなくなっていた。心が、麻痺しているのだ。
 私はただ茫然と、立ち尽くす。目の前に映る光景を、眺めることしかできなかった。
 もし、『飲めば楽に死ねる薬』なんてものが目の前にあれば、私は迷わずに飲んでいたことだろう。その日、学校の帰った私は家の手伝いをしながら、そのようなことを考えていた。それほどまでに、思い詰めていたのだ。
 突然、島中に警報のサイレンが鳴り響いた。不安を煽り、身体の底から恐怖心が湧き上がるような音である。最低限の持ち出し袋を持った母に手を引かれ、家を出る。出た瞬間に、飛び出してきた人影とぶつかり私は尻餅をついてしまう。
「えっちゃん、ごめんね。大丈夫?」たっちゃんの母親が手を伸ばしてくる。その表情は泡を食ったように慌てていた。「ねえ、たっちゃんを見てないかしら?」
 私が帰宅をしてから一時間が経っており、普段通りであれば辺りで遊んでいるかもしれない。そのことを伝えると、たっちゃんの母親は頭を抑え、その場で崩れ落ちそうになる。「早く帰ってこいとあれほど言ってるのに、あの子は……」
「探してくるよ」どこで遊んでいるのかは見当がついていたし、私自身、心配だった。「心当たりがある」
「馬鹿おっしゃい。今は自分の身を守るのが優先なのよ」母が怒鳴り、えっちゃんの母親にも目を向ける。「さあ、お母様も行きましょう。あの子は逞《たくま》しいですから、近くの防空壕に逃げ込んでますよ」
「でも、でも……」
 |狼狽《うろ》える彼女に対し、母は一喝した。私はビクッと肩を竦めてしまう。
「でもじゃないでしょう。もしこのまま入れ違いになって、あの子が母親の死を知ったらどうするの?私達は今、信じて待つ。それしかできないのよ」母は金切声を上げたが、その声は途中から、掠れていた。 
 そのような問答をしている間にも、サイレンは鳴り続け、島の人々は走り回っている。心なしか、サイレンの音が大きくなっているように感じられた。母を見ると、頬に一筋の涙の跡が流れていることに気づく。母が感情を露わにするのは、久しぶりだった。父を失って以来、抜け殻のように放心状態となっていたからだ。繋いだ手が、震えている。私は込み上げるものを感じ、たっちゃんの母親に駆け寄って背中を叩く。「行こう。たっちゃんは大丈夫だから」
 尚も拒む彼女を私と母で引き連れて防空壕へ辿り着く。中に入ると、洞穴の中に既に人がひしめき合っており、身を寄せ、祈っていた。私達も同じように、身を屈め、祈る。
 外からは戦闘機のエンジン音が聞こえてくる。蜂の大群が、羽音を響かせているようだった。相手が蜂ではなく、同じ人間同士で争っているのは、信じられなかった。やがて、身体の底から突き上げる轟音が響き、防空壕の中が揺れる。私達は悲鳴を上げ、更に身を屈めた。母に抱きすくめられ、私は顔を上げる。
「大丈夫。大丈夫だから。たっちゃんは無事、帰ってくる」母は自分自身に言い聞かせるように、呟いていた。
 こくりと私は無言で頷き、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
 先ほどの母の鬼気迫る表情を見て、私は冷めていた感情を取り戻していた。死が間近に迫り、命が脅かされているこの状況で私は『生きたい』と必死に願っていた。
 人は|縁《えん》で、できている。紗江ちゃんの、生命力が満ち溢れんばかりの姿を思い出す。人は、一人で生きているのではない。誰かが大切に育ててくれたから、今を生きていられるのだ。一人で生きてはいけないからこそ、助け合うのだ。それが、次の世代へと繋がっていく。今目の前で起こっていることは、繋がるはずだった縁を強引に断ち切るようなものだった。
 永遠とも思える時間が過ぎ、防空壕から出ると、辺り一帯が焼け野原になっていた。木造の家は燃え上がり、火花を散らしている。私達は広がる目の前に光景に、立ち尽くすことしかできなかった。母が私の手を力強く握る。「ここから、これからよ」前向きな言葉と裏腹に、声は震え、大量の涙が流れていた。