四章 友達 28
ー/ー
席に座ってしばらくすると、店員さんが、コーヒーと一緒にマフィンを持ってきた。ふんわりとした生地に、チョコチップが散りばめられている。ちなみにぼくはコーヒーが飲めないので、オレンジジュースだ。店内には眠くなるような、ゆっくりとした楽器の演奏が流れている。
「美味しそう」今日二回目のおやつに、ぼくは声を上げてしまう。同時に、ここにはいない幸登に対して、隠れて悪いことをしているような気分になる。
右隣には奈々姉ちゃんがマフィンの写真を撮り、左隣ではハルト兄ちゃんがノートを広げて何かを書き込んでいる。真面目そう、というより、苦しそうな顔をしていた。ぼくは考えてから奈々姉ちゃんの服の裾を掴む。
「ねえ。おうち帰ったらぼくのお小遣い渡すからさ、幸登のマフィンも買ってくれる?」
奈々姉ちゃんは驚いた表情を浮かべた後で、とびきりの笑顔を見せた。「うん!いいよ。そうしよう」
「どしたの?」ハルト兄ちゃんが勉強の手を止めて、聞いてくる。
「ぼくね、幸登が食べたがってたおやつを食べちゃって、泣かせちゃったの」ぼくは幸登の泣き顔を思い出し、下を向く。一緒に泣きたい気持ちになった。
「でも、そのおやつは幸登君も既に食べ終わってたんだよね」奈々姉ちゃんが付け足してくれる。「それで歩美……ママも幸登君の肩を持つもんだから、怒って家を出ちゃったのよ」
「で、散歩してる奈々姉とばったり会って、二人でいたわけか」なるほど、とハルト兄ちゃんは頷いた。「そっかあ。でも望睦はしっかり反省して、幸登にもマフィンを買ってあげようとしたのか。いいお兄ちゃんだな」
ハルト兄ちゃんの言葉に、顔を上げた。「ぼく、いいお兄ちゃんかな?幸登、怒ってないかな?」
「『いいお兄ちゃんかな?』って考えてる時点で、いいお兄ちゃんだよ」
よく分からなくて、首を傾げてしまう。ハルト兄ちゃんはたまに、難しいことを話すのだ。
「もう、望睦君が困ってるじゃない」奈々姉ちゃんは呆れ顔を浮かべる。
「名言っぽくて、かっこよくない?」ハルト兄ちゃんは眉を上げ、得意げな表情だ。
「かっこよくない」と奈々姉ちゃんはぴしゃりと言い放ち、ハルト兄ちゃんは残念そうに肩を落とす。「大丈夫。望睦君はいいお兄ちゃんよ。マフィン渡したら、幸登君も大喜びするはずよ」
どうしてだろう。お父さんやお母さんの励ましよりも、二人の言葉の方が、すとんと胸に落ちるのだ。頑張ろう、そういう感じの、温かい気持ちが湧いてくる。喜ぶ幸登の姿を想像して、ぼくは更に嬉しい気持ちになった。泣きそうな気持ちは、消えていた。
隣を見ると、ハルト兄ちゃんが慌ただしく勉強道具を片付け始めている。「帰るの?」とぼくが聞くと、「俺もいいお兄ちゃんになるんだ」と返された。意味が分からない。
「原稿作りはいいの?」奈々姉ちゃんが聞く。
「大丈夫。家でやるよ」
ハルト兄ちゃんは得意げに眉を上げ、胸を張った。「さあ、どん来なさい。今日はハルトお兄ちゃんが人生相談に乗ってやるぞ」
また始まった、と奈々姉ちゃんがため息をつく。「ハルト君、初めて会った時は可愛かったのに、どうしてこんなヘンテコな子に育っちゃったのかなあ」
「あの頃とは違うんですー」ハルト兄ちゃんが舌を出す。その様子が可笑しくて、ぼくは笑ってしまう。子供みたいだった。
「あの頃って、ハルト兄ちゃんは外に住んでたの?」
ぼくにとっては初めて会った日からハルト兄ちゃんはハルト兄ちゃんで、元々どこに住んでいたかなんて考えたこともなかった。生まれも育ちも、この島だと思っていたのだ。
「ハルト君はね。それこそ幸登君ぐらいの頃に、この島に遊びに来たの。その時に気に入ってしまって、駄々こねて、家族揃って移住することになったのよ」
あまりの話の大きさに、ぼくは「えっ?」と声を上げてしまう。しいーっ、と奈々姉ちゃんが鼻に手を当てた。ぼくは両手で口を隠す。
「だからね、幸登君のお菓子のわがままなんて、可愛いものなのよ。ハルト君は移住で駄々こねたんだから。相当、両親を困らせただろうね」
「今思えば、一世一代のわがままだったな」ハルト兄ちゃんはしみじみと頷いている。「あんまり、覚えてないけど」
「江梨姉のことは、覚えてるのにね」
「そりゃあ、あの時は迷子で不安だったからさ」ハルト兄ちゃんは照れくさそうに鼻を掻く。「泣きそうな俺を、助けてくれてさ。本当に、感謝してる」
「江梨姉って、江梨先生のこと?」今日はびっくりすることばっかりだ。ぼくはまた声を上げる。幼稚園の先生と同じ名前だ。いつも目線を合わせて話を聞いてくれる優しい先生だった。卒園式では大泣きしてしまうくらい、好きな先生だった。そういえば、とぼくは思い出す。「あさひ君が絵を描き始めたのも、江梨先生が褒めてくれたからなんだよ」
「そうだったの?」奈々姉ちゃんは驚いた後に、優しそうな笑顔を見せた。
「不思議ねえ。あの時、江梨がいなかったら、ハルト君はこの島に移住していなかったかもしれないんだから」奈々姉ちゃんは首に下げたカメラに手を添えた。「望睦君のママに出会ったのも、私のカメラがきっかけだったの。人の縁って、不思議だと思わない?」
「うん、不思議」こっくり、と頷く。江梨先生も、奈々姉ちゃんも、お母さんも、ぼくと同じくらいの子供の頃があったのだ。当たり前のことだけど、ぼくにとっては地球がひっくり返ってしまうくらいの、びっくりすることだった。「ねえ。縁ってなに?」
「縁っていうのは、人の繋がりのこと」奈々姉ちゃんはハルト君に目を向けた。「学生さん、説明できる?」
ハルト兄ちゃんは「うーん」と腕を組んだ後で、指を立てて話し始めた。「例えばさ、クラスメイト。仲良しの友達も、嫌いなあいつも、好きな女の子も、実は出会えたこと自体が奇跡なんだ」
「実体験を踏まえた人が話すと、説得力が増すねぇ」奈々姉ちゃんが笑っている。
あさひ君とまさる君が、真っ先に浮かんできた。そして何故かさゆりちゃんも。どきどきして、慌てて頭の中から追い出した。気がつくと、ハルト兄ちゃんがニヤニヤとした顔でぼくを見ている。「お、誰か浮かんできたのかな?」
「もう、ハルト君、性格悪いよ。望睦君を困らせないの」
「ぼく、好きな人なんていないもん」
ぼくの言葉に二人は突然噴き出した。「そうだね、いないよね」奈々姉ちゃんは目尻の涙を拭い、ハルト兄ちゃんはお腹を抱えている。
「それで、縁って何なの?」何が面白いのか分からくて、ぼくはムッとした気分になる。ハルト兄ちゃんは呼吸を整えた後で、もう一度話し始める。
「ええと、なにが言いたいのかというと、できる限り人と仲良くしてさ、もっと仲良くしたい人がいたら、より大切にしようって話だよ」
「どうすればいいのかな?」ぼくは今日の出来事を思い出していた。「あさひ君と、まさる君のことなんだけど」
「おお、そうだそうだ。人生相談だったな」ハルト兄ちゃんが身体を前のめりにする。「その二人が、どうしたんだ?」
「さっきも話したけど、あさひ君は絵を描くのが好きなんだ。でもまさる君がいつもいじわるをするんだよ」
「なるほど。まさる君はガキ大将ってところか」ハルト兄ちゃんが呟く。奈々姉ちゃんは自分があさひ君になったような気持ちで眉をひそめ、頷いている。「その、あさひ君はいつもどういう反応をしてるんだ?」
「あさひ君は『やめてよ』って言い返すけど、弱っちいから、まさる君たちはやめないんだ」
「弱っちい?」ハルト兄ちゃんは眉を寄せる。「でも、受け入れないでしっかり抵抗の意思は示しているんだな。そのあさひ君ってのは偉いぞ。望睦はそれを見てるだけなのか?」
ううん、とぼくは首を振る。「ぼくはあさひ君を守りたいから、助けてるよ」どうしてだろう。ハルト兄ちゃんはあさひ君を褒めただけなのに、自分だけが食べようとしていたケーキを食べられたような、嫌な気分になる。「でもね、あさひ君は何回いじわるされても、絵を描くのをやめないんだ。バカなのかな」
「弱っちいとかバカだとか」ハルト兄ちゃんは困った表情を浮かべ、頭を掻く。「あさひ君を守ろうとするのは、偉いよ。でもな。大切にしているからといって、そういう言葉は使わない方がいい」
うんうん、と奈々姉ちゃんは頷く。褒められたと思ったら注意をされて、目が回ったようにぼくの気持ちは混乱していた。ぐるぐるだ。
「望睦はそんなこともわからないなんて本当バカだよなあ」
「え?」ハルト兄ちゃんの言葉に、ぼくは胸が凍ったような気持ちになる。声が震えてしまう。「なんでそんなこと言うの」
「ごめん、今のは例えだよ」とハルト兄ちゃんは頭を下げた。「相手が冗談のつもりだったとしても、嫌な気持ちになるよな。望睦はどう思った?」
「すごく、悲しい気持ちになった」温かくなったりぐるぐるしたり、凍ったり。今日のぼくの胸の中は、とても、忙しい。俯いて、膝の上に置いた手を、ぎゅっと握り締める。「あさひ君に酷いこと、いっぱい言っちゃった」
泣きそうになっていると、ぼくの右手に白い手が重なった。まるで、優しく布団をかけられたように、暖かい。「大丈夫。望睦君はそのままでいいんだよ。誰かを守ろうとする、優しくて素敵な気持ちを持っているんだから。ただちょっとだけ、言葉に気をつけようっか」
「いじわるしちゃってごめんな」ハルト兄ちゃんは眉を下げ、ぼくの左手に、その大きな手を置いた。両隣から伸ばされた二人の手は暖かくて、優しい気持ちをもらっているような気分になる。今なら、何でもできそうだ。
「ハルト兄ちゃん、ぼく大丈夫だよ。幸登とあさひ君に、しっかり謝るね」
「えらーい」奈々姉ちゃんが頭を撫でてくる。「望睦君、大人になったねえ」
「うんうん、大人になった」ハルト兄ちゃんは腕を組んで頷いている。そして思いついたように呟いた。「もしかしてさ、まさる君は仲良くしたいんじゃないのかな?」
「ええ?」ぼくは声を上げる。「そんなことないよ」
「素直になれなくて、いじわるする人、意外といるもんだぞ」
「まさる君はいつからいじわるするようになったの?」奈々姉ちゃんが聞いてくる。
ぼくは思い出す。そういえば、幼稚園の頃にすすむ君という男の子がいた。まさる君と仲良しで、二人はいつも一緒に遊んでいたのを覚えている。卒園と同時に、島の外の小学校に行くために引っ越してしまったのだ。ぼくはその事を話すと、奈々姉ちゃんは「ああ」と独り言のように呟いた。
「そっかあ。外に行っちゃったんだね」
「俺みたいに島に移住する人の方が、珍しいくらいだもんな」
「まさる君も、仲の良い友達がいなくなって、どうすれば良いのかわからなくなったんだろうね」
「そうだな」
二人がまさる君の味方をしようとしているので、ぼくはよくわからなくなる。「でも、あさひ君にいじわるするんだよ?」
「今の話を聞くと、私にはまさる君も、そこまで悪い子じゃない気がするなあ。もう少し、優しくできないかな」
奈々姉ちゃんは、あさひ君と同じような事を言う。優しく、といってもそのまさる君が優しくないのだ。それなのにどう優しくすればいいのか。
「一発ガツンとやらなきゃ、分からないような気もするけどな」ハルト兄ちゃんは手をグーにし、さゆりちゃんと同じ事を言う。やり返すために殴るのも、それはそれで違うように思える。上手く想像できないのは、それがあさひ君らしい行動ではないからだろう。ぼくはため息をつく。
「よく分からないなあ」
「だよなあ。俺も難しい」
「あ、人生相談員が投げ出した」奈々姉ちゃんが指を差す。
「わかったわかった。じゃあこれだけは忘れるな」ハルト兄ちゃんは指を立てた。「周りが好き勝手言うけど結局は、本人が『どうしたいか』が大事なんだ」
「どうしたいか」ぼくは呟く。「あさひ君は、絵を描きたいだけなんじゃないのかなあ」
「俺もそう思う」ハルト兄ちゃんは頷いた。「単純だけど、あさひ君は強い子だな」
「そうなの?」ぼくはあさひ君が弱いと思っていたけれど、ハルト兄ちゃんは反対のことを言う。
「だって、そうだろ。いじわるされても絵を描くのをやめないんだ。それだけ夢中になれるって、実は凄いことなんだよ」ハルト兄ちゃんはマフィンを手に取った。「誰にでもできることじゃない。正直、羨ましいよ」
ぼくやさゆりちゃんが『どうして怒らないの?』と聞いても、あさひ君は弱々しく笑うだけ。でもあさひ君は絵を描くことや、逆上がりの練習を、やめようとはしなかった。直接口には出さないけれど、悔しさを感じ、見返そうと頑張っているのかもしれない。すると「私がね」と奈々姉ちゃんはカメラに手を置いて話し始めた。
「私がね、カメラを始めたのは小学二年生の頃だったの。あさひ君の、一つ上だね。もしいじわるされていたら、やめていたのかもしれない」下を向いているが、落ち込んでいるのではなく、何かを思い出しているようだった。「だからこそ分かるの。あさひ君は、強い子だよ」
ぼくは『描きたい絵がいっぱいあるんだもん』と話していたあさひ君を思い出す。その目には宇宙が広がっているようにきらきらと、輝いていた。そして写真を撮る奈々姉ちゃんも、同じ目をしている。ぼくは聞く。「奈々姉ちゃんはどうして、写真を撮るのをやめないの?」
奈々姉ちゃんは一瞬、困った表情を浮かべた。しかしすぐに目を輝かせ、カメラを構える。「撮りたい写真が、まだまだいっぱいあるからだよ」
ぴかっ、と光り、紙をくしゃっ、と丸めたような音が鳴った。カメラから吐き出された写真をテーブルに置く。マジックペンで塗りつぶしたような黒い四角から、魔法のように写真が浮かび上がる。不思議そうにカメラ見つめるぼくと、その後ろには大きな口を開けて、マフィンを頬張ろうとしているハルト兄ちゃんの横顔が写っていた。
あまりに対照的で、ぼくと奈々姉ちゃんは噴き出してしまう。「何だよ、これ。アホみたいな顔してるじゃん」ハルト兄ちゃんは写真を見て、苦い表情を浮かべた。「しかも目、半開きじゃん」
ハルト兄ちゃん言われて見直すと、本当に半開きになっている。それがまた可笑しくて更に笑ってしまう。涙が出てきて、お腹が痛かった。
奈々姉ちゃんは目尻の涙を拭い、思いを込めるように呟いた。「この瞬間があるから、カメラはやめられないの」
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「美味しそう」今日二回目のおやつに、ぼくは声を上げてしまう。同時に、ここにはいない幸登に対して、隠れて悪いことをしているような気分になる。
右隣には奈々姉ちゃんがマフィンの写真を撮り、左隣ではハルト兄ちゃんがノートを広げて何かを書き込んでいる。真面目そう、というより、苦しそうな顔をしていた。ぼくは考えてから奈々姉ちゃんの服の裾を掴む。
「ねえ。おうち帰ったらぼくのお小遣い渡すからさ、幸登のマフィンも買ってくれる?」
奈々姉ちゃんは驚いた表情を浮かべた後で、とびきりの笑顔を見せた。「うん!いいよ。そうしよう」
「どしたの?」ハルト兄ちゃんが勉強の手を止めて、聞いてくる。
「ぼくね、幸登が食べたがってたおやつを食べちゃって、泣かせちゃったの」ぼくは幸登の泣き顔を思い出し、下を向く。一緒に泣きたい気持ちになった。
「でも、そのおやつは幸登君も既に食べ終わってたんだよね」奈々姉ちゃんが付け足してくれる。「それで歩美……ママも幸登君の肩を持つもんだから、怒って家を出ちゃったのよ」
「で、散歩してる奈々姉とばったり会って、二人でいたわけか」なるほど、とハルト兄ちゃんは頷いた。「そっかあ。でも望睦はしっかり反省して、幸登にもマフィンを買ってあげようとしたのか。いいお兄ちゃんだな」
ハルト兄ちゃんの言葉に、顔を上げた。「ぼく、いいお兄ちゃんかな?幸登、怒ってないかな?」
「『いいお兄ちゃんかな?』って考えてる時点で、いいお兄ちゃんだよ」
よく分からなくて、首を傾げてしまう。ハルト兄ちゃんはたまに、難しいことを話すのだ。
「もう、望睦君が困ってるじゃない」奈々姉ちゃんは呆れ顔を浮かべる。
「名言っぽくて、かっこよくない?」ハルト兄ちゃんは眉を上げ、得意げな表情だ。
「かっこよくない」と奈々姉ちゃんはぴしゃりと言い放ち、ハルト兄ちゃんは残念そうに肩を落とす。「大丈夫。望睦君はいいお兄ちゃんよ。マフィン渡したら、幸登君も大喜びするはずよ」
どうしてだろう。お父さんやお母さんの励ましよりも、二人の言葉の方が、すとんと胸に落ちるのだ。頑張ろう、そういう感じの、温かい気持ちが湧いてくる。喜ぶ幸登の姿を想像して、ぼくは更に嬉しい気持ちになった。泣きそうな気持ちは、消えていた。
隣を見ると、ハルト兄ちゃんが慌ただしく勉強道具を片付け始めている。「帰るの?」とぼくが聞くと、「俺もいいお兄ちゃんになるんだ」と返された。意味が分からない。
「原稿作りはいいの?」奈々姉ちゃんが聞く。
「大丈夫。家でやるよ」
ハルト兄ちゃんは得意げに眉を上げ、胸を張った。「さあ、どん来なさい。今日はハルトお兄ちゃんが人生相談に乗ってやるぞ」
また始まった、と奈々姉ちゃんがため息をつく。「ハルト君、初めて会った時は可愛かったのに、どうしてこんなヘンテコな子に育っちゃったのかなあ」
「あの頃とは違うんですー」ハルト兄ちゃんが舌を出す。その様子が可笑しくて、ぼくは笑ってしまう。子供みたいだった。
「あの頃って、ハルト兄ちゃんは外に住んでたの?」
ぼくにとっては初めて会った日からハルト兄ちゃんはハルト兄ちゃんで、元々どこに住んでいたかなんて考えたこともなかった。生まれも育ちも、この島だと思っていたのだ。
「ハルト君はね。それこそ幸登君ぐらいの頃に、この島に遊びに来たの。その時に気に入ってしまって、駄々こねて、家族揃って移住することになったのよ」
あまりの話の大きさに、ぼくは「えっ?」と声を上げてしまう。しいーっ、と奈々姉ちゃんが鼻に手を当てた。ぼくは両手で口を隠す。
「だからね、幸登君のお菓子のわがままなんて、可愛いものなのよ。ハルト君は移住で駄々こねたんだから。相当、両親を困らせただろうね」
「今思えば、一世一代のわがままだったな」ハルト兄ちゃんはしみじみと頷いている。「あんまり、覚えてないけど」
「江梨姉のことは、覚えてるのにね」
「そりゃあ、あの時は迷子で不安だったからさ」ハルト兄ちゃんは照れくさそうに鼻を掻く。「泣きそうな俺を、助けてくれてさ。本当に、感謝してる」
「江梨姉って、江梨先生のこと?」今日はびっくりすることばっかりだ。ぼくはまた声を上げる。幼稚園の先生と同じ名前だ。いつも目線を合わせて話を聞いてくれる優しい先生だった。卒園式では大泣きしてしまうくらい、好きな先生だった。そういえば、とぼくは思い出す。「あさひ君が絵を描き始めたのも、江梨先生が褒めてくれたからなんだよ」
「そうだったの?」奈々姉ちゃんは驚いた後に、優しそうな笑顔を見せた。
「不思議ねえ。あの時、江梨がいなかったら、ハルト君はこの島に移住していなかったかもしれないんだから」奈々姉ちゃんは首に下げたカメラに手を添えた。「望睦君のママに出会ったのも、私のカメラがきっかけだったの。人の|縁《えん》って、不思議だと思わない?」
「うん、不思議」こっくり、と頷く。江梨先生も、奈々姉ちゃんも、お母さんも、ぼくと同じくらいの子供の頃があったのだ。当たり前のことだけど、ぼくにとっては地球がひっくり返ってしまうくらいの、びっくりすることだった。「ねえ。縁ってなに?」
「縁っていうのは、人の繋がりのこと」奈々姉ちゃんはハルト君に目を向けた。「学生さん、説明できる?」
ハルト兄ちゃんは「うーん」と腕を組んだ後で、指を立てて話し始めた。「例えばさ、クラスメイト。仲良しの友達も、嫌いなあいつも、好きな女の子も、実は出会えたこと自体が奇跡なんだ」
「実体験を踏まえた人が話すと、説得力が増すねぇ」奈々姉ちゃんが笑っている。
あさひ君とまさる君が、真っ先に浮かんできた。そして何故かさゆりちゃんも。どきどきして、慌てて頭の中から追い出した。気がつくと、ハルト兄ちゃんがニヤニヤとした顔でぼくを見ている。「お、誰か浮かんできたのかな?」
「もう、ハルト君、性格悪いよ。望睦君を困らせないの」
「ぼく、好きな人なんていないもん」
ぼくの言葉に二人は突然噴き出した。「そうだね、いないよね」奈々姉ちゃんは目尻の涙を拭い、ハルト兄ちゃんはお腹を抱えている。
「それで、縁って何なの?」何が面白いのか分からくて、ぼくはムッとした気分になる。ハルト兄ちゃんは呼吸を整えた後で、もう一度話し始める。
「ええと、なにが言いたいのかというと、できる限り人と仲良くしてさ、もっと仲良くしたい人がいたら、より大切にしようって話だよ」
「どうすればいいのかな?」ぼくは今日の出来事を思い出していた。「あさひ君と、まさる君のことなんだけど」
「おお、そうだそうだ。人生相談だったな」ハルト兄ちゃんが身体を前のめりにする。「その二人が、どうしたんだ?」
「さっきも話したけど、あさひ君は絵を描くのが好きなんだ。でもまさる君がいつもいじわるをするんだよ」
「なるほど。まさる君はガキ大将ってところか」ハルト兄ちゃんが呟く。奈々姉ちゃんは自分があさひ君になったような気持ちで眉をひそめ、頷いている。「その、あさひ君はいつもどういう反応をしてるんだ?」
「あさひ君は『やめてよ』って言い返すけど、弱っちいから、まさる君たちはやめないんだ」
「弱っちい?」ハルト兄ちゃんは眉を寄せる。「でも、受け入れないでしっかり抵抗の意思は示しているんだな。そのあさひ君ってのは偉いぞ。望睦はそれを見てるだけなのか?」
ううん、とぼくは首を振る。「ぼくはあさひ君を守りたいから、助けてるよ」どうしてだろう。ハルト兄ちゃんはあさひ君を褒めただけなのに、自分だけが食べようとしていたケーキを食べられたような、嫌な気分になる。「でもね、あさひ君は何回いじわるされても、絵を描くのをやめないんだ。バカなのかな」
「弱っちいとかバカだとか」ハルト兄ちゃんは困った表情を浮かべ、頭を掻く。「あさひ君を守ろうとするのは、偉いよ。でもな。大切にしているからといって、そういう言葉は使わない方がいい」
うんうん、と奈々姉ちゃんは頷く。褒められたと思ったら注意をされて、目が回ったようにぼくの気持ちは混乱していた。ぐるぐるだ。
「望睦はそんなこともわからないなんて本当バカだよなあ」
「え?」ハルト兄ちゃんの言葉に、ぼくは胸が凍ったような気持ちになる。声が震えてしまう。「なんでそんなこと言うの」
「ごめん、今のは例えだよ」とハルト兄ちゃんは頭を下げた。「相手が冗談のつもりだったとしても、嫌な気持ちになるよな。望睦はどう思った?」
「すごく、悲しい気持ちになった」温かくなったりぐるぐるしたり、凍ったり。今日のぼくの胸の中は、とても、忙しい。俯いて、膝の上に置いた手を、ぎゅっと握り締める。「あさひ君に酷いこと、いっぱい言っちゃった」
泣きそうになっていると、ぼくの右手に白い手が重なった。まるで、優しく布団をかけられたように、暖かい。「大丈夫。望睦君はそのままでいいんだよ。誰かを守ろうとする、優しくて素敵な気持ちを持っているんだから。ただちょっとだけ、言葉に気をつけようっか」
「いじわるしちゃってごめんな」ハルト兄ちゃんは眉を下げ、ぼくの左手に、その大きな手を置いた。両隣から伸ばされた二人の手は暖かくて、優しい気持ちをもらっているような気分になる。今なら、何でもできそうだ。
「ハルト兄ちゃん、ぼく大丈夫だよ。幸登とあさひ君に、しっかり謝るね」
「えらーい」奈々姉ちゃんが頭を撫でてくる。「望睦君、大人になったねえ」
「うんうん、大人になった」ハルト兄ちゃんは腕を組んで頷いている。そして思いついたように呟いた。「もしかしてさ、まさる君は仲良くしたいんじゃないのかな?」
「ええ?」ぼくは声を上げる。「そんなことないよ」
「素直になれなくて、いじわるする人、意外といるもんだぞ」
「まさる君はいつからいじわるするようになったの?」奈々姉ちゃんが聞いてくる。
ぼくは思い出す。そういえば、幼稚園の頃にすすむ君という男の子がいた。まさる君と仲良しで、二人はいつも一緒に遊んでいたのを覚えている。卒園と同時に、島の外の小学校に行くために引っ越してしまったのだ。ぼくはその事を話すと、奈々姉ちゃんは「ああ」と独り言のように呟いた。
「そっかあ。外に行っちゃったんだね」
「俺みたいに島に移住する人の|方《ほう》が、珍しいくらいだもんな」
「まさる君も、仲の良い友達がいなくなって、どうすれば良いのかわからなくなったんだろうね」
「そうだな」
二人がまさる君の味方をしようとしているので、ぼくはよくわからなくなる。「でも、あさひ君にいじわるするんだよ?」
「今の話を聞くと、私にはまさる君も、そこまで悪い子じゃない気がするなあ。もう少し、優しくできないかな」
奈々姉ちゃんは、あさひ君と同じような事を言う。優しく、といってもそのまさる君が優しくないのだ。それなのにどう優しくすればいいのか。
「一発ガツンとやらなきゃ、分からないような気もするけどな」ハルト兄ちゃんは手をグーにし、さゆりちゃんと同じ事を言う。やり返すために殴るのも、それはそれで違うように思える。上手く想像できないのは、それがあさひ君らしい行動ではないからだろう。ぼくはため息をつく。
「よく分からないなあ」
「だよなあ。俺も難しい」
「あ、人生相談員が投げ出した」奈々姉ちゃんが指を差す。
「わかったわかった。じゃあこれだけは忘れるな」ハルト兄ちゃんは指を立てた。「周りが好き勝手言うけど結局は、本人が『どうしたいか』が大事なんだ」
「どうしたいか」ぼくは呟く。「あさひ君は、絵を描きたいだけなんじゃないのかなあ」
「俺もそう思う」ハルト兄ちゃんは頷いた。「単純だけど、あさひ君は強い子だな」
「そうなの?」ぼくはあさひ君が弱いと思っていたけれど、ハルト兄ちゃんは反対のことを言う。
「だって、そうだろ。いじわるされても絵を描くのをやめないんだ。それだけ夢中になれるって、実は凄いことなんだよ」ハルト兄ちゃんはマフィンを手に取った。「誰にでもできることじゃない。正直、羨ましいよ」
ぼくやさゆりちゃんが『どうして怒らないの?』と聞いても、あさひ君は弱々しく笑うだけ。でもあさひ君は絵を描くことや、逆上がりの練習を、やめようとはしなかった。直接口には出さないけれど、悔しさを感じ、見返そうと頑張っているのかもしれない。すると「私がね」と奈々姉ちゃんはカメラに手を置いて話し始めた。
「私がね、カメラを始めたのは小学二年生の頃だったの。あさひ君の、一つ上だね。もしいじわるされていたら、やめていたのかもしれない」下を向いているが、落ち込んでいるのではなく、何かを思い出しているようだった。「だからこそ分かるの。あさひ君は、強い子だよ」
ぼくは『描きたい絵がいっぱいあるんだもん』と話していたあさひ君を思い出す。その目には宇宙が広がっているようにきらきらと、輝いていた。そして写真を撮る奈々姉ちゃんも、同じ目をしている。ぼくは聞く。「奈々姉ちゃんはどうして、写真を撮るのをやめないの?」
奈々姉ちゃんは一瞬、困った表情を浮かべた。しかしすぐに目を輝かせ、カメラを構える。「撮りたい写真が、まだまだいっぱいあるからだよ」
ぴかっ、と光り、紙をくしゃっ、と丸めたような音が鳴った。カメラから吐き出された写真をテーブルに置く。マジックペンで塗りつぶしたような黒い四角から、魔法のように写真が浮かび上がる。不思議そうにカメラ見つめるぼくと、その後ろには大きな口を開けて、マフィンを頬張ろうとしているハルト兄ちゃんの横顔が写っていた。
あまりに対照的で、ぼくと奈々姉ちゃんは噴き出してしまう。「何だよ、これ。アホみたいな顔してるじゃん」ハルト兄ちゃんは写真を見て、苦い表情を浮かべた。「しかも目、半開きじゃん」
ハルト兄ちゃん言われて見直すと、本当に半開きになっている。それがまた可笑しくて更に笑ってしまう。涙が出てきて、お腹が痛かった。
奈々姉ちゃんは目尻の涙を拭い、思いを込めるように呟いた。「この瞬間があるから、カメラはやめられないの」