三章 熱意 23
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多様な色彩の中に、白黒のシンプルな写真が目に入る。確か、この写真は昔から飾られていたはずだ。当時は『古い写真があるなあ』程度にしか気に留めていなかった。「これは悦子おばちゃんが小さい頃の写真?」家の玄関を背景に、目を見開いた着物姿の少女と、隣には目を閉じて学帽を被った仏頂面の少年が写っている。
悦子は少女のような微笑みから一転し、悲しそうに眉を下げた。「そうねえ。小学生の頃だったわ」そして、亮佑のことを見つめる。その目が、慈しむように揺れていた。「生きてさえいれば、亮ちゃんみたいに、優しくて立派な子になっていたんでしょうねえ」
「戦時中、だったんですね」戦争経験者は少しずつ減ってきている。終戦から何年も過ぎた現在では『授業で学ぶ過去の話』となっているのだ。学校の授業や本を通じて学ぶことはできても、原体験に勝るものはない。
「ええ」悦子は涙声を滲ませていた。肩が、震えている。彼女にとっては何年経っても、色褪せず、まざまざと思い出せる記憶なのだろう。亮佑にはかける言葉が見つからなかった。
「おばあちゃーん、入るよー」突然、玄関が開けられる音がし、亮佑はぎょっとする。女性の声だ。湿っぽい空気が、強制的に換気されたような気分になる。
どたどたと足音を響かせて、その女性は居間へと入ってくる。「誰?」と悦子に聞く暇もなかった。
居間の状態を見て、女性は動きを止めた。髪が薄茶色に染められている。恐らく、亮佑とあまり変わらない年齢だろう。
悦子が泣いており、向かいには見知らぬ成人男性が座っている。彼女からすれば、かなり異質な光景に映ったのだろう。目を吊り上げ、あからさまに警戒心を滲ませていた。
「どうも、お邪魔、してます」亮佑は会釈をし、笑顔を浮かべる。悪い人ではないですよ、と言外に滲ませたつもりだった。
その笑顔が逆効果だったのだろう。悪徳な営業や宗教勧誘の人間と思ったらしい。「はあ、どうも」と頷き、射抜くような視線を向けられた。
悦子の隣に立ち、亮佑は見下ろされるかたちになる。絶対に守るぞ、という抗戦的な表情だ。
悦子は涙を拭いた後でにっこりと微笑んだ。「歩美ちゃん、怪しい人じゃないよ。元々島に住んでた、亮佑君だよ」
その表情を見て安心したのか、歩美と名乗るその女性は深々と頭を下げ、非礼を詫びた。亮佑は慌てて頭を上げさせる。「大丈夫ですから。警戒するのも無理ありません。寧ろ、悦子さ……悦子おばちゃんを大切にしていることが伝わってきて、安心しましたよ」
「そうですか」歩美は安堵した表情を見せる。警戒心が解け、居間空気がふわっと弛緩したのを感じた。「あばあちゃんはどうして泣いてたの?」
「大したことじゃないよお」悦子は顔の前で手を振った。「ただ、昔のことを思い出して、しんみりとしちゃっただけなの」あっけらかんとした様子で彼女は答える。その切り替えの早さに、亮佑はあっけに取られていた。大志の言葉を借りるなら、『うじうじ人』になっている自分自身がちっぽけに感じる程だ。
「二人は幼稚園?」悦子が聞く。「そうだよ。今日の朝もぐずってて、大変だったよ」歩美はお菓子に手を伸ばす。
「しっかり、お母さんやってるじゃない。立派よ」
「お子さん、いるんですね」亮佑も会話に入り込む。
「そうなの。年少と年長の男の子。まるで小さな怪獣よ。それが二人もいるんだから、毎日大変よ」口調とは裏腹に、目尻は下げられている。「で、時々空いた時間におばあちゃんの家に上がって、愚痴を聞いてもらってるわけなの」
「そうだったんですか」小さな怪獣とは面白い表現で、亮佑は笑ってしまう。きっと元気いっぱいな子供達なのだろう。
「時々じゃなくて、ほぼ毎日だけどね」悦子は指摘しながらも、満更でもない表情だ。「週末にはその小さな怪獣さんがやってくるし、こっちも大変よ」
「仕方ないじゃん。あの子達が遊び行きたいって聞かないんだから」
二人の掛け合いは祖母と孫のようで微笑ましかった。様子を見ていると、思い出したかのように歩美が質問をしてきた。
「ええと、亮佑さん?は帰省中なの?」
「ああ、俺は」亮佑は突然の質問に戸惑い、頭を掻く。「仕事辞めちゃって、戻ってきたんです」
「そうなんだ。じゃあ私の逆だね」
「逆?」
「私は高校から、この島に住み始めたの」
「そうなんですか」こともなさげに話すので、亮佑は相槌を打った後に驚いてしまう「高校から?」
将来の選択肢を広げるために外に行く。それがこの島に浸透している考え方だが、わざわざ外から来て住み始めるとは、物好きな人もいたものだ。亮佑は感嘆の声を上げてしまう。悦子は懐かしむように目を細めていた。
「歩美ちゃんは昔から、勢いで生きてきた人だもんね」
「そうそう」歩美は得意げに頷いている。「『この島に住みたい』って思ってたら、旦那に出逢えて、いつの間にか子供が二人もいるんだもん。人生って本当に、何が起こるか分からないよねえ」
歩美の生き方に、驚愕していた。うじうじ人の亮佑とは、正反対の性格である。「すごい行動力ですね」
「昔、奈々にも、同じこと言われたなあ」部屋の写真に目を向けて、説明をしてくれる。「ああ、奈々ってのは島にいる友達で、この部屋に飾ってる写真を、撮った人だよ」
「奈々さんという方なんですね」歩美の友人ということは、性格も似ているのだろうか。どんな人なのかと、亮佑は気になった。「どれもこれも、素敵な写真ですよね。広報誌も、見ましたよ」
「奈々も喜ぶと思う。今度会うときに、伝えておくよ」まるで自分ごとのように歩美は喜び、身を乗り出さんばかりだった。その様子から、仲の良さが窺える。とても大切な友達なのだろう。
懐の広い悦子と、子供と友人を想う歩美。そして周りに囲まれている写真。この家には、誰かを想う温かい空間が広がっている。亮佑は悦子に目を向け、気がつくと口を開いていた。まるで、占い師に自身の身辺を伝えるような気持ちだった。「悦子おばちゃん、俺、仕事辞めて戻ってきてさ、何の目的もなしにふらふらしてていいのかな」
突然の問い掛けに、悦子は動揺を見せなかった。呆れたり叱責することもない。「大丈夫」と教え諭すように口を開く。
「大丈夫。人生万事塞翁が馬だから」
「ああ」呻きのような声がこぼれ出てしまう。自分は目先のことしか見えていなかった、と亮佑は思い知らされる。
「人生…さい…馬?」歩美は壊れたロボットのように首を傾げていた。
「中国の、故事ですよね」
「そうそう。亮ちゃん、説明できる?」問いかける悦子は、教師のようだった。
亮佑は腕を組み、頭の中を整理する。わかりやすく伝えるにはどうすればよいのだろうか、と。「ある老人の飼っていた馬が脱走してしまうんです。老人は諦めずに待ち続けていたら、その馬が戻ってきた」
「おお、よかったねえ」歩美が合いの手を入れる。
「ただ戻ってきたわけじゃないですよ。他の足の速い馬たちを引き連れて戻ってきたんです」
「めでたしめでたし?」首を傾げる。
「まだですよ」亮佑は笑う。「で、その矢先に老人の息子が落馬してしまい、足を骨折してしまうんです」
「可哀想」自身の子供達を想像したからなのか、歩美は悲痛な表情だ。
「けれどその息子は兵役を免除されて、戦地に出向かなくて済んだんです」めでたしめでたし、と亮佑は話を締め括る。「よかったー」と歩美は安堵の表情を浮かべた。本当は老人の考えや周囲の反応があるのだが、分かりやすさを優先し、省いて説明をした。
「悪いことも良いことも、最後になるまで予想がつかない。そのような意味として、俺は捉えています」頭を掻き、悦子に目を向ける。「どう?合ってるかな」
「そうそう、合ってるよ」と悦子が嬉しそうに手を叩く。「お仕事を辞めて戻ってきたからこそ、また亮ちゃんとこうやって会えたのよ」
「そうですね」亮佑は頷いた。戻っていなかったら今も、生気を失った表情でパソコンと向かい合っていたことだろう。
「きっとね、起こったこと全てに、意味があるのよ。私は、そう思う」悦子は白黒写真に目を向け、思いを馳せるように呟いた。
「亮佑さんは、物知りだねえ」歩美は感心した目を向けてくる。
「一応、ライター業をしていたので」褒められるのは久しぶりで、照れ臭さを感じてしまう。
「ライター?すごいね。私はネット記事にざっと目を通して、下にスクロールしちゃってるなあ」申し訳なさそうに歩美は笑う。「ちゃんと読まないと」
「分かりますよ」亮佑は社長の言葉を思い出しながら、頷いていた。
「記事の数も沢山あるし、どうしても一つ一つ読み込むのは難しいんだよねえ。家事育児もあるし」
歩美は何気なく口を開くが、それが全てだった。日々更新されていく記事の数は膨大で、質の良い記事も十把一絡げに扱われてしまう。これが実情なのだ。亮佑は幼少期に読んだ絵本を思い出す。縞模様の服を着た男が街中に隠れており、その人物を探す内容である。虫眼鏡のように目を凝らし、見つけた瞬間の喜びはひと塩だった。同様に、質の良い記事を探すのには何倍もの時間を要する。仕事や家事をそっちのけで没頭するのは、現実的ではない。
「大丈夫?難しそうな顔してるけど」歩美から声をかけられ、ハッとする。どうやらまた、うじうじ人になっていたらしい。「ちょっと、前の仕事のことを思い出してました」
「仕事は大変よねえ」うんうん、と歩美は共感するように頷いた。シンプルな言葉だが、全てが詰まっていた。そう、仕事は大変なのだ。亮佑は人生の先輩に話を振ることにした。「悦子おばちゃんはさ、人生でどうしようもない時はどうやって乗り越えたの?」
「そうねえ」悦子は思い出すように天井に目を向ける。「ただ受け止めて、受け入れたよ」
「受け入れた?」
「祈っても祈っても、どうしようもないことが当たり前のように起こる時代だったから。最初は反発したり、憤っていたけれど、次第に受け入れるように、なったわ」悦子は一度言葉を切り、亮佑に目を向ける。「ついさっき、『意味があるのよ』なんて答えたけどね、本当はそう思いたくて、自分に言い聞かせてきただけなのよ」
「おばあちゃん」歩美が悲しそうに眉を下げる。
「だからね、悩むことはやめたの。足掻いたってどうしようもことないことが人生には山ほどある。それならば、全てを受け入れて人生を楽しむことにしたのよ」
悦子は手を叩き、あっけらかんとした様子で話を締め括った。普段はにこにこと笑顔を浮かべているが、その裏には様々な苦労があったのだろう。気軽に質問したことを亮佑は後悔した。
「ごめんね。悦子おばちゃん。無神経なこと聞いちゃって」
「いいのいいの。気にしないで」悦子は笑いながら手を振った。「亮ちゃんと歩美ちゃんは、まだ若いんだから、些細なことで悩んでいいんだよ。その年頃で私みたいに達観してたら、人生がつまらなくなっちゃうわよ」
「そうだったんだ」愛菜は納得するように呟いた。「私ね、おじいちゃんを亡くしたのに落ち着いてたのが、ずっと不思議だったんだよね。そういう風に考えていたからなんだ」
「やかましいのがいなくなって、清々しているわよ」悦子はそう言いながらも、目には寂しさを滲ませていた。小学生の頃遊びにきた時は、旦那の武雄がいたはずだ。今日、この家に上がってから姿が見えなかったことが亮佑は気になっていた。やはり、そういうことだったのだ。悦子と目が合った。「亮ちゃん、後で拝んでくれる?」
「はい。もちろんです」頭を下げると悦子は「ありがとう、あの人も喜ぶわ」と満面の笑みを浮かべた。
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どたどたと足音を響かせて、その女性は居間へと入ってくる。「誰?」と悦子に聞く暇もなかった。
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悦子が泣いており、向かいには見知らぬ成人男性が座っている。彼女からすれば、かなり異質な光景に映ったのだろう。目を吊り上げ、あからさまに警戒心を滲ませていた。
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悦子は涙を拭いた後でにっこりと微笑んだ。「歩美ちゃん、怪しい人じゃないよ。元々島に住んでた、亮佑君だよ」
その表情を見て安心したのか、歩美と名乗るその女性は深々と頭を下げ、非礼を詫びた。亮佑は慌てて頭を上げさせる。「大丈夫ですから。警戒するのも無理ありません。寧ろ、悦子さ……悦子おばちゃんを大切にしていることが伝わってきて、安心しましたよ」
「そうですか」歩美は安堵した表情を見せる。警戒心が解け、居間空気がふわっと弛緩したのを感じた。「あばあちゃんはどうして泣いてたの?」
「大したことじゃないよお」悦子は顔の前で手を振った。「ただ、昔のことを思い出して、しんみりとしちゃっただけなの」あっけらかんとした様子で彼女は答える。その切り替えの早さに、亮佑はあっけに取られていた。大志の言葉を借りるなら、『うじうじ人』になっている自分自身がちっぽけに感じる程だ。
「二人は幼稚園?」悦子が聞く。「そうだよ。今日の朝もぐずってて、大変だったよ」歩美はお菓子に手を伸ばす。
「しっかり、お母さんやってるじゃない。立派よ」
「お子さん、いるんですね」亮佑も会話に入り込む。
「そうなの。年少と年長の男の子。まるで小さな怪獣よ。それが二人もいるんだから、毎日大変よ」口調とは裏腹に、目尻は下げられている。「で、時々空いた時間におばあちゃんの家に上がって、愚痴を聞いてもらってるわけなの」
「そうだったんですか」小さな怪獣とは面白い表現で、亮佑は笑ってしまう。きっと元気いっぱいな子供達なのだろう。
「時々じゃなくて、ほぼ毎日だけどね」悦子は指摘しながらも、満更でもない表情だ。「週末にはその小さな怪獣さんがやってくるし、こっちも大変よ」
「仕方ないじゃん。あの子達が遊び行きたいって聞かないんだから」
二人の掛け合いは祖母と孫のようで微笑ましかった。様子を見ていると、思い出したかのように歩美が質問をしてきた。
「ええと、亮佑さん?は帰省中なの?」
「ああ、俺は」亮佑は突然の質問に戸惑い、頭を掻く。「仕事辞めちゃって、戻ってきたんです」
「そうなんだ。じゃあ私の逆だね」
「逆?」
「私は高校から、この島に住み始めたの」
「そうなんですか」こともなさげに話すので、亮佑は相槌を打った後に驚いてしまう「高校から?」
将来の選択肢を広げるために外に行く。それがこの島に浸透している考え方だが、わざわざ外から来て住み始めるとは、物好きな人もいたものだ。亮佑は感嘆の声を上げてしまう。悦子は懐かしむように目を細めていた。
「歩美ちゃんは昔から、勢いで生きてきた人だもんね」
「そうそう」歩美は得意げに頷いている。「『この島に住みたい』って思ってたら、旦那に出逢えて、いつの間にか子供が二人もいるんだもん。人生って本当に、何が起こるか分からないよねえ」
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「昔、奈々にも、同じこと言われたなあ」部屋の写真に目を向けて、説明をしてくれる。「ああ、奈々ってのは島にいる友達で、この部屋に飾ってる写真を、撮った人だよ」
「奈々さんという方なんですね」歩美の友人ということは、性格も似ているのだろうか。どんな人なのかと、亮佑は気になった。「どれもこれも、素敵な写真ですよね。広報誌も、見ましたよ」
「奈々も喜ぶと思う。今度会うときに、伝えておくよ」まるで自分ごとのように歩美は喜び、身を乗り出さんばかりだった。その様子から、仲の良さが窺える。とても大切な友達なのだろう。
懐の広い悦子と、子供と友人を想う歩美。そして周りに囲まれている写真。この家には、誰かを想う温かい空間が広がっている。亮佑は悦子に目を向け、気がつくと口を開いていた。まるで、占い師に自身の身辺を伝えるような気持ちだった。「悦子おばちゃん、俺、仕事辞めて戻ってきてさ、何の目的もなしにふらふらしてていいのかな」
突然の問い掛けに、悦子は動揺を見せなかった。呆れたり叱責することもない。「大丈夫」と教え諭すように口を開く。
「大丈夫。人生|万事塞翁《ばんじさいおう》が馬だから」
「ああ」呻きのような声がこぼれ出てしまう。自分は目先のことしか見えていなかった、と亮佑は思い知らされる。
「人生…さい…馬?」歩美は壊れたロボットのように首を傾げていた。
「中国の、故事ですよね」
「そうそう。亮ちゃん、説明できる?」問いかける悦子は、教師のようだった。
亮佑は腕を組み、頭の中を整理する。わかりやすく伝えるにはどうすればよいのだろうか、と。「ある老人の飼っていた馬が脱走してしまうんです。老人は諦めずに待ち続けていたら、その馬が戻ってきた」
「おお、よかったねえ」歩美が合いの手を入れる。
「ただ戻ってきたわけじゃないですよ。他の足の速い馬たちを引き連れて戻ってきたんです」
「めでたしめでたし?」首を傾げる。
「まだですよ」亮佑は笑う。「で、その矢先に老人の息子が落馬してしまい、足を骨折してしまうんです」
「可哀想」自身の子供達を想像したからなのか、歩美は悲痛な表情だ。
「けれどその息子は兵役を免除されて、戦地に出向かなくて済んだんです」めでたしめでたし、と亮佑は話を締め括る。「よかったー」と歩美は安堵の表情を浮かべた。本当は老人の考えや周囲の反応があるのだが、分かりやすさを優先し、省いて説明をした。
「悪いことも良いことも、最後になるまで予想がつかない。そのような意味として、俺は捉えています」頭を掻き、悦子に目を向ける。「どう?合ってるかな」
「そうそう、合ってるよ」と悦子が嬉しそうに手を叩く。「お仕事を辞めて戻ってきたからこそ、また亮ちゃんとこうやって会えたのよ」
「そうですね」亮佑は頷いた。戻っていなかったら今も、生気を失った表情でパソコンと向かい合っていたことだろう。
「きっとね、起こったこと全てに、意味があるのよ。私は、そう思う」悦子は白黒写真に目を向け、思いを馳せるように呟いた。
「亮佑さんは、物知りだねえ」歩美は感心した目を向けてくる。
「一応、ライター業をしていたので」褒められるのは久しぶりで、照れ臭さを感じてしまう。
「ライター?すごいね。私はネット記事にざっと目を通して、下にスクロールしちゃってるなあ」申し訳なさそうに歩美は笑う。「ちゃんと読まないと」
「分かりますよ」亮佑は社長の言葉を思い出しながら、頷いていた。
「記事の数も沢山あるし、どうしても一つ一つ読み込むのは難しいんだよねえ。家事育児もあるし」
歩美は何気なく口を開くが、それが全てだった。日々更新されていく記事の数は膨大で、質の良い記事も十把一絡《じっぱひとから》げに扱われてしまう。これが実情なのだ。亮佑は幼少期に読んだ絵本を思い出す。縞模様の服を着た男が街中に隠れており、その人物を探す内容である。虫眼鏡のように目を凝らし、見つけた瞬間の喜びはひと塩だった。同様に、質の良い記事を探すのには何倍もの時間を要する。仕事や家事をそっちのけで没頭するのは、現実的ではない。
「大丈夫?難しそうな顔してるけど」歩美から声をかけられ、ハッとする。どうやらまた、うじうじ人になっていたらしい。「ちょっと、前の仕事のことを思い出してました」
「仕事は大変よねえ」うんうん、と歩美は共感するように頷いた。シンプルな言葉だが、全てが詰まっていた。そう、仕事は大変なのだ。亮佑は人生の先輩に話を振ることにした。「悦子おばちゃんはさ、人生でどうしようもない時はどうやって乗り越えたの?」
「そうねえ」悦子は思い出すように天井に目を向ける。「ただ受け止めて、受け入れたよ」
「受け入れた?」
「祈っても祈っても、どうしようもないことが当たり前のように起こる時代だったから。最初は反発したり、憤っていたけれど、次第に受け入れるように、なったわ」悦子は一度言葉を切り、亮佑に目を向ける。「ついさっき、『意味があるのよ』なんて答えたけどね、本当はそう思いたくて、自分に言い聞かせてきただけなのよ」
「おばあちゃん」歩美が悲しそうに眉を下げる。
「だからね、悩むことはやめたの。足掻いたってどうしようもことないことが人生には山ほどある。それならば、全てを受け入れて人生を楽しむことにしたのよ」
悦子は手を叩き、あっけらかんとした様子で話を締め括った。普段はにこにこと笑顔を浮かべているが、その裏には様々な苦労があったのだろう。気軽に質問したことを亮佑は後悔した。
「ごめんね。悦子おばちゃん。無神経なこと聞いちゃって」
「いいのいいの。気にしないで」悦子は笑いながら手を振った。「亮ちゃんと歩美ちゃんは、まだ若いんだから、些細なことで悩んでいいんだよ。その年頃で私みたいに達観してたら、人生がつまらなくなっちゃうわよ」
「そうだったんだ」愛菜は納得するように呟いた。「私ね、おじいちゃんを亡くしたのに落ち着いてたのが、ずっと不思議だったんだよね。そういう風に考えていたからなんだ」
「やかましいのがいなくなって、清々しているわよ」悦子はそう言いながらも、目には寂しさを滲ませていた。小学生の頃遊びにきた時は、旦那の武雄がいたはずだ。今日、この家に上がってから姿が見えなかったことが亮佑は気になっていた。やはり、そういうことだったのだ。悦子と目が合った。「亮ちゃん、後で拝んでくれる?」
「はい。もちろんです」頭を下げると悦子は「ありがとう、あの人も喜ぶわ」と満面の笑みを浮かべた。