そうして、僕たちは時間を忘れるほどピアノを奏でていた。
広い音楽室で、二人きり。
思わず心臓が昂った。
僕の指先からこぼれ出る音の旋律が、僕の心を満たしていく。
母のように、理沙のように上手くはいかない。拙い音だったけれど、それも含めて僕のような気がした。
「うん、こんなものかな? 上手だよ、奏人」
「ありがとう、理沙。すごく楽しい」
月がようやく真上に昇ったころ。
僕は、ようやく悲愴のワンフレーズを習得した。
初めて自分で紡いだ旋律に、思わず視界がぼやけてしまう。
あの短気だった母が夢中になっていた理由が、今ならわかる気がする。
「でしょ? 私、教えるの上手みたい。でも奏人なら、もっと上手に弾けるよ。だって、奏人、ピアノ好きみたいだし。いつか私が教えられちゃったりして」
「……う、ん」
理沙は得意気に鼻を鳴らして、ピースサインを作る。
けれど僕は笑い返すことができなかった。
ピアノは、大嫌いだ。
でも、本当は好きだった。憧れていた。
けれど大嫌いな母のように弾くどころか、美しさのかけらもない自分の音に辟易した。
そしてその感情任せに、僕は母からピアノを奪った。
こんなにも美しくて、自分だけの世界に溺れられるピアノを。
母はその世界を存分に楽しんでいたのに。
奪って返すこともないまま、この世から去った。
許すなんて、甘えだった。僕は許す立場じゃない。
ようやく、そう気がついた。
「ピアノは嫌いだよ」
「え?」
拙い声が震え出す。
「嫌いだったんだ。憧れて母にピアノを教わったのに、上手に弾けなくて。母は怒って、僕もムキになっちゃって。結局ピアノはそれきりだった。でもあの時、ちゃんとピアノが綺麗なんだって、知れていたら良かった。僕は、何も知らなかった。知っていたら、母の幸せを奪うこともなかったかもしれないのに」
こんなの僕らしくない。今更、後悔?散々傷つけたくせに。握り込んだ拳に、爪をぐいと食い込ませた。
「そっか。そうだったんだね。奏人のいう理沙って人も、お母さん?」
「うん」
「そっか」
理沙は僕の言葉を最後まで黙って聴いていた。最初から全てを知っていたように、ゆっくりと相槌を打つ。しばらく夜の闇を見つめた後、小さく呟いた。
「私も最初からピアノが好きだったわけじゃないよ」
戯けた声音はもうどこにもない。
「でもピアノをしている時だけ、正気を保っていられたの。だから、好きなんだ。そうじゃないと、こんな自分への気持ち悪さでどうにかなっちゃう。……私ってね、変なの。ずっと、大切な人ができないんだ。人を好きになれないの」
そう語る声は、僕と同じく震えた声だった。
「だから想像なんかできないけど。もしもの話。もしもいつか大事な人ができたなら。私はきっと、失敗ばかりだと思う。どう接すればいいか、戸惑うばっかりで」
「……うん」
理沙が語り始めた内容は、まるで僕と母の記憶を辿っているみたいだった。ピアノを眺めながら、小さく首を縦に振る。
「きっと気持ちのコントロールがつかなくて、たくさん傷つける。傷つけられる。ずっと一人で守ってきた世界を、曝け出すのが怖くて、拒絶されたくなくて。距離を置く。私は変で、不器用だからさ。……もしかしたら奏人のお母さんも、そうだったのかもしれないよ。奏人が大切で、拒絶されたくなくて。その気持ち、よく分かるから」
不器用な、だけ。
拒絶されたくなかった、だけ。
理沙の言葉を反芻した。
母は僕に対して、愛情なんか注いだこともない。
そう思っていた。
実際に触れた母の手からは、温かみなんて少しも感じられなかった。
母に限って、そんなことはない。
そう思いながら、奥深くにしまい込んでいた記憶を辿った。
「っ」
黒く塗られた記憶たちが次第に鮮明になる。
幼稚園の頃。
手を繋いでもらえなかった。僕が手を差し出しても、その手が包まれることはなかった。
手のひらに透明な雪の結晶が落ちて、溶けていく。
そんな赤く染まった手のひらに、母は縫い目の不揃いな手袋を僕に被せた。
小学校の頃。
大好きな本を否定された。悪いところばかり見つける母が嫌で、泣き叫んだ。
けれどその夜。
小さな灯りの下で、母はその本を読んでいた。時々眉間に皺を寄せながら、一ページ一ページ丁寧に。
そして求めてもいない感想を、もらったんだっけ。
母がピアノを弾いている時。
僕がその音に吸い込まれたように耳を澄ましていると、母は嬉しそうに小さく笑っていた。
もしも、理沙の言う通りだったら。
不器用なだけなのだったら。
「……つっ」
最低なことをした。
理解してくれないと、大嫌いだと母を拒んだのは、僕の方だった。
母は、ちゃんと僕を見ていた。
思わず声が漏れて、口元に手を当てる。
ふと背中に温かな感触がした。
理沙だった。
「良かった、気づいてくれて。上手に愛せなくて……」
途中で言葉は途切れた。
その代わり、優しく温かい手のひらが背中を包む。
その手は、どこか見覚えがあった。高熱でうなされていた時、ふと目が覚めた時の感触だ。相変わらず眉間に皺が寄っていたけれど、僕の背中をさする手は、誰よりも温かくて、優しかった。
まさか。
まさかっ。
声を上げそうになって、思わず口を抑える。
全ての点が線となって流れ出す。
ああ、そうだったんだ。
頬に冷たい感触が流れた。
ポタッポタッ
音を立てながら、握り込んだ手のひらに楕円の染みを落としていく。
涙だった。
母が死んでも、流れなかった涙だった。
ようやく、分かった。
母が死んでから一年経って、ようやく。
僕は、愛されていた。
「……ううっ、……っ」
鍵盤に落ちた涙が月の光に反射して、ゆらゆらと僕たちを照らす。
「ごめんっ、なさい……っ」
ただ行き場のない感情が、ぐるぐると渦巻いた。
そんな僕を理沙は、優しい笑みで見守っていた。まるで、母のような笑顔で。
「もう大丈夫みたいだね。私も、もう行かないと」
そして涙も枯れ始めたころ、理沙は手をゆっくりと離した。
雪のように白いワンピースを纏う理沙は、椅子から降りて、僕の方へ向く。
窓から差し込んだ月光が、理沙の体を通り抜けて、ピアノに降り注いだ。
理沙の体は、どんどん透明度を増していく。
「行っちゃうんだね」
ようやく気がついたのに。
懐かしい笑顔に、仕草に、匂いに、声に、音色に。
あなたは僕の前からいなくなってしまう。
けれど、それを引き留める術もない。
僕もまた、どうしようもないくらいに不器用だった。
「うん。行かないと」
だから、代わりに。
「ありがとう、理沙」
「ううん」
「本当に、ありがとう」
「分かったって」
音楽室に、僕と理沙の笑い声が反響する。
どこかぎこちなくて、重なり切らない笑い声だった。
「じゃあね。私こそ、ありがとう」
そして理沙は、黒い髪を靡かせて、はにかんだ。その笑顔は、年相応の純粋な笑顔にも、優しく穏やかな笑顔にも見えた。
そして次の刹那。
夜の闇に溶け込んでいた月の光が僅かに強くなった。
その眩しさに目を細めると。
そして、目を開くと。
理沙はいなかった。
まるでこの闇に溶けるように、小さな細い一筋の光となって、消えっていった。淡い、太陽の透き通るような朗らかな匂いだけがを漂わせて。
思わず伸ばした手のひらは、空を掻くだけだった。
「ううっ……っ」
涙が溢れ出す。
堪えきれなかった。
母は、僕を愛してくれていた。
そして、それを僕に伝えにきてくれた。僕と同じ歳くらいの、少女になって。
どこまでも不器用な母らしい。
僕は上手く笑えていただろうか。
愛してくれていた母に、ありがとうは伝わっただろうか。
何度も、母の名前を口にする。
けれど、母はいない。もう、夜空を彩る星になった。
僕はピアノの鍵盤に指を置いた。
すっかり冷たくなったそれを温め直すように、拙い旋律を紡ぐ。
隣にいたはずの温度に身を委ねながら、あの曲を弾いた。
悲愴だった僕たちの、悲愴を。
儚く散っていった母の痕跡を辿るように、ゆっくりと。