そう、母は死んだ。
あの冬の朝に。
その日は、朝から雪が立ち込んでいた。窓の外に映る色が、白一色に染まって。
よく言えば綺麗で、悪く言えば迷惑だった。
そんな白い雪に溶けるように、母はこの世から去った。
大嫌いな母親の死としては、あまりにも呆気なかったと思う。
死因は、交通事故。
僕たちはつまらないことで、また喧嘩をしていた。その日はお互いヒートアップして、収拾がつかなくなっていった。
そんな日の朝に、トラックに轢かれた。
あの光景は今でも鮮明に思い出す。
白い世界に、突如現れた真っ赤な血。そこだけ世界が変わってしまったかのようだった。
そして動かなくなった母の体には、幾千もの痣が刻まれていた。
けれど、僕は何も思わなかった。
悲しみも湧くことはなく、ただ母親が死んだという現実だけが僕を襲った。
そう、ただそれだけ。
そして僕は祖父母の家に引き取られた。
「これからはばあちゃんたちがいるからね」
その一言で幕を上げた新しい生活は、あまりにも快適で、明るくて、眩しくて。背筋に怖気が走るくらいに、平和だった。
そして、何より居心地が悪かった。
僕に優しく触れてくる言葉に戸惑った。ど
こにいても、何をしていても、落ち着かない。
そして僕はさらに堕落していった。地の果てまで堕ちてしまった。
「そう、なんだ。それは、辛かった、ね」
「……ううん」
理沙はしばらくの間俯いていた。
辛い記憶を引き出したとでも思ったのだろうか。
小さな指先をぐるぐると交差させながら、困ったように眉を八の字に寄せている。
そのどんよりと沈んだ空気に、先に音を上げたのは僕だった。
「大丈夫だから、ピアノ、弾いてよ。僕は教えてもらっても、全然弾けなくて。弾いてみてほしい」
スラスラと流れるように、嘘が溢れ出す。
「じゃあ、」
理沙が顔をあげる。
「じゃあ、私が大好きな曲」
そう言うと、理沙は丁寧に鍵盤に指先を重ねた。そして、音を紡いでいく。
母のことを思い出したからだろうか。
また理沙と、あのころの母が重なって見えた。その横顔に心臓が鳴った。
そして理沙が演奏したのは、クラシックだった。
「あ……」
思わず息を呑む。
それは母が、決まって弾く曲だった。一日に何度も耳にした、脳裏に刻まれているあの曲。
低い音の中で、優しく滑らかなメロディが歌い出す。
あの光景がふと蘇る。ピアノを弾く母と、静かな空気と、後ろから月の輪郭が覗く夜。
気を緩めれば、涙が溢れてしまいそうだった。
初めてピアノのメロディを聴いた時の感動が思い出される。
母が弾いていた曲は、メロディは、こんなにも綺麗だったんだ。
僕はその、母とは思えないメロディが嫌いだった。
けれど思い返せば、母が奏でるクラシックは美しかった。
「これは?」
演奏を終えた理沙に問いかける。
「ベートーヴェン作曲の悲愴第二楽章。昔からずっと好きなんだ。この綺麗なメロディがお気に入りでね。いつか、大切な人ができたときに聞かせたいと思ってる。素敵でしょ?」
鍵盤をポロン、と弾かせながら照れくさそうに笑う。
悲愴、第二楽章。
理沙の言う通り、綺麗なメロディだ。人の痛みを知っているような、夜の暗さを知っているような、どこか寂しくて、優しい音楽。
「うん、綺麗」
「あ、待って。奏人が大切な人ってわけじゃっ。いや、そういうこともないかもだけど……」
「あはっ。うん、分かってるよ」
けれど、そんな大人びた笑顔から一転。焦ったようにそう言うものだから、僕まで笑ってしまう。
そういえば、こんな風に笑ったのは久しぶりだった。
ここにいるのは、正体不明の少女。
それなのに理沙と話していると、どこか落ち着いている自分がいた。懐かしさすら感じる。
今なら、僕もまたピアノを好きになれるかもしれない。あの時憧れた音色を、僕も紡ぎ出せるかもしれない。
ふとそう思った。
それにピアノが嫌いではなくなったら、少しは母を許せるような気がした。
「あの、」
「ん?」
「僕にも、教えてくれないかな? 少しだけでいいから」
大嫌いなはずのピアノに手を添える。
久しぶりに触れた鍵盤は、冷たい。けれどその冷たさが、心地いい。
指先からすうっと邪念が消えていくみたいだ。
僕の言葉に、理沙が嬉しそうに口角を上げる。
「いいよ。教えてあげる」