表示設定
表示設定
目次 目次




一章 進路 4

ー/ー



以上が唐辛子事件の顛末である。今ではお笑い草になるが当時は大変だったのだ。竹浦は「何をやってるんだ」と笑っている。「二人とも、昔はやんちゃだったんだな」
「私は大人しかったですよ」江梨は訂正する。「奈々が巻き込んでくるだけです」
「どうだかね」母が横槍を入れる。その声は笑いを堪えていた。「一緒になって遊んでれば同じよ」 
「一緒にバカなことをやれる友達というのは、かけがえのないものですよね」自分に言い聞かせるように竹浦は頷いている。 
「振り回されて、疲れるだけですよ」照れ臭くなり、つい憎まれ口を叩いてしまう。本心では竹浦の言葉に共感していた。奈々は落ち込むことも笑うことも、楽しむことも、何に対しても一生懸命なのだ。そんな姿に憧れているからこそ、不満を言いつつも江梨は彼女について行くのだ。
「それで、進路の話だけど」雑談をいくつかした後で、竹浦が切り出した。成績表に目を向けている。江梨は全身に緊張が走るのを感じた。「成績は順調だね。先生としては是非、外の大学に進学して欲しいんだけど」
 ありがとうございます、と母が儀礼的に頭を下げる。江梨は運動がからっきし苦手だが勉強は得意だ。奈々はどちらも平均的だが歩美は運動神経が良い。時々、ストイックに島を走っている姿を見かけることがある。
「江梨さんは進路についてどう考えているのかな?」
「今のところは」と言葉を切り、目を伏せる。『妥協だよ』と由梨の声が頭に響く。「『彩』を継ごうかなと考えています」
「江梨」母が溜息をつく。
「江梨さんは家業を継ごうと考えているんだね」竹浦が頷いた。「それも立派な選択だと思うよ」
 竹浦の言葉に、母が(うやうや)しく頭を下げる。
「先生の友達も、『彩』に泊まらせた時は喜んでおりました。『朝起きて、海から見える景色が最高だ』って」
「勿体無いお言葉です」と額が机につく程に母は頭を下げる。
 江梨はまるで発表会を終えた後のように緊張が解け、安堵していた。竹浦は生徒の言葉を頭ごなしに否定しないのだ。物腰穏やかな姿勢が、生徒達から慕われる理由の一つだった。
「お母様は、どのように考えておりますか?」
「私は、好きなことを勉強して、学んでほしいと思っております。それこそ、島の外に出て、考えを深めるのも良いでしょう」母は一度言葉を切った後でおどけてみせる。「私はずっと島で暮らしてきたので。それに、娘の年齢の頃は、民宿を……家業を継ぐのが嫌で堪らなかったんですよ」
「そうなの?」江梨は驚きを隠せなかった。「母さんは継ぐのが嫌だったの?」
 母が『彩』を継ぐことを拒んでいたことなど、初耳である。楽しそうにお客様をもてなす姿は、そのような様子を微塵も感じさせない。『良い旅行になりました』と笑顔で帰っていくお客様が、翌年に再び訪れる。そのような光景を目にする度に、母が輝かしく見えたものだ。
「あれ?話してなかったっけ?」母はキョトンとした表情だ。
「進路の話になると怒ってばかりじゃん。初めて聞いたよ」
 ちょっと、と母が(たしな)める。「昔はね。今はそんなことないわよ」
 竹浦は目を細めていた。「お母様が島に残ってくれたからこそ、友人を連れて来れたんです。かけがえのないお仕事ですよ」
 ありがとうございます、と母は三度頭を下げる。「家業を継ぐのは、その後でいいと思います」
 江梨は心が軽くなるような、素直な感情で母の言葉を聞いていた。条件反射のように反抗し、自身の進路のことばかりで、母の半生を(ほとん)ど知らないことに気づく。耳を塞ぐのではなく、話を聞いてみるべきかと思い始めていた。「お母さん——」
 江梨の言葉を遮るように、携帯電話の着信音が教室に鳴り響く。「ごめんなさい、マナーモードにしてなくて」と母は謝る。竹浦がどうぞ、と促した。
 母は申し訳なさそうに電話に出る。「ええ?はい。そうなの?わかりました」
「何かありましたか?」竹浦が心配そうに問いかける。
「すみません、急な仕事で戻らなくてはいけなくなりまして」
「わかりました。では面談はこれまでにしましょう。まだ時間はあります」竹浦は江梨に目を向ける。「聞きたいことも色々と出てきたでしょうし、両親と改めて話し合ってみてください」
 今日はありがとうございました、と母が立った状態で頭を下げる。身体に染み付いているのだろう。その姿はお客様を見送る時と同じで、相手への敬意と感謝が込められているように、江梨には見えた。
「あ、母さん、鍵」と江梨は自転車の鍵を渡す。この島は公共交通機関や自転車が主な移動手段で、母はバスで来ていたはずだ。今からでは次のバスが来るまでに時間がかかってしまう。
「ありがとう」と母は言い終わる前に慌ただしく教室を出て行った。
 竹浦は頭を上げ、「いいお母様だね」と江梨を見た。「仕事の合間を縫って来てくれるし、江梨のことをしっかり考えている」
 乱れた髪で教室に入り、電話を受け、慌てて仕事に戻っていく母の姿を思い出す。以前の江梨だったら恥ずかしさを感じ、文句の一つでも言っていたことだろう。しかし、子供の頃は継ぐことを嫌がっていた話を聞いて、受け止め方が変化したことに気づく。
「照れくさいけど、そう感じます」江梨の胸の中には誇らしさのようなものが満ちていた。しみじみと呟く。「働く大人って、かっこいいですね」
 竹浦は驚き、目をぱちくりとさせている。鳩が豆鉄砲を喰らったような表情だった。「先生は働くまで、そのことに気づけなかったぞ」
 その表情を見て江梨は頬を緩めてしまう。竹浦は頭を掻いて苦笑する。「先生が高校生の頃は、両親に反抗ばかりだったよ。なんだろうな。大人が情けなく、かっこ悪く見えていたんだ」
 江梨は頷く。「私もそう思ってましたよ。大抵の人が島の外へ出ていくのに、どうして両親は残ったんだろうって」窓の外には沈む夕日が海を煌びやかに照らしていた。「母が体調を崩してからは、家や仕事の手伝いをするようになって、『私がしっかりしなきゃ』そう思うようになったんです」
「江梨は大人だね。責任感がある」竹浦は神妙な表情を浮かべ、唇をきゅっと引き締めている。「だからこそ、先生は心配だ。無理をしているんじゃないかって」
 江梨は胸に針が刺さったような気分になる。ビクッと身体が少し動いてしまったと思う。「そんなことないですよ。私がやりたくてやってるだけなので」
「もし家が『彩』じゃなかったとしたら、やりたいことや、気になっていることはないのか?」
「そうですね」再び、由梨との会話が頭に()ぎる。「気になっていることはありますが、それが自分に向いているのかどうかは、わかりません」
「何が気になるんだ?」
「子供と関わる仕事ですかね」まだ全然知りませんけど、と江梨は頭を掻く。
「いいじゃないか」竹浦は身を乗り出した。その表情は嬉しさで満ち溢れていた。「江梨は物腰穏やかだし、子供に好かれると思うぞ」
「まだわかりませんって」竹浦が話を進めようとするので江梨は慌てて押し留める。「子供が好きなだけで、仕事にするのは違うと思うし」
「あのなあ」竹浦は頭を掻く。「若いうちから自分の可能性を狭めるんじゃない」
「先生は、教師の仕事が向いてると思ったんですか?」呆れるような口調に、江梨はムッとしてしまう。
「そうだな」竹浦は考え込むように腕を組んだ。「じいちゃんも母親も、教師だったからな。向く、向かない以前にそうなるものだと思っていたよ」
「大人がカッコ悪いと思っていたのに?」
「カッコ悪いと思っていたのに、だ」敢えて江梨の口調の真似をする。「ある時にさ、じいちゃんの教え子が会いに来たんだよ。喜ぶ二人の姿を見てたらさ、かっこいいなって思ったんだ。そんな単純な話だよ」
 竹浦が照れ臭そうに笑う。先生の話は、江梨自身が母に対して浮かんだ感情と同様だった。
「先生の好きな詩があるんだ」先生はある有名な文豪の詩を(そらん)じてみせた。その詩は鬱々とした感情を、爽やかな風で吹き飛ばしてくれるようなものだった。その場には純粋な気持ちだけが残っていた。島の外から吹いてくる風が、江梨の背中を押してくれるように思える。「すごく、良い詩ですね」
「じいちゃんが、耳にタコができるくらい言ってきたからな。嫌でも覚えてしまったんだ」竹浦が苦い表情を浮かべる。その後で申し訳なさそうに切り出した。「あのな、江梨」
「なんでしょう?」
「先生、前にこの話、授業でしているぞ」
「そ、そうだっけ?」江梨は愛想笑いをして誤魔化していると、外から名前を呼ぶ声がした。逃げるように窓から顔を出すと、校庭で歩美と奈々が手を振っている。「一緒に帰ろー」
「わかったー。今行くねー」江梨は二人に向かって叫び、竹浦に向き直る。「というわけで、呼ばれちゃったみたいだし、先生また明日ね」
「まったく」と竹浦はため息をつき、苦笑する。「はい、また明日」


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 一章 進路 5


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



以上が唐辛子事件の顛末である。今ではお笑い草になるが当時は大変だったのだ。竹浦は「何をやってるんだ」と笑っている。「二人とも、昔はやんちゃだったんだな」
「私は大人しかったですよ」江梨は訂正する。「奈々が巻き込んでくるだけです」
「どうだかね」母が横槍を入れる。その声は笑いを堪えていた。「一緒になって遊んでれば同じよ」 
「一緒にバカなことをやれる友達というのは、かけがえのないものですよね」自分に言い聞かせるように竹浦は頷いている。 
「振り回されて、疲れるだけですよ」照れ臭くなり、つい憎まれ口を叩いてしまう。本心では竹浦の言葉に共感していた。奈々は落ち込むことも笑うことも、楽しむことも、何に対しても一生懸命なのだ。そんな姿に憧れているからこそ、不満を言いつつも江梨は彼女について行くのだ。
「それで、進路の話だけど」雑談をいくつかした後で、竹浦が切り出した。成績表に目を向けている。江梨は全身に緊張が走るのを感じた。「成績は順調だね。先生としては是非、外の大学に進学して欲しいんだけど」
 ありがとうございます、と母が儀礼的に頭を下げる。江梨は運動がからっきし苦手だが勉強は得意だ。奈々はどちらも平均的だが歩美は運動神経が良い。時々、ストイックに島を走っている姿を見かけることがある。
「江梨さんは進路についてどう考えているのかな?」
「今のところは」と言葉を切り、目を伏せる。『妥協だよ』と由梨の声が頭に響く。「『彩』を継ごうかなと考えています」
「江梨」母が溜息をつく。
「江梨さんは家業を継ごうと考えているんだね」竹浦が頷いた。「それも立派な選択だと思うよ」
 竹浦の言葉に、母が|恭《うやうや》しく頭を下げる。
「先生の友達も、『彩』に泊まらせた時は喜んでおりました。『朝起きて、海から見える景色が最高だ』って」
「勿体無いお言葉です」と額が机につく程に母は頭を下げる。
 江梨はまるで発表会を終えた後のように緊張が解け、安堵していた。竹浦は生徒の言葉を頭ごなしに否定しないのだ。物腰穏やかな姿勢が、生徒達から慕われる理由の一つだった。
「お母様は、どのように考えておりますか?」
「私は、好きなことを勉強して、学んでほしいと思っております。それこそ、島の外に出て、考えを深めるのも良いでしょう」母は一度言葉を切った後でおどけてみせる。「私はずっと島で暮らしてきたので。それに、娘の年齢の頃は、民宿を……家業を継ぐのが嫌で堪らなかったんですよ」
「そうなの?」江梨は驚きを隠せなかった。「母さんは継ぐのが嫌だったの?」
 母が『彩』を継ぐことを拒んでいたことなど、初耳である。楽しそうにお客様をもてなす姿は、そのような様子を微塵も感じさせない。『良い旅行になりました』と笑顔で帰っていくお客様が、翌年に再び訪れる。そのような光景を目にする度に、母が輝かしく見えたものだ。
「あれ?話してなかったっけ?」母はキョトンとした表情だ。
「進路の話になると怒ってばかりじゃん。初めて聞いたよ」
 ちょっと、と母が|嗜《たしな》める。「昔はね。今はそんなことないわよ」
 竹浦は目を細めていた。「お母様が島に残ってくれたからこそ、友人を連れて来れたんです。かけがえのないお仕事ですよ」
 ありがとうございます、と母は三度頭を下げる。「家業を継ぐのは、その後でいいと思います」
 江梨は心が軽くなるような、素直な感情で母の言葉を聞いていた。条件反射のように反抗し、自身の進路のことばかりで、母の半生を|殆《ほとん》ど知らないことに気づく。耳を塞ぐのではなく、話を聞いてみるべきかと思い始めていた。「お母さん——」
 江梨の言葉を遮るように、携帯電話の着信音が教室に鳴り響く。「ごめんなさい、マナーモードにしてなくて」と母は謝る。竹浦がどうぞ、と促した。
 母は申し訳なさそうに電話に出る。「ええ?はい。そうなの?わかりました」
「何かありましたか?」竹浦が心配そうに問いかける。
「すみません、急な仕事で戻らなくてはいけなくなりまして」
「わかりました。では面談はこれまでにしましょう。まだ時間はあります」竹浦は江梨に目を向ける。「聞きたいことも色々と出てきたでしょうし、両親と改めて話し合ってみてください」
 今日はありがとうございました、と母が立った状態で頭を下げる。身体に染み付いているのだろう。その姿はお客様を見送る時と同じで、相手への敬意と感謝が込められているように、江梨には見えた。
「あ、母さん、鍵」と江梨は自転車の鍵を渡す。この島は公共交通機関や自転車が主な移動手段で、母はバスで来ていたはずだ。今からでは次のバスが来るまでに時間がかかってしまう。
「ありがとう」と母は言い終わる前に慌ただしく教室を出て行った。
 竹浦は頭を上げ、「いいお母様だね」と江梨を見た。「仕事の合間を縫って来てくれるし、江梨のことをしっかり考えている」
 乱れた髪で教室に入り、電話を受け、慌てて仕事に戻っていく母の姿を思い出す。以前の江梨だったら恥ずかしさを感じ、文句の一つでも言っていたことだろう。しかし、子供の頃は継ぐことを嫌がっていた話を聞いて、受け止め方が変化したことに気づく。
「照れくさいけど、そう感じます」江梨の胸の中には誇らしさのようなものが満ちていた。しみじみと呟く。「働く大人って、かっこいいですね」
 竹浦は驚き、目をぱちくりとさせている。鳩が豆鉄砲を喰らったような表情だった。「先生は働くまで、そのことに気づけなかったぞ」
 その表情を見て江梨は頬を緩めてしまう。竹浦は頭を掻いて苦笑する。「先生が高校生の頃は、両親に反抗ばかりだったよ。なんだろうな。大人が情けなく、かっこ悪く見えていたんだ」
 江梨は頷く。「私もそう思ってましたよ。大抵の人が島の外へ出ていくのに、どうして両親は残ったんだろうって」窓の外には沈む夕日が海を煌びやかに照らしていた。「母が体調を崩してからは、家や仕事の手伝いをするようになって、『私がしっかりしなきゃ』そう思うようになったんです」
「江梨は大人だね。責任感がある」竹浦は神妙な表情を浮かべ、唇をきゅっと引き締めている。「だからこそ、先生は心配だ。無理をしているんじゃないかって」
 江梨は胸に針が刺さったような気分になる。ビクッと身体が少し動いてしまったと思う。「そんなことないですよ。私がやりたくてやってるだけなので」
「もし家が『彩』じゃなかったとしたら、やりたいことや、気になっていることはないのか?」
「そうですね」再び、由梨との会話が頭に|過《よ》ぎる。「気になっていることはありますが、それが自分に向いているのかどうかは、わかりません」
「何が気になるんだ?」
「子供と関わる仕事ですかね」まだ全然知りませんけど、と江梨は頭を掻く。
「いいじゃないか」竹浦は身を乗り出した。その表情は嬉しさで満ち溢れていた。「江梨は物腰穏やかだし、子供に好かれると思うぞ」
「まだわかりませんって」竹浦が話を進めようとするので江梨は慌てて押し留める。「子供が好きなだけで、仕事にするのは違うと思うし」
「あのなあ」竹浦は頭を掻く。「若いうちから自分の可能性を狭めるんじゃない」
「先生は、教師の仕事が向いてると思ったんですか?」呆れるような口調に、江梨はムッとしてしまう。
「そうだな」竹浦は考え込むように腕を組んだ。「じいちゃんも母親も、教師だったからな。向く、向かない以前にそうなるものだと思っていたよ」
「大人がカッコ悪いと思っていたのに?」
「カッコ悪いと思っていたのに、だ」敢えて江梨の口調の真似をする。「ある時にさ、じいちゃんの教え子が会いに来たんだよ。喜ぶ二人の姿を見てたらさ、かっこいいなって思ったんだ。そんな単純な話だよ」
 竹浦が照れ臭そうに笑う。先生の話は、江梨自身が母に対して浮かんだ感情と同様だった。
「先生の好きな詩があるんだ」先生はある有名な文豪の詩を|誦《そらん》じてみせた。その詩は鬱々とした感情を、爽やかな風で吹き飛ばしてくれるようなものだった。その場には純粋な気持ちだけが残っていた。島の外から吹いてくる風が、江梨の背中を押してくれるように思える。「すごく、良い詩ですね」
「じいちゃんが、耳にタコができるくらい言ってきたからな。嫌でも覚えてしまったんだ」竹浦が苦い表情を浮かべる。その後で申し訳なさそうに切り出した。「あのな、江梨」
「なんでしょう?」
「先生、前にこの話、授業でしているぞ」
「そ、そうだっけ?」江梨は愛想笑いをして誤魔化していると、外から名前を呼ぶ声がした。逃げるように窓から顔を出すと、校庭で歩美と奈々が手を振っている。「一緒に帰ろー」
「わかったー。今行くねー」江梨は二人に向かって叫び、竹浦に向き直る。「というわけで、呼ばれちゃったみたいだし、先生また明日ね」
「まったく」と竹浦はため息をつき、苦笑する。「はい、また明日」