一章 進路 3
ー/ー
面談までの期間はあっという間に過ぎてしまった。母とは仕事で時間が合わず、父は「やりたいことがあれば言いなさい」とのことだった。
「ごめんなさい、遅くなって」バタバタとスリッパの音を響かせて母が教室に入ってきた。『彩』での割烹着姿ばかり見てきたのでスーツ姿は江梨にとって新鮮だった。いつ以来だろう、と考えたが恐らく入学式以来だ。髪は縛っているがところどころが乱れている。寸前まで仕事をしていたのだろう。既に江梨と竹浦は机に座って向き合っていた。
「いえいえ、大丈夫ですよ。では座ってください」竹浦が椅子を引いて着席を促した。母は会釈をし、腰を下ろす。
内容は主に学校での様子と成績のこと、そしてこれからの進路についてだ。様子については奈々の他に外からの転入生である歩美と仲良くしていることを褒められた。「奈々さんとは幼稚園の頃から一緒なんだっけ?」
「そうですね。私はいつも振り回されてばかりで……まあ腐れ縁というやつです」江梨は苦笑すると隣に座る母が付け足した。「『唐辛子事件』を思い出すわね」
「唐辛子?」竹浦は首を傾げる。
奈々は基本的に穏やかな性格だが、島について語ったように、時々おどけたような態度をとって江梨達を呆れさせる。彼女との思い出で忘れられないのは『唐辛子事件』だ。
小学二年生の頃、奈々は「島を探検しよう」と言い出した。当時の江梨は絵を描くことに夢中で、チラシの裏に好きな漫画のキャラクターなどを書いて楽しんでいた。「家で遊ぼうよ」と提案する江梨に対し「外に行こうよ」と押し切られたのを今でも覚えている。奈々に手を引かれ、『彩』を出た。海岸線を通り、山道を歩いた。木の枝を振り回し、勇ましく進んでいく奈々。江梨は虫や蛇が出てこないかビクビクしていた。しかしその勇ましさも長くは続かず、道に迷ってしまったのだ。喧しく蝉が鳴いていたので、恐らく夏休みの出来事のはずだ。
「ここどこー」と奈々が辺りを見渡し始めた。ほろりほろりと頬に涙が流れている。江梨は「だから家で絵を描こうって言ったのに」と唇を尖らせた。強い口調で奈々を責めてしまったのは、不安と恐怖を打ち消すことで精一杯だったからだ。
「だって、だって」奈々はひっくひっくと、しゃくりあげている。「山の上から見える景色を、江梨ちゃんに見せたかったんだもん」
江梨は胸にちくりとした罪悪感を覚える。いつも突拍子もない彼女だが、それは相手を困らせたいのではない。空回りも珍しくないが、相手を想ってのことなのだ。気がつくと奈々の手を掴み、歩き出していた。
「どこに行くの?」
「どこって、見せてくれるんでしょ、頂上からの景色を」頂上に登れば、そこから方角が特定できると思ったのだ。
藪を掻き分け、進んで行くと屋根の付いた東屋と、展望台が見えてきた。「あっ、あそこ!」と奈々は喜び、走り出す。涙はどこへいったのか、と江梨は呆れながらも追いかけた。
山の頂上には島を一望できる展望台があった。手前には住宅や商店街が見下ろせる。その先にはどこまでも続いていく大海原が見渡せた。「この景色を見せたかったんだあ」と奈々は目を輝かせている。その姿を見ているだけで、江梨も嬉しい気持ちになった。
「あっ、『彩』だ」奈々が指を差す。その先には見慣れた建物があった。「よかった。これで帰れるね」
海からやってきた風が、周囲の木々をかさかさと揺らす。その風を受けながら江梨は安堵と高揚感に包まれていた。「奈々ちゃんはこんな綺麗な景色を知ってるなんてすごいね!教えてくれてありがとう」
「ううん。江梨ちゃんこそ、連れてきてくれてありがとう」
互いに照れ臭くなり、笑い合っていると、老齢の女性から声をかけられた。
「随分と楽しそうねえ」穏やかな表情でころころと笑っているのは悦子だ。彼女は生まれてからずっと島育ちの人で、名前を聞けば、大抵の人は知っている。「何をしてたんだい?」
「今日はね、山からの景色を見にきたんだよ」奈々が得意げに答えると悦子は嬉しそうに表情を和らげた。
「そうなの。私もね、この景色を見るのが昔から大好きなのよ」
「悦子おばちゃんも一緒だね」
「そうだねえ」
「悦子おばちゃんは何してたの?」江梨は聞くと悦子は麻でできたカゴを掲げた。
「山菜取りだよ」
「すごーい」奈々がカゴの中身を見て声を上げる。「いっぱい獲れたんだね」
「そうだよ。せっかくだし、上がっていくかい?」悦子の誘いに奈々と顔を見合わせる。一瞬迷ったが「お菓子があるよ」と言うので行く事にした。
悦子の家は山を降りて住宅が建ち並ぶ場所にあった。高台に面しており、そこを下っていくと海岸や『彩』へとつながる道へと続くのだ。平屋で、和室が何部屋もある広い家だった。奈々にとっては探検しがいがあるのか部屋中を走り回っている。「ちょっと待ってよ」と江梨はその背中を追いかけた。昔から彼女には振り回されてしまうのだ。
一周し、居間に戻ると一枚の写真の前で奈々は立ち止まっていた。「江梨ちゃん見てよ。古い写真だ」その写真は白黒だ。玄関を背景に驚いて目を見開く女の子と、両目をぎゅっと閉じている男の子が写っている。女の子が悦子だろうか。
悦子がお菓子と飲み物を持って居間に入ってくる。江梨は写真を指差して訊ねた。「ねえ、この写真は悦子おばちゃん?」
「そうだよお」悦子は懐かしむように目を細める。「ちょうど、あなた達くらいの頃だったかな」
「じゃあさ、この男の子は?悦子おばちゃんが昔好きだった人?」奈々は無邪気に質問をする。悦子には『武雄おじさん』がおり、写真とは雰囲気が似ても似つかなかったため、昔の人だと思ったのだろう。江梨も同じことを考えていたので「ねえ、そうなの悦子おばちゃん」と声を上げた。
「そうねえ」矢継ぎ早にされる質問に悦子は笑い泣きなのか、泣いているのか、よくわからない表情を浮かべ、目尻の涙を拭う。「私の、好きだった人よ」
きゃー、と江梨は驚嘆の声を上げる。恐らく、先程の奈々のように目を輝かせていただろう。シンデレラや白馬の王子様の話を聞いているような気分だった。当の奈々はぴょんぴょんと飛び跳ねている。悦子が話を打ち切るように手を叩く。「さ、お菓子食べましうか」
奈々と一緒に悲鳴を上げたのはお菓子を食べ終え、庭を走り回っている時だった。その時の悦子は居間でテレビを見ており、縁側の端の方が死角となっていた。
「うわあ、辛そう」と奈々が呟く。そこには唐辛子が干されており、二人でなんとは無しに触ってしまったのだ。強い風が吹き、目を掻くと激痛が走り、「痛い!」悲鳴を上げた。悦子が驚いて駆け寄ってきた。
状況を察した悦子は慌てて水道で目を洗わせた。痛みが少し引いたがそれでもすぐに治るものではない。ちょうど散歩から帰ってきた武雄が大慌てで走り回り、タオルで包んだ保冷剤を目に当ててくれた。
それから蜂に刺されたような腫れた目で奈々と数日間を過ごし、二度と唐辛子に触らないと誓ったのであった。
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「ごめんなさい、遅くなって」バタバタとスリッパの音を響かせて母が教室に入ってきた。『彩』での割烹着姿ばかり見てきたのでスーツ姿は江梨にとって新鮮だった。いつ以来だろう、と考えたが恐らく入学式以来だ。髪は縛っているがところどころが乱れている。寸前まで仕事をしていたのだろう。既に江梨と竹浦は机に座って向き合っていた。
「いえいえ、大丈夫ですよ。では座ってください」竹浦が椅子を引いて着席を促した。母は会釈をし、腰を下ろす。
内容は主に学校での様子と成績のこと、そしてこれからの進路についてだ。様子については奈々の他に外からの転入生である歩美と仲良くしていることを褒められた。「奈々さんとは幼稚園の頃から一緒なんだっけ?」
「そうですね。私はいつも振り回されてばかりで……まあ腐れ縁というやつです」江梨は苦笑すると隣に座る母が付け足した。「『唐辛子事件』を思い出すわね」
「唐辛子?」竹浦は首を傾げる。
奈々は基本的に穏やかな性格だが、島について語ったように、時々おどけたような態度をとって江梨達を呆れさせる。彼女との思い出で忘れられないのは『唐辛子事件』だ。
小学二年生の頃、奈々は「島を探検しよう」と言い出した。当時の江梨は絵を描くことに夢中で、チラシの裏に好きな漫画のキャラクターなどを書いて楽しんでいた。「家で遊ぼうよ」と提案する江梨に対し「外に行こうよ」と押し切られたのを今でも覚えている。奈々に手を引かれ、『彩』を出た。海岸線を通り、山道を歩いた。木の枝を振り回し、勇ましく進んでいく奈々。江梨は虫や蛇が出てこないかビクビクしていた。しかしその勇ましさも長くは続かず、道に迷ってしまったのだ。|喧《やかま》しく蝉が鳴いていたので、恐らく夏休みの出来事のはずだ。
「ここどこー」と奈々が辺りを見渡し始めた。ほろりほろりと頬に涙が流れている。江梨は「だから家で絵を描こうって言ったのに」と唇を尖らせた。強い口調で奈々を責めてしまったのは、不安と恐怖を打ち消すことで精一杯だったからだ。
「だって、だって」奈々はひっくひっくと、しゃくりあげている。「山の上から見える景色を、江梨ちゃんに見せたかったんだもん」
江梨は胸にちくりとした罪悪感を覚える。いつも突拍子もない彼女だが、それは相手を困らせたいのではない。空回りも珍しくないが、相手を想ってのことなのだ。気がつくと奈々の手を掴み、歩き出していた。
「どこに行くの?」
「どこって、見せてくれるんでしょ、頂上からの景色を」頂上に登れば、そこから方角が特定できると思ったのだ。
藪を掻き分け、進んで行くと屋根の付いた東屋と、展望台が見えてきた。「あっ、あそこ!」と奈々は喜び、走り出す。涙はどこへいったのか、と江梨は呆れながらも追いかけた。
山の頂上には島を一望できる展望台があった。手前には住宅や商店街が見下ろせる。その先にはどこまでも続いていく大海原が見渡せた。「この景色を見せたかったんだあ」と奈々は目を輝かせている。その姿を見ているだけで、江梨も嬉しい気持ちになった。
「あっ、『彩』だ」奈々が指を差す。その先には見慣れた建物があった。「よかった。これで帰れるね」
海からやってきた風が、周囲の木々をかさかさと揺らす。その風を受けながら江梨は安堵と高揚感に包まれていた。「奈々ちゃんはこんな綺麗な景色を知ってるなんてすごいね!教えてくれてありがとう」
「ううん。江梨ちゃんこそ、連れてきてくれてありがとう」
互いに照れ臭くなり、笑い合っていると、老齢の女性から声をかけられた。
「随分と楽しそうねえ」穏やかな表情でころころと笑っているのは悦子だ。彼女は生まれてからずっと島育ちの人で、名前を聞けば、大抵の人は知っている。「何をしてたんだい?」
「今日はね、山からの景色を見にきたんだよ」奈々が得意げに答えると悦子は嬉しそうに表情を和らげた。
「そうなの。私もね、この景色を見るのが昔から大好きなのよ」
「悦子おばちゃんも一緒だね」
「そうだねえ」
「悦子おばちゃんは何してたの?」江梨は聞くと悦子は麻でできたカゴを掲げた。
「山菜取りだよ」
「すごーい」奈々がカゴの中身を見て声を上げる。「いっぱい獲れたんだね」
「そうだよ。せっかくだし、上がっていくかい?」悦子の誘いに奈々と顔を見合わせる。一瞬迷ったが「お菓子があるよ」と言うので行く事にした。
悦子の家は山を降りて住宅が建ち並ぶ場所にあった。高台に面しており、そこを|下《くだ》っていくと海岸や『彩』へとつながる道へと続くのだ。平屋で、和室が何部屋もある広い家だった。奈々にとっては探検しがいがあるのか部屋中を走り回っている。「ちょっと待ってよ」と江梨はその背中を追いかけた。昔から彼女には振り回されてしまうのだ。
一周し、居間に戻ると一枚の写真の前で奈々は立ち止まっていた。「江梨ちゃん見てよ。古い写真だ」その写真は白黒だ。玄関を背景に驚いて目を見開く女の子と、両目をぎゅっと閉じている男の子が写っている。女の子が悦子だろうか。
悦子がお菓子と飲み物を持って居間に入ってくる。江梨は写真を指差して訊ねた。「ねえ、この写真は悦子おばちゃん?」
「そうだよお」悦子は懐かしむように目を細める。「ちょうど、あなた達くらいの頃だったかな」
「じゃあさ、この男の子は?悦子おばちゃんが昔好きだった人?」奈々は無邪気に質問をする。悦子には『武雄おじさん』がおり、写真とは雰囲気が似ても似つかなかったため、昔の人だと思ったのだろう。江梨も同じことを考えていたので「ねえ、そうなの悦子おばちゃん」と声を上げた。
「そうねえ」矢継ぎ早にされる質問に悦子は笑い泣きなのか、泣いているのか、よくわからない表情を浮かべ、目尻の涙を拭う。「私の、好きだった人よ」
きゃー、と江梨は驚嘆の声を上げる。恐らく、先程の奈々のように目を輝かせていただろう。シンデレラや白馬の王子様の話を聞いているような気分だった。当の奈々はぴょんぴょんと飛び跳ねている。悦子が話を打ち切るように手を叩く。「さ、お菓子食べましうか」
奈々と一緒に悲鳴を上げたのはお菓子を食べ終え、庭を走り回っている時だった。その時の悦子は居間でテレビを見ており、縁側の端の方が死角となっていた。
「うわあ、|辛《から》そう」と奈々が呟く。そこには唐辛子が干されており、二人でなんとは無しに触ってしまったのだ。強い風が吹き、目を掻くと激痛が走り、「痛い!」悲鳴を上げた。悦子が驚いて駆け寄ってきた。
状況を察した悦子は慌てて水道で目を洗わせた。痛みが少し引いたがそれでもすぐに治るものではない。ちょうど散歩から帰ってきた武雄が大慌てで走り回り、タオルで包んだ保冷剤を目に当ててくれた。
それから蜂に刺されたような腫れた目で奈々と数日間を過ごし、二度と唐辛子に触らないと誓ったのであった。