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赤い霙

ー/ー



 私が8歳の頃、お母さんが交通事故で亡くなった。
あの雪の季節、操り人形のように体を捻じ曲げ、ぴくりとも動かなくなったお母さんの姿が、今でも網膜に焼きついている。

 お母さんを殺したのは20歳の男だった。
男は雪道をノーマルタイヤのまま、速度制限を40kmオーバーして走行していた。
裁判所で検事が事故の調書を読み上げ、あの男を追及した声が今でもはっきりと耳の奥に残っている。

 けれど、男に下された判決は3年間の執行猶予だった。
人一人が殺されたのに、あの男は牢獄の中には入れられなかった。
お父さんが悔し涙を流しながら、8歳の私に説明した言葉を、今でも私は忘れることができない。
あの日から12年が経った今でも、あの男はのうのうとこの町で生きている。



 20歳になった私は、車の免許を取得した。
あの男に復讐するためだ。
私の苦しみを、あの男にも味わわせてやりたかった。
大好きだったお母さんが永遠に消えてしまった事実が、大した罰も受けずあの男が生きている事実が、ずっとずっと私を苦しめ続けてきた。

 あの男は塾の講師をしていた。
3階建ての小さなビルの1階で、子供たちを相手取って勉強を教えていた。
事故の後あの男の住所が割れ、それから何年もの間私はあの男の素性を探り続けたから知っている。
家を買い、家庭を持ち、今では事故のことも忘れて暮らしていることも。
だから私は〝それ〟を決行できる瞬間を待っていた。



 私はその日もあの男を待ち続けた。
あの男が勤めるビルの真向かいにある駐車場で停車し、ずっと張り込みを続けている。
車内の気温は肌寒く、指がかじかみ、体が千切れそうなほど凍えそうになる。
いつの間にか、お母さんが亡くなった季節がまた巡っていた。


 ――この季節が好きだった。けれどもう、好きになれない――


 呪いのようにこびりついた幼い記憶を、私はまた思い返す。
雪の季節になると、私は決まってお母さんの足にしがみついていた。
外の世界は嫌になるほど寒くて、痛くて、だから私は外出する時はぐずっていた。

 そんな駄々をこねる私に対して、お母さんは黙々と私が出かける支度を整えてくれた。
自分では上手く閉じられないコートのボタンを、一つずつとめてくれた。
手袋だって嵌めてくれたし、靴の紐だって結んでくれた。

『これでもう、寒くないよ』

 着替えが終わると、そう言って私の手を温かな手で包みこんでくれた。
外の世界はとても寒いはずなのに、その温かさがあるだけで、何故かどこにだって行けるような気がして、出かけるのが楽しみになっていった。
私が辛いときも、寂しいときも、お母さんがずっと一緒にいてくれる。
そんな信頼があったからこそ、私はお母さんのことが大好きだった。

 けれどもうその温もりは、とっくのとうに途絶えてしまった。



 長い追憶を終えると、時刻は夜の8時になっていた。
あの男の塾が終わる時間だった。
ビルの1階の入口が開かれ、弾かれたように子供たちが出てくる。
道路を挟んだ真向かいにある駐車場へと、次々と子供たちが駆け寄ってくる。

 母親らしき大人たちが、子供たちを出迎えた。
車の扉を開けて出て、子供を抱きしめたり、頭を撫でたりする光景が目に入る。
かつて私も経験した、お母さんの愛情というものを子供たちは一心に受けていた。
私は堪えきれず目を逸らしながら、あの男が来るのをじっと待ち続けた。
一人、二人……十二人。私は子供たちが入口から現れた人数を数えていた。

 ――そして、十三人。
男の子が玄関から出てきた。
冬だと言うのに半ズボンで、身の丈に合わない大きなコートを身に着けている。

 ――これで最後の一人だ――
この子が出てくると、決まってあの男が現れることを知っている。
私はハンドルを強く握りしめた。
男の子が駐車場に向かって走ってくる。
それと同時に、あの男が塾の入口から姿を現す。

 ――今だ!――

 私はアクセルを全開に踏み、猛スピードで車を走らせた。

 
 ダアンッ!


 強い衝撃が車内全体を揺るがす。
車越しでも、柔らかいものが当たった感触が伝わった。
心臓の鼓動が急激に速くなり、冷たい汗が噴き出す。

 私は急ブレーキをかけ、前方にライトを照らした。
雪道の上に点々と赤い液体が飛び散っている。
その地続きに連なる斑模様の先には、何かの塊が転がっていた。

 冬場に似合わない半ズボン。身の丈に合わない大きなコート。
ぐにゃりと曲がった痩せた四肢。ぴくりとも動かない、小さな、子供。
あの男の悲鳴が、車窓を貫いて轟いた。


 ――狙い、通りだった――


 私は最初から、目の前の男の子を殺すつもりでいた。
毎日この駐車場から観察していたから知っている。
この子は、あの男の息子だった。


 残酷だろうか?
私のやっていることは。

 理不尽だろうか?
この男の子の命を奪ったことは。

 けれど、復讐なんてそんなものだ。
私はあの男が、一番深い傷を負う方法を選んだのだ。
私があの男に、同じ痛みを味わわせるために。


 あの男が、息子の名前を呼ぶ声が聞こえる。
何度も、何度も、張り裂けそうなほど大きな声で。
あの雪の日、私が何もできず泣き叫んだように。

 私は車をUターンさせて、夜の雪道をただひたすらに走らせた。
もう振り返らない。もう振り返りたくない。

 いつのまにか間断なく、激しい(みぞれ)が降っていた。
無数の氷雨がフロントガラスを叩きつけ、視界が歪んで何も見えなくなる。
凍える指でワイパーを作動させても、決して汚れた水は拭いきれない。
窓の隅には、赤い(みぞれ)がこびりついていた。



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 私が8歳の頃、お母さんが交通事故で亡くなった。
あの雪の季節、操り人形のように体を捻じ曲げ、ぴくりとも動かなくなったお母さんの姿が、今でも網膜に焼きついている。
 お母さんを殺したのは20歳の男だった。
男は雪道をノーマルタイヤのまま、速度制限を40kmオーバーして走行していた。
裁判所で検事が事故の調書を読み上げ、あの男を追及した声が今でもはっきりと耳の奥に残っている。
 けれど、男に下された判決は3年間の執行猶予だった。
人一人が殺されたのに、あの男は牢獄の中には入れられなかった。
お父さんが悔し涙を流しながら、8歳の私に説明した言葉を、今でも私は忘れることができない。
あの日から12年が経った今でも、あの男はのうのうとこの町で生きている。
 20歳になった私は、車の免許を取得した。
あの男に復讐するためだ。
私の苦しみを、あの男にも味わわせてやりたかった。
大好きだったお母さんが永遠に消えてしまった事実が、大した罰も受けずあの男が生きている事実が、ずっとずっと私を苦しめ続けてきた。
 あの男は塾の講師をしていた。
3階建ての小さなビルの1階で、子供たちを相手取って勉強を教えていた。
事故の後あの男の住所が割れ、それから何年もの間私はあの男の素性を探り続けたから知っている。
家を買い、家庭を持ち、今では事故のことも忘れて暮らしていることも。
だから私は〝それ〟を決行できる瞬間を待っていた。
 私はその日もあの男を待ち続けた。
あの男が勤めるビルの真向かいにある駐車場で停車し、ずっと張り込みを続けている。
車内の気温は肌寒く、指がかじかみ、体が千切れそうなほど凍えそうになる。
いつの間にか、お母さんが亡くなった季節がまた巡っていた。
 ――この季節が好きだった。けれどもう、好きになれない――
 呪いのようにこびりついた幼い記憶を、私はまた思い返す。
雪の季節になると、私は決まってお母さんの足にしがみついていた。
外の世界は嫌になるほど寒くて、痛くて、だから私は外出する時はぐずっていた。
 そんな駄々をこねる私に対して、お母さんは黙々と私が出かける支度を整えてくれた。
自分では上手く閉じられないコートのボタンを、一つずつとめてくれた。
手袋だって嵌めてくれたし、靴の紐だって結んでくれた。
『これでもう、寒くないよ』
 着替えが終わると、そう言って私の手を温かな手で包みこんでくれた。
外の世界はとても寒いはずなのに、その温かさがあるだけで、何故かどこにだって行けるような気がして、出かけるのが楽しみになっていった。
私が辛いときも、寂しいときも、お母さんがずっと一緒にいてくれる。
そんな信頼があったからこそ、私はお母さんのことが大好きだった。
 けれどもうその温もりは、とっくのとうに途絶えてしまった。
 長い追憶を終えると、時刻は夜の8時になっていた。
あの男の塾が終わる時間だった。
ビルの1階の入口が開かれ、弾かれたように子供たちが出てくる。
道路を挟んだ真向かいにある駐車場へと、次々と子供たちが駆け寄ってくる。
 母親らしき大人たちが、子供たちを出迎えた。
車の扉を開けて出て、子供を抱きしめたり、頭を撫でたりする光景が目に入る。
かつて私も経験した、お母さんの愛情というものを子供たちは一心に受けていた。
私は堪えきれず目を逸らしながら、あの男が来るのをじっと待ち続けた。
一人、二人……十二人。私は子供たちが入口から現れた人数を数えていた。
 ――そして、十三人。
男の子が玄関から出てきた。
冬だと言うのに半ズボンで、身の丈に合わない大きなコートを身に着けている。
 ――これで最後の一人だ――
この子が出てくると、決まってあの男が現れることを知っている。
私はハンドルを強く握りしめた。
男の子が駐車場に向かって走ってくる。
それと同時に、あの男が塾の入口から姿を現す。
 ――今だ!――
 私はアクセルを全開に踏み、猛スピードで車を走らせた。
 ダアンッ!
 強い衝撃が車内全体を揺るがす。
車越しでも、柔らかいものが当たった感触が伝わった。
心臓の鼓動が急激に速くなり、冷たい汗が噴き出す。
 私は急ブレーキをかけ、前方にライトを照らした。
雪道の上に点々と赤い液体が飛び散っている。
その地続きに連なる斑模様の先には、何かの塊が転がっていた。
 冬場に似合わない半ズボン。身の丈に合わない大きなコート。
ぐにゃりと曲がった痩せた四肢。ぴくりとも動かない、小さな、子供。
あの男の悲鳴が、車窓を貫いて轟いた。
 ――狙い、通りだった――
 私は最初から、目の前の男の子を殺すつもりでいた。
毎日この駐車場から観察していたから知っている。
この子は、あの男の息子だった。
 残酷だろうか?
私のやっていることは。
 理不尽だろうか?
この男の子の命を奪ったことは。
 けれど、復讐なんてそんなものだ。
私はあの男が、一番深い傷を負う方法を選んだのだ。
私があの男に、同じ痛みを味わわせるために。
 あの男が、息子の名前を呼ぶ声が聞こえる。
何度も、何度も、張り裂けそうなほど大きな声で。
あの雪の日、私が何もできず泣き叫んだように。
 私は車をUターンさせて、夜の雪道をただひたすらに走らせた。
もう振り返らない。もう振り返りたくない。
 いつのまにか間断なく、激しい霙《みぞれ》が降っていた。
無数の氷雨がフロントガラスを叩きつけ、視界が歪んで何も見えなくなる。
凍える指でワイパーを作動させても、決して汚れた水は拭いきれない。
窓の隅には、赤い霙《みぞれ》がこびりついていた。