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三章 山岸豊 24

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「申し訳ございませんでした」山岸豊は上司の村岡に頭を下げた。
「山岸君、今何年目だっけ?」村岡は頭を掻く。苛立ちを抑えている時の仕草だ。三年も共に仕事をすれば性格や癖などが嫌でも分かってくる。
「え、えと、三年目です」山岸はたどたどしく答えた。緊張で呂律が回らなくなり、胃が痛くなる。
「三年目でしょ。この間違い、ミスは何回目?」山岸が提出した紙の資料を指先で叩いていた。「いい加減一人でできるようにならないとこっちが困るんだよ」
 山岸が提出した見積書は金額が間違っていた。幸い、取引先に送る前に判明したからいいが村岡に大目玉を喰らってしまう。
「は、はい。申し訳ございませんでした」山岸は再び頭を下げる。
「そもそもさ、金額を間違えるのも『ただ入力をすればいい』と考えているからなんだよ。やる気あるの?いい加減にしてくれ」村岡はデスクを指先でトントンと叩く。次第に間隔が早くなり、音が強くなっている。
「はい。つ、次は気をつけます」 
「それも何回目?」村岡は忙しなく落ち着かない。ため息をつく。「はあ、もういいよ。言うだけ無駄だもん。こっちが疲れるだけだ。早く修正して午後イチで提出してね」
 山岸は自分のデスクに戻り、修正作業に取り掛かった。この調子だと昼休憩を返上しないとな、と山岸はため息をつく。二年後輩の須藤が村岡に資料を提出していた。村岡は内容を流し見て、すぐに判子を押した。山岸は胸の内に黒々としたものを感じたが必死に押し殺した。
 金曜日だった。仕事が終わらずに会社を出たのは夜の十時を回ったところだ。駅へと向かう。明日も出社しなければ、と山岸は帰宅してからの予定を思い浮かべる。
 大学を卒業し、今の会社に就職をして三年が経過した。初めは新人として優しく接してくれていたが、山岸の仕事でのミスが続き、徐々に信頼を失っていった。最近では挨拶を返されないことも珍しくはない。次第に出社することが苦痛になり始めていた。加えて連日の残業と休日出勤。手当が出ることは(ほとん)どない。
 一度、村岡に直談判をしたところ「山岸君の仕事が遅いのがいけないよね。自主的にやってるんだから手当はないよ」と言われている。山岸は肩を落とすしかなかった。
 駅のホームで電車のアナウンス音が聞こえる。山岸が乗る電車が来るまでにはまだ時間があった。スマートフォンを起動し、サイトを開き、必要な情報を入力する。給与明細が記録されたサイトだった。金額を見て山岸はため息をつく。これだけ頑張ってこの金額か、と。
 生活費を支払い、手元に残る金額は雀の涙だ。それでやりくりをし、貯金もしなくてはならない。欲しい車があったが夢のまた夢だ。買えるのはいつになるだろうか。
 将来、人生の行く末を想像するだけで暗澹(あんたん)たる気持ちになってくる。何のために生きているのだろう、虚しさを抱えてこのまま歳を重ねていくのか、と山岸は何度目かわからないため息をついた。
 電車が到着するアナウンスが流れる。山岸が乗る電車だった。目の前の線路を見つめる。いっそのこと、と山岸は考える。いっそのこそ電車に飛び込んでやろうか。
 プシューと気が抜ける音が響き、山岸はハッと顔を上げる。いつの間にか電車が到着していたらしい。山岸は慌てて電車に乗る。
 車内は横一列の座席だった。座れる席はないか、と山岸は辺りを見渡す。山岸と同じように残業帰りのサラリーマンやデート帰りのカップル、スマートフォンを触る学生らしき人などが座っている。空いている席はなさそうだ。
「あれ?山岸?」背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
 無意識に全身が強張るのを山岸は感じた。振り向くな、聞こえないフリをしろ、と自分の身体が警告を発している。身体は覚えている。警告と同様に刷り込まれた習慣は消えず、山岸は振り向いてしまう。
「やっぱり、山岸じゃん。久しぶり。元気にしてた?」髪を茶髪に染めた男、田川だった。手を挙げて声をかけてくる。その手には指輪がつけられていた。田川は座席に座っており、隣には妻らしき女性が会釈をする。
 頭上の網棚(あみだな)には某遊園地のキャラクターが描かれた紙袋が置かれていた。二人の間には幼稚園児くらいの男の子が眠っている。頭には顔と同じ大きさ程の耳が付けられていた。山岸は吊り革に捕まり、田川らと向かい合う形になる。
「う、うん。久しぶり」山岸は喉がカラカラだった。一瞬で身体中の水分が干上がったような気分になる。
「高校卒業以来か?」田川は軽い調子で歯を見せる。「山岸も立派なサラリーマンになったんだなあ」冗談のつもりだったのだろう。田川が小突いてくる。山岸の身体に拳が触れそうになり、反射的に身を逸らした。「あ、いや」と山岸は口を開く。
 田川は獲物を見つけたような目つきになり、嗜虐(しぎゃく)的な笑みを浮かべる。
「なんだよ。ビビってんのかよ」
「いや、そんなんじゃないよ」
「智樹と高校生の頃、友達だったの?」田川の妻が尋ねてくる。「友達だよ。なあ、山岸?」田川の見えない圧を、山岸は感じた。
 山岸は愛想笑いを浮かべ、「うん、と……友達だよ」と返事をする。
「へえ、そうなんだ」田川の妻は関心のなさそうに相槌を打つ。
「よく遊んだよな。いつも連れションして、放課後にはゲーセン行ったり、ハンバーガー食べに行ったりさ、楽しかったよ」田川は笑う。「山岸は今何してんの」俺はさ、と続け、会社名を伝えてくる。一流企業だった。今日は有給で連休を取り、遊園地の帰りとのことだ。
 山岸も成り行き上、仕方なく会社名を伝える。「へえ、そうなんだ、ふーん」と田川も妻と同じように関心がなさそうに答える。その目線は山岸の全身を品定めするように眺めていた。
 次の停車駅を伝えるアナウンスが流れ、電車が停止する。車両の自動ドアが開く。ぷしゅう、と空気が漏れる音がする。電車が吐き出したため息のようにも聞こえた。山岸は「最寄り、ここだから」と答え、逃げるように電車から降りる。一秒でも早く、この場から抜け出したい、その一心だった。山岸はトイレへ駆け込み、嘔吐した。


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「申し訳ございませんでした」山岸豊は上司の村岡に頭を下げた。
「山岸君、今何年目だっけ?」村岡は頭を掻く。苛立ちを抑えている時の仕草だ。三年も共に仕事をすれば性格や癖などが嫌でも分かってくる。
「え、えと、三年目です」山岸はたどたどしく答えた。緊張で呂律が回らなくなり、胃が痛くなる。
「三年目でしょ。この間違い、ミスは何回目?」山岸が提出した紙の資料を指先で叩いていた。「いい加減一人でできるようにならないとこっちが困るんだよ」
 山岸が提出した見積書は金額が間違っていた。幸い、取引先に送る前に判明したからいいが村岡に大目玉を喰らってしまう。
「は、はい。申し訳ございませんでした」山岸は再び頭を下げる。
「そもそもさ、金額を間違えるのも『ただ入力をすればいい』と考えているからなんだよ。やる気あるの?いい加減にしてくれ」村岡はデスクを指先でトントンと叩く。次第に間隔が早くなり、音が強くなっている。
「はい。つ、次は気をつけます」 
「それも何回目?」村岡は忙しなく落ち着かない。ため息をつく。「はあ、もういいよ。言うだけ無駄だもん。こっちが疲れるだけだ。早く修正して午後イチで提出してね」
 山岸は自分のデスクに戻り、修正作業に取り掛かった。この調子だと昼休憩を返上しないとな、と山岸はため息をつく。二年後輩の須藤が村岡に資料を提出していた。村岡は内容を流し見て、すぐに判子を押した。山岸は胸の内に黒々としたものを感じたが必死に押し殺した。
 金曜日だった。仕事が終わらずに会社を出たのは夜の十時を回ったところだ。駅へと向かう。明日も出社しなければ、と山岸は帰宅してからの予定を思い浮かべる。
 大学を卒業し、今の会社に就職をして三年が経過した。初めは新人として優しく接してくれていたが、山岸の仕事でのミスが続き、徐々に信頼を失っていった。最近では挨拶を返されないことも珍しくはない。次第に出社することが苦痛になり始めていた。加えて連日の残業と休日出勤。手当が出ることは|殆《ほとん》どない。
 一度、村岡に直談判をしたところ「山岸君の仕事が遅いのがいけないよね。自主的にやってるんだから手当はないよ」と言われている。山岸は肩を落とすしかなかった。
 駅のホームで電車のアナウンス音が聞こえる。山岸が乗る電車が来るまでにはまだ時間があった。スマートフォンを起動し、サイトを開き、必要な情報を入力する。給与明細が記録されたサイトだった。金額を見て山岸はため息をつく。これだけ頑張ってこの金額か、と。
 生活費を支払い、手元に残る金額は雀の涙だ。それでやりくりをし、貯金もしなくてはならない。欲しい車があったが夢のまた夢だ。買えるのはいつになるだろうか。
 将来、人生の行く末を想像するだけで|暗澹《あんたん》たる気持ちになってくる。何のために生きているのだろう、虚しさを抱えてこのまま歳を重ねていくのか、と山岸は何度目かわからないため息をついた。
 電車が到着するアナウンスが流れる。山岸が乗る電車だった。目の前の線路を見つめる。いっそのこと、と山岸は考える。いっそのこそ電車に飛び込んでやろうか。
 プシューと気が抜ける音が響き、山岸はハッと顔を上げる。いつの間にか電車が到着していたらしい。山岸は慌てて電車に乗る。
 車内は横一列の座席だった。座れる席はないか、と山岸は辺りを見渡す。山岸と同じように残業帰りのサラリーマンやデート帰りのカップル、スマートフォンを触る学生らしき人などが座っている。空いている席はなさそうだ。
「あれ?山岸?」背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
 無意識に全身が強張るのを山岸は感じた。振り向くな、聞こえないフリをしろ、と自分の身体が警告を発している。身体は覚えている。警告と同様に刷り込まれた習慣は消えず、山岸は振り向いてしまう。
「やっぱり、山岸じゃん。久しぶり。元気にしてた?」髪を茶髪に染めた男、田川だった。手を挙げて声をかけてくる。その手には指輪がつけられていた。田川は座席に座っており、隣には妻らしき女性が会釈をする。
 頭上の|網棚《あみだな》には某遊園地のキャラクターが描かれた紙袋が置かれていた。二人の間には幼稚園児くらいの男の子が眠っている。頭には顔と同じ大きさ程の耳が付けられていた。山岸は吊り革に捕まり、田川らと向かい合う形になる。
「う、うん。久しぶり」山岸は喉がカラカラだった。一瞬で身体中の水分が干上がったような気分になる。
「高校卒業以来か?」田川は軽い調子で歯を見せる。「山岸も立派なサラリーマンになったんだなあ」冗談のつもりだったのだろう。田川が小突いてくる。山岸の身体に拳が触れそうになり、反射的に身を逸らした。「あ、いや」と山岸は口を開く。
 田川は獲物を見つけたような目つきになり、|嗜虐《しぎゃく》的な笑みを浮かべる。
「なんだよ。ビビってんのかよ」
「いや、そんなんじゃないよ」
「智樹と高校生の頃、友達だったの?」田川の妻が尋ねてくる。「友達だよ。なあ、山岸?」田川の見えない圧を、山岸は感じた。
 山岸は愛想笑いを浮かべ、「うん、と……友達だよ」と返事をする。
「へえ、そうなんだ」田川の妻は関心のなさそうに相槌を打つ。
「よく遊んだよな。いつも連れションして、放課後にはゲーセン行ったり、ハンバーガー食べに行ったりさ、楽しかったよ」田川は笑う。「山岸は今何してんの」俺はさ、と続け、会社名を伝えてくる。一流企業だった。今日は有給で連休を取り、遊園地の帰りとのことだ。
 山岸も成り行き上、仕方なく会社名を伝える。「へえ、そうなんだ、ふーん」と田川も妻と同じように関心がなさそうに答える。その目線は山岸の全身を品定めするように眺めていた。
 次の停車駅を伝えるアナウンスが流れ、電車が停止する。車両の自動ドアが開く。ぷしゅう、と空気が漏れる音がする。電車が吐き出したため息のようにも聞こえた。山岸は「最寄り、ここだから」と答え、逃げるように電車から降りる。一秒でも早く、この場から抜け出したい、その一心だった。山岸はトイレへ駆け込み、嘔吐した。