第三章
ー/ー
雑多な飲食店が立ち並ぶ通りには、昼下がりになると途端にサラリーマンが湧いてくる。
「定食が食べたい」という倉田のリクエストに沿って井川屋へ向かっていると、雑居ビルの1階で威勢の良い青年が白い歯を光らせながら声かけをしていた。
「お兄さん! 毎日お疲れ様です! うちの気分になったらいつでもどうぞ!」
「お姉さん、お団子ヘアー決まってますね! 今度はご来店お待ちしてます!」
誰彼構わず話しかけているものの、誰も嫌な顔をしないで笑顔で応じたり手を振り返し、青年を起点してみんなが活きた顔をして方々へ歩いていく。その姿は、この街を活気づける仕事でで時給が発生しているのではないかと思うほどだった。
彼のような強い人間はときおり僕の人生に顔を出す。秋葉もその1人だ。適切な力加減で他人の心を掴む力。
井川屋に到着し、日替わり定食を注文してから僕は倉田に切り出した。
「まず、ここは会社じゃない、僕たちはランチ中だ。無礼講だと思ってくれていい」
「ランチで無礼講ですか」
「細かいことは気にしない。できれば、ここでは友人として接してほしい」
倉田はぎょっとした顔で私を見た。どうやら"友達"をことさら重くとらえたようで、神妙な面持ちで「わかりました」と頷かれる。
「君は、彼女のことをどう思ってる?」
「どう、ですか。月並みですが、一生をかけて守りたいと思うほどに愛しています」
不躾な質問にも関わらず、倉田は真摯に答えてくれた。僕が聞きたいことは、言いたいことはそれではなかったけれど、そこからもどんどん"そうではない言葉"がこぼれていく。
「どこをすきになったの?」
「私のことをパートナーと呼称してくれるところ、ですかね。僕個人を見てくれている気がするので」
「反対に、彼女は君のどこをすきになったんだろうね」
「いさかいがあった時に、投げ出さずすに言語化して話そうとする姿勢だと言われたことがあります」
なれそめ、嫌いだと思うこと、癖、趣味、あらゆる質問を投げつける。手当たり次第足元にある石を投げつけるかのような質問を、倉田は何度も答えてくれた。とり天定食が届けられるまでそれは続き、彼が箸を割ったとき、やっと僕の口から本当に言いたかったことがするっと飛び出した。
「僕はもう、わからなくなってしまった」
赤だしをすすり、倉田は「それは、奥様を嫌いになったということですか。それとも、すきな理由が言語化できないくらいに成熟したという話ですぁ」と返してくる。
「おそらく後者だと思う」
僕たちは、いや、僕は変化を好まない。惑星を飲み込んだ地球の話はただ恰好をつけただけだった。嫌ったところで僕が地球で生きていく事実は変わらない、だったらすきでいた方がいいを言い換えただけだ。
「妻が、妊娠したかもしれないんだ」
「それは、おめでとうございます」
僕は箸を手に取れず、三角食べで減っていく倉田の定食を眺めるしかできない。
「君は結婚を、どう捉えてる?」
「どう、とは」
「恋愛の行きつく先とか、パートナー契約とか、友情の延長線上とか」
「難しいですが……パートナー契約ですかね」
1人また1人と席を立っていく。少しずつ僕も声のトーンが落ちていく。伝えたいことはいつも、余計な手順を踏んだ後に力なく現れる。
「家庭を持って子供が生まれる変化。僕が少しずつ僕1人の体ではなくなっていくことには、どう折り合いをつければいいんだろう」
――
『秋月くん、これからの私たちはどうなっていくと思う?』
あの日、帰路を歩き始めた僕に秋葉は尋ねた。大通りに背を向けて歩く復路は、ただ暗闇へ足を踏み入れていくようだった。秋葉の手のぬくもりだけが形を持ってそこにあった。
『まずは入籍しないとね』
まだ検査もしてないから確証はないと彼女は言った。僕の心臓はこれまで発症したことがない病に侵されたように早鐘を打ち、頭はバットを振りぬかれたようにぐわんぐわんと揺れる。宇宙が飲み込まれていく。
『幸せな家族になっていけるよ』
僕はそう言った。
『そうだね。私たちはきっと、そうなっていくんだよ』
秋葉は声を張ってそう言った。誰も証人になってくれない言葉が高い空に吸い込まれていく。
『君ともっと家族になっていけることが、なによりうれしいよ』と言えたはずだ。もう帰ろう、とも言った気がする。
嘘つき、と聞こえた。
僕は聞こえなかったふりをした。
――
定食の大半を残したことを謝罪しながら支払いをしていると、僕の分のとり天を口いっぱいに頬張った倉田が後ろからひょいと現れた。
帰り道では青年が「いってらっしゃい!」「頑張って!」とまだ声をかけている。その原動力はどこから来るのだろう。青年は僕たちにも「いってらっしゃい! 午後からも頑張って!」とまぶしい笑顔を向けてくれた。誰かのなにかになってしまうことへの恐怖など、微塵もない笑顔だった。
「不安と希望は表裏一体だと私は思います」
倉田が口の中を空にしてからそう言った。
「変化は怖いですよ、私も。この場から動かなければならない時は、どの1歩も怖い」
信号が青に変わる。誰もが素知らぬ顔で歩を進めている。
「だから祈っていてください。私のプロポーズがうまくいくことを」
倉田は僕を先導するように信号を渡り始める。僕も後を追うように1歩を踏み出した。
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
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「定食が食べたい」という倉田のリクエストに沿って井川屋へ向かっていると、雑居ビルの1階で威勢の良い青年が白い歯を光らせながら声かけをしていた。
「お兄さん! 毎日お疲れ様です! うちの気分になったらいつでもどうぞ!」
「お姉さん、お団子ヘアー決まってますね! 今度はご来店お待ちしてます!」
誰彼構わず話しかけているものの、誰も嫌な顔をしないで笑顔で応じたり手を振り返し、青年を起点してみんなが活きた顔をして方々へ歩いていく。その姿は、この街を活気づける仕事でで時給が発生しているのではないかと思うほどだった。
彼のような強い人間はときおり僕の人生に顔を出す。秋葉もその1人だ。適切な力加減で他人の心を掴む力。
井川屋に到着し、日替わり定食を注文してから僕は倉田に切り出した。
「まず、ここは会社じゃない、僕たちはランチ中だ。無礼講だと思ってくれていい」
「ランチで無礼講ですか」
「細かいことは気にしない。できれば、ここでは友人として接してほしい」
倉田はぎょっとした顔で私を見た。どうやら"友達"をことさら重くとらえたようで、神妙な面持ちで「わかりました」と頷かれる。
「君は、彼女のことをどう思ってる?」
「どう、ですか。月並みですが、一生をかけて守りたいと思うほどに愛しています」
不躾な質問にも関わらず、倉田は真摯に答えてくれた。僕が聞きたいことは、言いたいことはそれではなかったけれど、そこからもどんどん"そうではない言葉"がこぼれていく。
「どこをすきになったの?」
「私のことをパートナーと呼称してくれるところ、ですかね。僕個人を見てくれている気がするので」
「反対に、彼女は君のどこをすきになったんだろうね」
「いさかいがあった時に、投げ出さずすに言語化して話そうとする姿勢だと言われたことがあります」
なれそめ、嫌いだと思うこと、癖、趣味、あらゆる質問を投げつける。手当たり次第足元にある石を投げつけるかのような質問を、倉田は何度も答えてくれた。とり天定食が届けられるまでそれは続き、彼が箸を割ったとき、やっと僕の口から本当に言いたかったことがするっと飛び出した。
「僕はもう、わからなくなってしまった」
赤だしをすすり、倉田は「それは、奥様を嫌いになったということですか。それとも、すきな理由が言語化できないくらいに成熟したという話ですぁ」と返してくる。
「おそらく後者だと思う」
僕たちは、いや、僕は変化を好まない。惑星を飲み込んだ地球の話はただ恰好をつけただけだった。嫌ったところで僕が地球で生きていく事実は変わらない、だったらすきでいた方がいいを言い換えただけだ。
「妻が、妊娠したかもしれないんだ」
「それは、おめでとうございます」
僕は箸を手に取れず、三角食べで減っていく倉田の定食を眺めるしかできない。
「君は結婚を、どう捉えてる?」
「どう、とは」
「恋愛の行きつく先とか、パートナー契約とか、友情の延長線上とか」
「難しいですが……パートナー契約ですかね」
1人また1人と席を立っていく。少しずつ僕も声のトーンが落ちていく。伝えたいことはいつも、余計な手順を踏んだ後に力なく現れる。
「家庭を持って子供が生まれる変化。僕が少しずつ僕1人の体ではなくなっていくことには、どう折り合いをつければいいんだろう」
――
『秋月くん、これからの私たちはどうなっていくと思う?』
あの日、帰路を歩き始めた僕に秋葉は尋ねた。大通りに背を向けて歩く復路は、ただ暗闇へ足を踏み入れていくようだった。秋葉の手のぬくもりだけが形を持ってそこにあった。
『まずは入籍しないとね』
まだ検査もしてないから確証はないと彼女は言った。僕の心臓はこれまで発症したことがない病に侵されたように早鐘を打ち、頭はバットを振りぬかれたようにぐわんぐわんと揺れる。宇宙が飲み込まれていく。
『幸せな家族になっていけるよ』
僕はそう言った。
『そうだね。私たちはきっと、そうなっていくんだよ』
秋葉は声を張ってそう言った。誰も証人になってくれない言葉が高い空に吸い込まれていく。
『君ともっと家族になっていけることが、なによりうれしいよ』と言えたはずだ。もう帰ろう、とも言った気がする。
嘘つき、と聞こえた。
僕は聞こえなかったふりをした。
――
定食の大半を残したことを謝罪しながら支払いをしていると、僕の分のとり天を口いっぱいに頬張った倉田が後ろからひょいと現れた。
帰り道では青年が「いってらっしゃい!」「頑張って!」とまだ声をかけている。その原動力はどこから来るのだろう。青年は僕たちにも「いってらっしゃい! 午後からも頑張って!」とまぶしい笑顔を向けてくれた。誰かのなにかになってしまうことへの恐怖など、微塵もない笑顔だった。
「不安と希望は表裏一体だと私は思います」
倉田が口の中を空にしてからそう言った。
「変化は怖いですよ、私も。この場から動かなければならない時は、どの1歩も怖い」
信号が青に変わる。誰もが素知らぬ顔で歩を進めている。
「だから祈っていてください。私のプロポーズがうまくいくことを」
倉田は僕を先導するように信号を渡り始める。僕も後を追うように1歩を踏み出した。