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第二章 (過去編:入学式)

ー/ー



クラス分け表は自分の名前だけを確認して、そそくさと下駄箱へ向かった。

父の転勤に振り回されて急遽転入が決まった樫木高校に、私を知る人は1人もいない。ここにいるのは同世代ということ以外、まだ何の共通点も見出せていない子たちばっかり。

みきちゃんと同じ高校に通うはずだったのに。どんくさい私を支えてくれる唯一の友達はもう隣にはいない。今はスマートフォンの中に閉じ込められて文字や音声のやり取りしかできない。引っ越しの日にみきちゃんに渡されたお守りを私はポケットの中で握りしめた。

ーー

『嫌なことがあったら、このお守りをあたしの手のひらだと思ってぎゅっと握りなさい』

めそめそしてずっと手を放そうとしなかった私に、みきちゃんは無理くり良縁と刺繍されたお守りを握りこませた。

『みきちゃん……これ多分、なんか違うよぉ』

『細かいことは気にすんな! こういうのは気持ちなんだから』

別れにいつまでもぐずる私に、みきちゃんは距離が離れるくらい些細なことだと、私の涙を吹き飛ばすように快活に笑った。

『初日の自己紹介は、難しいことは考えなくてもいい。あんたなら「汐里 加奈って言います。苗字も名前みたいとよく言われます。すきな方で呼んでください!」でいいんじゃない?』

ーー

私は、自己紹介の前に式まで教室で待機する時間があることをすっかり忘れていた。自己紹介前のふるまいなんて考えていない私にとって、その時間は苦痛以外の何物でもなかった。椅子がどんどん冷たくなる。動悸がおさまらない。何度か同じクラスの子に「大丈夫? 具合悪いの?」と聞かれて声を発したけれど、なんと返したかは覚えていなかった。

チャイムが鳴り、担任が来て簡単な案内をされてから講堂へ移動する。私は式の最中もずっと「汐里……加奈って言います……」と口の中で反芻した。

教室へ戻ると、予定調和のような速さでHRが終わり自己紹介が始まる。緊張で膨張した頭の中に、誰かの自己紹介が起こす爆笑や、キンキンした声で長々と話す女の子の声など、成形されていないギザギザな言葉が流れ込んでくる。

「あの……次だよ」

前の席の子に声を掛けられ、反射的に「は、はい!」と立ち上がる。周りの視線が私に鋭く刺さる。ぎゅっとお守りを握りしめたけど、声が震えてうまく出ない。

「……汐里、加奈、です。よろしくお願いします」

遂に私の口から魔法は唱えられず、そのまま椅子へと落ちる。皆が私への興味を失っていくのがわかる。手を開くと、良縁のお守りが元に戻せないほどにへしゃげていた。

ーー

昔から、本を読むと身体の内側から溢れてくる音がすきだった。私以外の誰にも聞こえない静けさで、けれど時に鼓笛隊のファンファーレのような、私を冒険の世界へ誘おうとするけたたましい音すら聞こえる。

SHRが終わった後、私は教室を飛び出した。頭の中が空っぽの花瓶のようで、耳に飛び込んでくるあらゆる音がキンキンと響く。

静かな場所に行きたいと思った。思い当たるのは図書室しかなかった。掲示板の構内図から図書室を探し出して一直線に向かう。特別棟の2階にそれはあった。扉に手をかけて力を入れる瞬間(こんなに早く来ても開いてないんじゃ)と不安がよぎったけれど、扉は驚くほどすんなりと開いた。

受付には、すでに人がいた。本を読んでいる。鳥の雛が3匹ほど飛び出してきそうなふわふわしたくせっ毛の男の人。

私が入ってもいいのか分からずに立ち尽くしていると、その人は今やっと音が届いたかのようにこちらを向いた。それから視線を少し下げて私の上履きの色を確認してから「こんにちは」と言い、中へ入るように手で促してくれる。

受付のすぐ前に『新入生にオススメ! 人気シリーズ集』というディスプレイラックが作られているのが見え、適当に文庫本を手に取って受付の前に置く。

おそらく先輩の彼は「はいお預かりします。図書カードも作るから、これに名前とクラスを書いてね」と記入用紙を私に差し出した。記入して渡すと、先輩はそれにさっと目を通してから私を見て「どちらも名前みたいで素敵ですね、汐里さん」と言った。

途端、私の目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。

「あれ、え、なんで……」

涙と一緒に、何も上手くいかなかった悔しさが胸に広がっていく。

先輩はぎょっとして狼狽えていたけど、私の握りこんだ手を見て「手、力を緩めてごらん」と言った。なかなか力を緩められなくて私が戸惑っていると、先輩は「失礼」と断ってからカチカチの私の握り拳にそっと触れた。

途端、ソファに座り込んだ時のようにふっと全身から力が抜ける。涙が(せき)を切ったようにより一層こぼれ出したけど、それに伴って気持ちが少しずつ軽くなっていく。

「……落ち着いた?」

私がこくこくと首肯すると先輩は安心したように息を吐き、それから図書カードと本を持ってカウンターに一番近い窓際の席に置いた。

「読むならここがオススメだよ。この部屋で一番暖かいんだ」

光に導かれるように窓際に向かうと、そこには外の冷たさは一片も届かず、あたたかさだけが差し込んでいた。

振り返ると先輩はすでに本の世界に帰っていた。席に着いて彼の横顔を眺めていると、心臓からやっと全身に血を送る正しい音が聞こえてきて、指先が少しずつあたたかくなっていく気がする。

赤みが戻ってきた指で小説をめくる。それはよくある恋愛もので、刺々しい描写は一切なく、今の私には甘すぎてちょうどよかった。

両手で抑えるページの分量が同じほどになった頃、こんこんと机がノックされた。顔を上げると、先輩が鞄を持って立っている。

「そろそろ僕も帰るから、今日は終わりね」

「すみません。没頭しちゃってて」

「ううん。そんなに本がすきならまたおいで。月曜日だけにはなっちゃうけど、この席は僕が予約しといてあげるから」

先輩はそう言って、コピー用紙で作った三角札を私に見せてきた。表には『Reserved』と書かれている。

「え、そんなもの作ってくれたんですか。あの、お手間をかけてしまって」

「いいよこれくらい。テンプレートをコピーしただけの簡単なものだし」

先輩はそう言って、その三角札をカウンター裏の引き出しにしまった。ほとんど言葉を交わしてないのに、この人には私が今日抱え込んでいた不安が伝わっている気がした。もちろんそれは一方的なもので、私は先輩の名前ひとつ知らないけれど。

「あの、お名前を聞いてもいいでしょうか」

「ああ、そうだった。九十九 修司(つくも しゅうじ)って言います。よろしくね」

「はい、よろしくお願いします。毎週来ます」

そう告げて、私も鞄を持って図書室を出る。私が楽しく登校できるようになったのは、間違いなく先輩のおかげだった。



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みんなのリアクション

クラス分け表は自分の名前だけを確認して、そそくさと下駄箱へ向かった。
父の転勤に振り回されて急遽転入が決まった樫木高校に、私を知る人は1人もいない。ここにいるのは同世代ということ以外、まだ何の共通点も見出せていない子たちばっかり。
みきちゃんと同じ高校に通うはずだったのに。どんくさい私を支えてくれる唯一の友達はもう隣にはいない。今はスマートフォンの中に閉じ込められて文字や音声のやり取りしかできない。引っ越しの日にみきちゃんに渡されたお守りを私はポケットの中で握りしめた。
ーー
『嫌なことがあったら、このお守りをあたしの手のひらだと思ってぎゅっと握りなさい』
めそめそしてずっと手を放そうとしなかった私に、みきちゃんは無理くり良縁と刺繍されたお守りを握りこませた。
『みきちゃん……これ多分、なんか違うよぉ』
『細かいことは気にすんな! こういうのは気持ちなんだから』
別れにいつまでもぐずる私に、みきちゃんは距離が離れるくらい些細なことだと、私の涙を吹き飛ばすように快活に笑った。
『初日の自己紹介は、難しいことは考えなくてもいい。あんたなら「汐里 加奈って言います。苗字も名前みたいとよく言われます。すきな方で呼んでください!」でいいんじゃない?』
ーー
私は、自己紹介の前に式まで教室で待機する時間があることをすっかり忘れていた。自己紹介前のふるまいなんて考えていない私にとって、その時間は苦痛以外の何物でもなかった。椅子がどんどん冷たくなる。動悸がおさまらない。何度か同じクラスの子に「大丈夫? 具合悪いの?」と聞かれて声を発したけれど、なんと返したかは覚えていなかった。
チャイムが鳴り、担任が来て簡単な案内をされてから講堂へ移動する。私は式の最中もずっと「汐里……加奈って言います……」と口の中で反芻した。
教室へ戻ると、予定調和のような速さでHRが終わり自己紹介が始まる。緊張で膨張した頭の中に、誰かの自己紹介が起こす爆笑や、キンキンした声で長々と話す女の子の声など、成形されていないギザギザな言葉が流れ込んでくる。
「あの……次だよ」
前の席の子に声を掛けられ、反射的に「は、はい!」と立ち上がる。周りの視線が私に鋭く刺さる。ぎゅっとお守りを握りしめたけど、声が震えてうまく出ない。
「……汐里、加奈、です。よろしくお願いします」
遂に私の口から魔法は唱えられず、そのまま椅子へと落ちる。皆が私への興味を失っていくのがわかる。手を開くと、良縁のお守りが元に戻せないほどにへしゃげていた。
ーー
昔から、本を読むと身体の内側から溢れてくる音がすきだった。私以外の誰にも聞こえない静けさで、けれど時に鼓笛隊のファンファーレのような、私を冒険の世界へ誘おうとするけたたましい音すら聞こえる。
SHRが終わった後、私は教室を飛び出した。頭の中が空っぽの花瓶のようで、耳に飛び込んでくるあらゆる音がキンキンと響く。
静かな場所に行きたいと思った。思い当たるのは図書室しかなかった。掲示板の構内図から図書室を探し出して一直線に向かう。特別棟の2階にそれはあった。扉に手をかけて力を入れる瞬間(こんなに早く来ても開いてないんじゃ)と不安がよぎったけれど、扉は驚くほどすんなりと開いた。
受付には、すでに人がいた。本を読んでいる。鳥の雛が3匹ほど飛び出してきそうなふわふわしたくせっ毛の男の人。
私が入ってもいいのか分からずに立ち尽くしていると、その人は今やっと音が届いたかのようにこちらを向いた。それから視線を少し下げて私の上履きの色を確認してから「こんにちは」と言い、中へ入るように手で促してくれる。
受付のすぐ前に『新入生にオススメ! 人気シリーズ集』というディスプレイラックが作られているのが見え、適当に文庫本を手に取って受付の前に置く。
おそらく先輩の彼は「はいお預かりします。図書カードも作るから、これに名前とクラスを書いてね」と記入用紙を私に差し出した。記入して渡すと、先輩はそれにさっと目を通してから私を見て「どちらも名前みたいで素敵ですね、汐里さん」と言った。
途端、私の目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「あれ、え、なんで……」
涙と一緒に、何も上手くいかなかった悔しさが胸に広がっていく。
先輩はぎょっとして狼狽えていたけど、私の握りこんだ手を見て「手、力を緩めてごらん」と言った。なかなか力を緩められなくて私が戸惑っていると、先輩は「失礼」と断ってからカチカチの私の握り拳にそっと触れた。
途端、ソファに座り込んだ時のようにふっと全身から力が抜ける。涙が|堰《せき》を切ったようにより一層こぼれ出したけど、それに伴って気持ちが少しずつ軽くなっていく。
「……落ち着いた?」
私がこくこくと首肯すると先輩は安心したように息を吐き、それから図書カードと本を持ってカウンターに一番近い窓際の席に置いた。
「読むならここがオススメだよ。この部屋で一番暖かいんだ」
光に導かれるように窓際に向かうと、そこには外の冷たさは一片も届かず、あたたかさだけが差し込んでいた。
振り返ると先輩はすでに本の世界に帰っていた。席に着いて彼の横顔を眺めていると、心臓からやっと全身に血を送る正しい音が聞こえてきて、指先が少しずつあたたかくなっていく気がする。
赤みが戻ってきた指で小説をめくる。それはよくある恋愛もので、刺々しい描写は一切なく、今の私には甘すぎてちょうどよかった。
両手で抑えるページの分量が同じほどになった頃、こんこんと机がノックされた。顔を上げると、先輩が鞄を持って立っている。
「そろそろ僕も帰るから、今日は終わりね」
「すみません。没頭しちゃってて」
「ううん。そんなに本がすきならまたおいで。月曜日だけにはなっちゃうけど、この席は僕が予約しといてあげるから」
先輩はそう言って、コピー用紙で作った三角札を私に見せてきた。表には『Reserved』と書かれている。
「え、そんなもの作ってくれたんですか。あの、お手間をかけてしまって」
「いいよこれくらい。テンプレートをコピーしただけの簡単なものだし」
先輩はそう言って、その三角札をカウンター裏の引き出しにしまった。ほとんど言葉を交わしてないのに、この人には私が今日抱え込んでいた不安が伝わっている気がした。もちろんそれは一方的なもので、私は先輩の名前ひとつ知らないけれど。
「あの、お名前を聞いてもいいでしょうか」
「ああ、そうだった。|九十九 修司《つくも しゅうじ》って言います。よろしくね」
「はい、よろしくお願いします。毎週来ます」
そう告げて、私も鞄を持って図書室を出る。私が楽しく登校できるようになったのは、間違いなく先輩のおかげだった。