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白い景色と詠う二人

ー/ー



 放課後の図書室が好きだ。
 うちの学校では放課後に残って読書や勉強に勤しむ生徒なんて誰もいなくて、私の他には見慣れた図書委員の先輩が一人、受付に座っているだけ。静謐な空間を独り占めとまではいかないものの、読書を楽しむには十分だ。

(今日は何を読もうか)

 本棚の前をゆっくりと歩きながら、詰められた背表紙に目を滑らせる。
 この図書室にある粗方の本は既に読み終えてしまっているけれど……物語や詩というのは何度読み返しても良いものだ。既知の内容であったとしても、新たな解釈と発見が見つかることもあるのだから。

 そんなことを考えつつ立ち並ぶ背表紙に目を通していると、いつの間にか棚の端まで来てしまっていた。引き続き裏に回り込んで背表紙の波へと視線を潜らせようとしたところで、ふと窓の外の景色が目に入った。

 雪が積もっている。
 薄らとではなく、それなりに厚くてふかふかと。

 今朝からちらりちらりと降ってはいたが、いつの間にかここまで積もっていたとは思わなかった。いや、そういえば天気予報でも積雪について話していた気がする。
 ……帰り路は歩き辛そうだ。

(あ、そうだ)

 下校時の足元を思って憂鬱になりかけたところで、読むものが決まった。
 今日のテーマは、『雪』だ。


『汚れつちまつた悲しみに』

 汚れつちまつた悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 汚れつちまつた悲しみに
 今日も風さへ吹きすぎる――


「――中原中也? 暗いなぁ」
「うわっ!?」

 詩集を読み始めてすぐ、後ろから声を掛けられて思わず声を出してしまった。思ったよりも大きな声が出てしまい、自分の口を塞ぐ。

「悪い、そんなに驚くとは思わなくて」

 戸惑うような声色の謝罪に振り返ると、受付にいたはずの図書委員の先輩が申し訳なさそうに見下ろしていた。

「人の読んでるものを覗き見したことについて、先に謝罪してほしいところですけど」
「ごめんなさい」
「許します。……受付はどうしたんですか?」
「どうせこの時間は誰も来ないから暇でさ。事務室の先生も出ていったし、君と話した方が有意義だと思って」

 言われて受付横の事務室へ視線を向けると、たしかに人の気配がない。
 そういうことならと隣の席へと促すと、「ありがとう」と爽やかな笑顔で礼を言われてしまった。思わず本を目深に持ち、顔を隠す。

「どうしたの?」
「いえ、なんでも」
「そっか。暖房、暑かったら言って」

 きっと、私の顔は今朱いのだろう。だから気遣ってくれている。
 優しい声に恥ずかしいやら心地好いやらと感情が混ぜこぜになりつつ、顔から本を退けて外の景色へと目を移す。
 しんしんと降り積もる雪は真っ白で、誰にも踏まれていないまっさらな状態。見ているうちに高鳴る胸はなんとか鎮もり始めてきた。

「雪、好きなの?」
「え?」
「なんだか熱心に見ていたから。あまりに熱のある視線で解けるかと」
「なんですか、それ」

 面白くもない冗談を言うものだから、あまりのくだらなさにうっかり笑みが零れてしまった。

「まあ、嫌いじゃないですかね」
「暗い詩、詠んでなかった?」
「偶然そのページだっただけです。そういう先輩は?」
「そうだなぁ――“上の雪 さむかろな。つめたい月がさしていて”」
「……なるほど。“下の雪 重かろな。何百人ものせていて”」

『中の雪 さみしかろな。空も地面(じべた)もみえないで』

 声が重なる。
 それから少しの静寂の後、口を開いた。

「金子みすゞですか。意外ですね」
「これでも図書室の番人だからね」

 得意げに笑みを浮かべる顔が少しだけ気にくわなかったので、「常識ですけど」とそっけなく言ってやると、「マジで?」と本気で訊き返されてしまい、吹き出しそうになった。
 詩なんて昨今の学生は詠みやしない。常識外もいいとこである。

「先輩、お好きなんですか?」
「えっ?」
「雪、好きなんですよね? ほら、そんな詩を詠むくらいですし」
「あ、ああ。雪、雪ね。うん、好きだよ」

 何やら慌てたふうにはにかむ姿に少しだけ疑問を覚えたけれど、肯定の言葉を引き出せた。そんなことで少しだけ謎の優越感を覚え、私は思わずしたり顔になった。

「そういう君は、どうなんだ」
「私ですか。私は……あまり好きじゃない、かもしれません」
「そうなの?」

 少しだけ驚いたような声を出す先輩から、顔を逸らす。
 実際のところ、嫌いも何もないけれど……そう答えてしまったのは、ただ降雪の中を歩くのは億劫であるというだけのくだらない理由でしかない。

「少し歩けば服もローファーも濡れるし、滑ります。積もった雪の上なら猶更。なにより歩くだけで冷たい風が全身を刺し貫いてくる。寒さが苦手な私にとって、あまり好ましいとは言えない仲なのですよ」

 我ながら捻くれた子供のような理由だ、なんて考えながら雑に理由を並べたてた。
 先輩は自嘲気味に笑う私の顔を見つめて、少しだけ悩むようなそぶりを見せた。

「……“行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ
”」

 末に、一つの短歌を切り出してきた。
 これは……そうだ、小池光だ。たしか、意味としては……。

「今日降るなら明日も降るぞ、と。嫌味ですか?」
「違う違う。……本歌取りの方は知ってる?」
「え? ええっと――

“雪に傘、あはれむやみにあかるくて生きて負ふ苦をわれはうたがふ”……」

 私が言葉にしたのは、先輩の言った古歌のアンチテーゼのような意味合いを孕んだもの。解釈の一つとして、先輩の歌は生きる上での苦しみを表し、私の歌は雪灯りの中でそれをひと時でも忘れられる、というものがあったような気がする。

「雪が嫌いだとしても、悪い事ばかりじゃないさ」

 先輩はただ普通の事を教えるようにそう付け加えると、にっこりと柔らかな笑みを浮かべた。
 雪を解かすような暖かな笑み。その熱は私にとっては雪灯りなんてものではなく、ぶしつけにも顔を火照らせてくる。

「先輩は、(うぐひす)のような人ですね」
「……ウグイス?」
「万葉集です。図書室の番人もまだまだですね」
「それだけで分かるわけないだろ。……どんな歌なの?」
「“み雪降る冬は今日のみ(うぐひす)の鳴かむ春へは明日にしあるらし”……春の訪れを詠ったものですよ」

 雪の降る冬は今日まで。鴬の鳴く春は明日から訪れるだろう。
 先輩はまるで、雪を晴らして春を連れてくるウグイスのような明るくて魅力的な人だ。
 結構な勇気を振り絞って、そう伝えたつもりだったけれど……本人はあまりピンときていないようだった。
 遠回し過ぎたか、と内心で溜息を吐いていると、先輩はにっこりと笑った。

「へえ、それなら君もウグイスみたいなものだな」
「……え?」
「君と話していると、冬を忘れたように暖かくなるからね」

 ……混じりっけなしの優しい笑顔で告げる先輩がなんだか眩しくて、思わず目を逸らしてしまった。
 きっと先輩は深い意味など無しに言っている。仲の良い友達には、同じように言ってしまえるのかもしれない。
 それは理解しているけれど……ああ、顔が熱い。口元もだらしなくほころんでしまう。

『貴方の隣が、私にとって鴬の鳴く春なのです』

 一直線にそう伝えられたら、どれほど楽だろう。
 そんなことを思う傍らで、窓の外ではまだひらひらと雪が降っている。

 春はまだ遠い。けれど今この時は暖かくて、雪も嫌いにはなれなかった。







みんなのリアクション

 放課後の図書室が好きだ。
 うちの学校では放課後に残って読書や勉強に勤しむ生徒なんて誰もいなくて、私の他には見慣れた図書委員の先輩が一人、受付に座っているだけ。静謐な空間を独り占めとまではいかないものの、読書を楽しむには十分だ。
(今日は何を読もうか)
 本棚の前をゆっくりと歩きながら、詰められた背表紙に目を滑らせる。
 この図書室にある粗方の本は既に読み終えてしまっているけれど……物語や詩というのは何度読み返しても良いものだ。既知の内容であったとしても、新たな解釈と発見が見つかることもあるのだから。
 そんなことを考えつつ立ち並ぶ背表紙に目を通していると、いつの間にか棚の端まで来てしまっていた。引き続き裏に回り込んで背表紙の波へと視線を潜らせようとしたところで、ふと窓の外の景色が目に入った。
 雪が積もっている。
 薄らとではなく、それなりに厚くてふかふかと。
 今朝からちらりちらりと降ってはいたが、いつの間にかここまで積もっていたとは思わなかった。いや、そういえば天気予報でも積雪について話していた気がする。
 ……帰り路は歩き辛そうだ。
(あ、そうだ)
 下校時の足元を思って憂鬱になりかけたところで、読むものが決まった。
 今日のテーマは、『雪』だ。
『汚れつちまつた悲しみに』
 汚れつちまつた悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 汚れつちまつた悲しみに
 今日も風さへ吹きすぎる――
「――中原中也? 暗いなぁ」
「うわっ!?」
 詩集を読み始めてすぐ、後ろから声を掛けられて思わず声を出してしまった。思ったよりも大きな声が出てしまい、自分の口を塞ぐ。
「悪い、そんなに驚くとは思わなくて」
 戸惑うような声色の謝罪に振り返ると、受付にいたはずの図書委員の先輩が申し訳なさそうに見下ろしていた。
「人の読んでるものを覗き見したことについて、先に謝罪してほしいところですけど」
「ごめんなさい」
「許します。……受付はどうしたんですか?」
「どうせこの時間は誰も来ないから暇でさ。事務室の先生も出ていったし、君と話した方が有意義だと思って」
 言われて受付横の事務室へ視線を向けると、たしかに人の気配がない。
 そういうことならと隣の席へと促すと、「ありがとう」と爽やかな笑顔で礼を言われてしまった。思わず本を目深に持ち、顔を隠す。
「どうしたの?」
「いえ、なんでも」
「そっか。暖房、暑かったら言って」
 きっと、私の顔は今朱いのだろう。だから気遣ってくれている。
 優しい声に恥ずかしいやら心地好いやらと感情が混ぜこぜになりつつ、顔から本を退けて外の景色へと目を移す。
 しんしんと降り積もる雪は真っ白で、誰にも踏まれていないまっさらな状態。見ているうちに高鳴る胸はなんとか鎮もり始めてきた。
「雪、好きなの?」
「え?」
「なんだか熱心に見ていたから。あまりに熱のある視線で解けるかと」
「なんですか、それ」
 面白くもない冗談を言うものだから、あまりのくだらなさにうっかり笑みが零れてしまった。
「まあ、嫌いじゃないですかね」
「暗い詩、詠んでなかった?」
「偶然そのページだっただけです。そういう先輩は?」
「そうだなぁ――“上の雪 さむかろな。つめたい月がさしていて”」
「……なるほど。“下の雪 重かろな。何百人ものせていて”」
『中の雪 さみしかろな。空も|地面《じべた》もみえないで』
 声が重なる。
 それから少しの静寂の後、口を開いた。
「金子みすゞですか。意外ですね」
「これでも図書室の番人だからね」
 得意げに笑みを浮かべる顔が少しだけ気にくわなかったので、「常識ですけど」とそっけなく言ってやると、「マジで?」と本気で訊き返されてしまい、吹き出しそうになった。
 詩なんて昨今の学生は詠みやしない。常識外もいいとこである。
「先輩、お好きなんですか?」
「えっ?」
「雪、好きなんですよね? ほら、そんな詩を詠むくらいですし」
「あ、ああ。雪、雪ね。うん、好きだよ」
 何やら慌てたふうにはにかむ姿に少しだけ疑問を覚えたけれど、肯定の言葉を引き出せた。そんなことで少しだけ謎の優越感を覚え、私は思わずしたり顔になった。
「そういう君は、どうなんだ」
「私ですか。私は……あまり好きじゃない、かもしれません」
「そうなの?」
 少しだけ驚いたような声を出す先輩から、顔を逸らす。
 実際のところ、嫌いも何もないけれど……そう答えてしまったのは、ただ降雪の中を歩くのは億劫であるというだけのくだらない理由でしかない。
「少し歩けば服もローファーも濡れるし、滑ります。積もった雪の上なら猶更。なにより歩くだけで冷たい風が全身を刺し貫いてくる。寒さが苦手な私にとって、あまり好ましいとは言えない仲なのですよ」
 我ながら捻くれた子供のような理由だ、なんて考えながら雑に理由を並べたてた。
 先輩は自嘲気味に笑う私の顔を見つめて、少しだけ悩むようなそぶりを見せた。
「……“行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ
”」
 末に、一つの短歌を切り出してきた。
 これは……そうだ、小池光だ。たしか、意味としては……。
「今日降るなら明日も降るぞ、と。嫌味ですか?」
「違う違う。……本歌取りの方は知ってる?」
「え? ええっと――
“雪に傘、あはれむやみにあかるくて生きて負ふ苦をわれはうたがふ”……」
 私が言葉にしたのは、先輩の言った古歌のアンチテーゼのような意味合いを孕んだもの。解釈の一つとして、先輩の歌は生きる上での苦しみを表し、私の歌は雪灯りの中でそれをひと時でも忘れられる、というものがあったような気がする。
「雪が嫌いだとしても、悪い事ばかりじゃないさ」
 先輩はただ普通の事を教えるようにそう付け加えると、にっこりと柔らかな笑みを浮かべた。
 雪を解かすような暖かな笑み。その熱は私にとっては雪灯りなんてものではなく、ぶしつけにも顔を火照らせてくる。
「先輩は、|鴬《うぐひす》のような人ですね」
「……ウグイス?」
「万葉集です。図書室の番人もまだまだですね」
「それだけで分かるわけないだろ。……どんな歌なの?」
 雪の降る冬は今日まで。鴬の鳴く春は明日から訪れるだろう。
 先輩はまるで、雪を晴らして春を連れてくるウグイスのような明るくて魅力的な人だ。
 結構な勇気を振り絞って、そう伝えたつもりだったけれど……本人はあまりピンときていないようだった。
 遠回し過ぎたか、と内心で溜息を吐いていると、先輩はにっこりと笑った。
「へえ、それなら君もウグイスみたいなものだな」
「……え?」
「君と話していると、冬を忘れたように暖かくなるからね」
 ……混じりっけなしの優しい笑顔で告げる先輩がなんだか眩しくて、思わず目を逸らしてしまった。
 きっと先輩は深い意味など無しに言っている。仲の良い友達には、同じように言ってしまえるのかもしれない。
 それは理解しているけれど……ああ、顔が熱い。口元もだらしなくほころんでしまう。
『貴方の隣が、私にとって鴬の鳴く春なのです』
 一直線にそう伝えられたら、どれほど楽だろう。
 そんなことを思う傍らで、窓の外ではまだひらひらと雪が降っている。
 春はまだ遠い。けれど今この時は暖かくて、雪も嫌いにはなれなかった。


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