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スルツェイ

ー/ー



 もう無理だと思った。震えながら握った自分の五指の感覚さえ遠く、胸の底に巣食った塊がただ気持ち悪くて倒れ込むように横になったベッドは酷く冷たい。吸い込んだシーツの匂いに、最後に洗濯したのはいつだろうと浅い喘ぎの淵で考える。潔癖なわけでもないくせにこんな時ばかり気にする性質が嫌だった。体を動かす気にはならず、何かをしなければと思えば思うほどそれを現実に出来ていない事実ばかりがのしかかって、堕落していることを示すようできつく目を閉じた。ただただ逃げて、眠りたかった。

気がつけば吐き気は常にあった。撮影をしていても、食事をしていても、誰かに演じていてもすぐそばにあって、いつからいたのかもわからなくなったころに眩暈と頭を振られるような頭痛と一緒にその存在を報せた。新しいプロジェクトの準備だなんだと稽古場とリハで埋まった手帳の隙間をぬうように病院をあたっても原因ははっきりしなかった。吐き気も頭痛も、自分の身体が自分のものでなくなる感覚も、すべて俺の妄想なのだろうかと思い始めたころに劇のさなかにも発作が出るようになった。長帳場、一旦幕の降りた先の楽屋、きっと無様に蹲っているだろう俺の背に手を当ててその持ち主が焦った声をあげる。「とうじさん大丈夫なんですか?立てます?」それが、舞台に、という意味なのは言われなくてもわかっていた。若いこの役者は寸分違わず正しくて、それに寂しさを覚えることなんかお門違いだとわかっていた。周りのスタッフの押し殺した息遣いと視線、それらすべてが期待と不安と冷徹さを秘めていることは誰よりも自分がわかっていた。顔を上げて無理やりに笑ってみせると、彼はほっとした表情で肩を叩いた。それを合図に人がまた動き出す。スタッフの背中は、この人形はまだ大丈夫だ、まだ使える、と言っているように見えた。前を向けずに俯いた足元では、腐ったように進む足が見える。死んでしまったら俺は、しょせん使い切りのおもちゃなのだと突きつけられている気がした。

「打ちあげ出えへんの」「気力ないわ」「病院とかは?」「いった。4つ」回り込んで横に座ってきた園田は、顎にマスクをひっかけたままだった。にぎやかで熱気の篭った室内に嫌気がさして、そのままそこにいたら暴言を吐いてしまいそうで外に出て数分したころにこいつはなぜか追ってきたのだった。コートのフードを被っている俺など気にしていないように話しかけてくる園田に、内心酷く苛ついているのをどうにか隠す。ふうんと鼻から出るような相槌を打って、どうしよう、と呟いてすぐ片手に握ったままだったビールジョッキを狭いベンチに置く。ガラスの音が響く。居酒屋の前のガードレールは凍えるほどに冷えて灰色にくすんでいる。白い息を視線で追えば、12月の片田舎は空がきれいだった。都会とは違う色の空気に、出てきた郷を思い出して息を吸う。冬は嫌いだ。「やっぱさぶいな。戻ろおや、頭痛なるやろ」「……ちがう」行動のひとつひとつが勘に触って、知らないあいだに睨みつけていた。相手はこちらを見ない。見てもいない。自分が聞いたくせに興味なさそうにジョッキを煽る喉は街灯の下だといっそう白い。酷使したせいで痛むそれが、同じ役割を担うものが同じ人体にあることを、ふいに気持ち悪いと思った。不自然なことだと、吐き捨てるように心で詰った。泡を拭って、それでもこちらは見ない。フーッと息を吐いてから、気だるそうに口が動く、ちょっと言うねんけど、と吐く。「怖いんやろ」人前に立つのが怖いから辞めて、楽になりたいとか思ってんのやろ。それがただ体に出とるだけちゃうん。それって逃げやんな。ずるいよな。「……は」こいつはなにを、なにを言っているのだろう。いまなにを言われているのだろう。俺がまいっている姿なんか、近くで見てきただろうが。それを捕まえて、逃げだとまだ言うのか。立ち向かっているからの苦しみに対して、慰めはないのか。
  そこまで思考が至ったときに慰めを求めている自分が不意にはっきりと見え、酷く、酷く酷く醜く思えて、全身が大きく震えた。口元から白い息と一緒に言葉が紡ぎ出されるたびに耳元で潮騒の音が大きくなっていく。自分の荒い呼吸が耳について、我に返った時には右手が熱かった。目の前の頬がじわりと赤くなるのを見て、殴ってしまったのだと理解した。いつの間に立ち上がったのだろう、それもわからない。園田と俺のコートにはビールが滴っている。「そのだ、お前、おまえ」「とうじさん、もうな、俺らはここで死ぬしかないやろ」激昂して言葉が出てこない俺と対照的に、彼の顔は静かで、目元ばかりが鋭利な刃物のように光っていた。車も通らない裏路地の街灯がスポットライトのように髪を照らしていて、まるで舞台の上のようだと思う。その光はいつまでも俺に届いてこなくて、俺たちの誰一人としてここから抜け出せないのだと思うと安らぎが押し寄せて膝がやわらかく溶けた。誰もが同じで、いなくならないのだと言われた気がした。座り込んだ俺と視線を合わせるように園田が屈む。ジョッキを置いて、空いた手が両肩に回ってきて、そのまま抱きしめられた。コートがこすれてがさがさと音を立てる。その腕だけで、この男の考えていることがわかってしまったことが胸を刺す。それほどまでに誰かと近くにいることが悲しかった。淋しい、怖い、逃げ出したい。それは人目に晒されるものの恐怖だ。ずっと知っていた。そのうえでずっと無視していた。俺たちはこんなに近くにいるのに、この恐怖は自分だけのもので、きっと誰とも分かち合えない。
泣けるんやったらそれでええよ。どうとも思わへんよ、どこまで遠なっても俺らなんかどうせ離れられへんねんからさ。 言い聞かせるように、園田がこぼすそれが俺に対してのものでないことはきちんと理解していて、おずおずと回した背はやわらかかった。ここに、俺たちは、もっとたくさんの物を預けるだろう。そのままほうって歩いていくのだろう。そのことが漠然と知れて、ごめん、と初めて声をあげて泣いたのだった。


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 もう無理だと思った。震えながら握った自分の五指の感覚さえ遠く、胸の底に巣食った塊がただ気持ち悪くて倒れ込むように横になったベッドは酷く冷たい。吸い込んだシーツの匂いに、最後に洗濯したのはいつだろうと浅い喘ぎの淵で考える。潔癖なわけでもないくせにこんな時ばかり気にする性質が嫌だった。体を動かす気にはならず、何かをしなければと思えば思うほどそれを現実に出来ていない事実ばかりがのしかかって、堕落していることを示すようできつく目を閉じた。ただただ逃げて、眠りたかった。
気がつけば吐き気は常にあった。撮影をしていても、食事をしていても、誰かに演じていてもすぐそばにあって、いつからいたのかもわからなくなったころに眩暈と頭を振られるような頭痛と一緒にその存在を報せた。新しいプロジェクトの準備だなんだと稽古場とリハで埋まった手帳の隙間をぬうように病院をあたっても原因ははっきりしなかった。吐き気も頭痛も、自分の身体が自分のものでなくなる感覚も、すべて俺の妄想なのだろうかと思い始めたころに劇のさなかにも発作が出るようになった。長帳場、一旦幕の降りた先の楽屋、きっと無様に蹲っているだろう俺の背に手を当ててその持ち主が焦った声をあげる。「とうじさん大丈夫なんですか?立てます?」それが、舞台に、という意味なのは言われなくてもわかっていた。若いこの役者は寸分違わず正しくて、それに寂しさを覚えることなんかお門違いだとわかっていた。周りのスタッフの押し殺した息遣いと視線、それらすべてが期待と不安と冷徹さを秘めていることは誰よりも自分がわかっていた。顔を上げて無理やりに笑ってみせると、彼はほっとした表情で肩を叩いた。それを合図に人がまた動き出す。スタッフの背中は、この人形はまだ大丈夫だ、まだ使える、と言っているように見えた。前を向けずに俯いた足元では、腐ったように進む足が見える。死んでしまったら俺は、しょせん使い切りのおもちゃなのだと突きつけられている気がした。
「打ちあげ出えへんの」「気力ないわ」「病院とかは?」「いった。4つ」回り込んで横に座ってきた園田は、顎にマスクをひっかけたままだった。にぎやかで熱気の篭った室内に嫌気がさして、そのままそこにいたら暴言を吐いてしまいそうで外に出て数分したころにこいつはなぜか追ってきたのだった。コートのフードを被っている俺など気にしていないように話しかけてくる園田に、内心酷く苛ついているのをどうにか隠す。ふうんと鼻から出るような相槌を打って、どうしよう、と呟いてすぐ片手に握ったままだったビールジョッキを狭いベンチに置く。ガラスの音が響く。居酒屋の前のガードレールは凍えるほどに冷えて灰色にくすんでいる。白い息を視線で追えば、12月の片田舎は空がきれいだった。都会とは違う色の空気に、出てきた郷を思い出して息を吸う。冬は嫌いだ。「やっぱさぶいな。戻ろおや、頭痛なるやろ」「……ちがう」行動のひとつひとつが勘に触って、知らないあいだに睨みつけていた。相手はこちらを見ない。見てもいない。自分が聞いたくせに興味なさそうにジョッキを煽る喉は街灯の下だといっそう白い。酷使したせいで痛むそれが、同じ役割を担うものが同じ人体にあることを、ふいに気持ち悪いと思った。不自然なことだと、吐き捨てるように心で詰った。泡を拭って、それでもこちらは見ない。フーッと息を吐いてから、気だるそうに口が動く、ちょっと言うねんけど、と吐く。「怖いんやろ」人前に立つのが怖いから辞めて、楽になりたいとか思ってんのやろ。それがただ体に出とるだけちゃうん。それって逃げやんな。ずるいよな。「……は」こいつはなにを、なにを言っているのだろう。いまなにを言われているのだろう。俺がまいっている姿なんか、近くで見てきただろうが。それを捕まえて、逃げだとまだ言うのか。立ち向かっているからの苦しみに対して、慰めはないのか。
  そこまで思考が至ったときに慰めを求めている自分が不意にはっきりと見え、酷く、酷く酷く醜く思えて、全身が大きく震えた。口元から白い息と一緒に言葉が紡ぎ出されるたびに耳元で潮騒の音が大きくなっていく。自分の荒い呼吸が耳について、我に返った時には右手が熱かった。目の前の頬がじわりと赤くなるのを見て、殴ってしまったのだと理解した。いつの間に立ち上がったのだろう、それもわからない。園田と俺のコートにはビールが滴っている。「そのだ、お前、おまえ」「とうじさん、もうな、俺らはここで死ぬしかないやろ」激昂して言葉が出てこない俺と対照的に、彼の顔は静かで、目元ばかりが鋭利な刃物のように光っていた。車も通らない裏路地の街灯がスポットライトのように髪を照らしていて、まるで舞台の上のようだと思う。その光はいつまでも俺に届いてこなくて、俺たちの誰一人としてここから抜け出せないのだと思うと安らぎが押し寄せて膝がやわらかく溶けた。誰もが同じで、いなくならないのだと言われた気がした。座り込んだ俺と視線を合わせるように園田が屈む。ジョッキを置いて、空いた手が両肩に回ってきて、そのまま抱きしめられた。コートがこすれてがさがさと音を立てる。その腕だけで、この男の考えていることがわかってしまったことが胸を刺す。それほどまでに誰かと近くにいることが悲しかった。淋しい、怖い、逃げ出したい。それは人目に晒されるものの恐怖だ。ずっと知っていた。そのうえでずっと無視していた。俺たちはこんなに近くにいるのに、この恐怖は自分だけのもので、きっと誰とも分かち合えない。
泣けるんやったらそれでええよ。どうとも思わへんよ、どこまで遠なっても俺らなんかどうせ離れられへんねんからさ。 言い聞かせるように、園田がこぼすそれが俺に対してのものでないことはきちんと理解していて、おずおずと回した背はやわらかかった。ここに、俺たちは、もっとたくさんの物を預けるだろう。そのままほうって歩いていくのだろう。そのことが漠然と知れて、ごめん、と初めて声をあげて泣いたのだった。