すっかり生活の一部となった疫病対策のために、映画をエンドロールまで見終わった頃にはもう長い列が出来ていた。その列のほぼ終わりに立ちながら、ぼくはオノザワくんのことをなんとなく思い出していた。……といってもぼくとオノザワくんの間に特別ななにかがあったわけではないし、第一同性同士でそんなことが起こってもぼくは別にうれしくはならない、と思う(と思う、なんて思考の内なのに予防線を張るところがぼくだ)
アルバイト先、数日前から新しく人が来るとは聞いていた。なぜなら面接をしていたし、そうでなくてもいつだって人には飢えている場所だから誰かなんて有り余るくらいに欲しかった。
「すみません、来たばっかで悪いんすけど俺帰らせてもらいますね」
聞いてはいたがこんな奴だとは誰もが思っていなかっただろう。始業して20分、そう宣言するやいなやオノザワくんはすぐに荷物をまとめると、本当にドアをくぐって帰ってしまった。
こうやって思い返してみれば案外衝撃はあったのかもしれない。仕事をする手は止めず、けれどみんながあっけにとられていて、そんな中で一番仕事を進められていなかったぼくが仕方なく追い掛けることになった。ドアを開けるまでの間に3回はコール音が鳴っていた。
「なにしてんの、きみ」
どこかへ行ったと思っていた当人はまだビルの入口近くの廊下にいた。
「いや、一回外出たんすけどね。寒くて」
「そういうことじゃなくて……うーんまあいいや、戻って」
当たり前のぼくの言葉に彼は目を丸くした。
「え?それあんたの本音ですか?」
今度はぼくが目を丸くする番らしかった。呆れと疑問が混ざったため息が落ちた。
「オノザワっていうんですけど、あんた名前なんていうの」
「ナツキだけど……なんなの?」
「俺は帰るんですけど、ナツキさんもいっしょに帰っちゃいません?」
ニッと口を曲げて、その日初めて見た笑い顔を、キタキツネみたいだなあ、とぼんやりとぼくは思っていた。
「ナツキさん、書類お願いしてもいいかな」
「ああ構いませんよ」
あの日の逃走劇はというとオノザワくんはクビになり、ぼくはしっかり絞られる形で幕を閉じた、らしい。何もなかったように同僚は接したり無視したりあるいは消えていったりした。変わらない日々。吸い込まれてまたはかき消されてもうオノザワくんというノイズが鳴っていたことさえなかったことのようだった。
だけど彼はいた。ここではないどこかにいた。
「どこかにいるってことを思ったらもうそれだけでその人はいるんだよ、それがどれだけ脆弱で、陳腐な祈りだとしても」
オノザワくんはよくそんなことを言っていた。それを聞くたびに酔ったぼくは、ロマンチストじゃんきもーと軽口を叩いて過ごしていた。
「ナツくんは笑ってっけどさー、ほんとだよこれ。言霊ってやつ」
一応信じてみればいいのに、タダだし。
オノザワくんはいつもそこで会話を切り上げて缶ビールを傾けることを再開していた。
「……オノザワくん?」
「あ?ナツくんじゃん、バイトおわったの?」
真昼だというのに人まみれの電車、押されて入った7番で、どうしてこんな偶然があるのかとその日つよく思うことになった。
「なにしてんの?」
「あー……バイト、探しててさ」
オノザワくんはそのまま携帯端末に目を移した。それから1分も経たない間にぼくの上着で携帯が震えて、取り出してみるとオノザワくんからメールが来ていた。視線をずらすとへらりと笑うキタキツネがいた。
その日ぼくらはとりとめもない話をお互いが降りるまでずっと、ずっとメールに書き連ねていた。
オノザワくんはバイトという身分が好きらしいこと、ぼくの勤務先が合わなさすぎただけで普段はあんなことはしないこと、くるぶし丈の靴下が嫌いなこと、スニーカー派なこと、もうすぐ3年目になる彼女がいて近々一緒に住むらしいこと、だから稼ぎたいこと、焼肉よりも焼き鳥が好きなこと、いわゆるバイなこと、映画と小説の趣味は合ったのに漫画と音楽は合わなかったこと、父子家庭だったこととぼくがすきらしいこと。
すこし迷ってから、でも彼女いるじゃん、と返したところで、降りてしまったらしくオノザワくんから返信はなかった。
それから数ヵ月が経って、年も変わった。散弾銃で死ねなかったぼくはバイトから社員になった。溜まっていたメールを消すようになった。オノザワくんは結婚するなら婿入りしたいなと言うようになった。ぼくはそうなんだとしか言わなかった。
会社が不渡りを出してぼくは社員からニートになった。運命というやつらはそんな瞬間を選んで眼前に現れる。そうでもないのなら、いったいなんなんだ。
「なにしてんの、きみ」
「いや、俺のこと覚えてっかなーみたいな?」
「勝手に入んなよ……まあ痩せたね」
それはナツくんもじゃん、と彼が相好を崩してみせた。
「今日一日でかなり痩せたかも」
自嘲にひとしきり笑ってからオノザワくんのもつ空気が改まるのを指先で感じる。やめて、やめてもうなにも言わないでここにいて、でも、ぼくはいまだれのこえもことばもききたくない。
「俺さ、家借りたんだ……それから彼女と別れた……つーか振られた。マリッジブルー的な、やつでさ」
見て取れるほどに震えるひとの崩れそうな肩に触れてしまったらぼくはもうぼくを保てなくなってしまうと確信があって、ぼくはずるいせこいださいぼくだからひとり暖房を切られて冷えはじめた廊下に立ち尽くしていた。
寒いのはきらいだ。映画館の空調と外気の差にコートの衿をなおしながら毎年のことを思う。ぼくは今年、あのメールたちのことを何度思い出すのだろう。