別れ
ー/ー
数日後、シロクマは夜の帰り道でまたピアノの音を聞く。いつもの曲、いつもの音色。シロクマはまた誘われるようにピアノの元へと赴いた。そこにはやはり演奏する少女の姿があった。
少女はショートカットの黒い髪を揺らし、夢中になって鍵盤を叩いている。きれいな音色だが、少し音調がいつもより激しい。その音色にはどこか怒りのようなものが含まれていた。やがて少女は汗を流しながら演奏を終えると、振り向きもせずシロクマに言葉を放った。
「......また、聞きにきたの?」
背中越しに見える少女の肩は強張っており、やはりどこか怒気が感じられた。シロクマはそっと少女に近づく。
「......その、こないだはごめん。店で説教みたいなこと言っちゃって。これ、CDのお釣り」
シロクマは財布からお金を取り出して少女へと差し出す。けれど少女は隣にいるシロクマに振り向きもせず答えた。
「......いらない」
そこで会話は途切れてしまう。少女は椅子に座ったまま、ピアノに視線を落としたまま全く動かない。シロクマは何とか会話の糸口を探ろうと少女に話題を持ちかける。
「髪の色、戻したんだね。やっぱり君は髪を染めたりしない方が似合ってると思うよ。何というか、前はさ、ちょっと背伸びしてたっていうか......」
「何も知らないくせに」
少女は怒気を含めたままポツリと呟く。シロクマはまた余計なことを言ってしまっただろうかと懸念した。だが少女はそんな狼狽するシロクマに感情の籠もらない目を遣る。そして無表情のままに、小さく口を開いたのだった。
「あのね、シロクマさん」
そして少女はシロクマに全身を向け、真っ直ぐに瞳を合わせる。
「私、もうピアノやめようと思うんだ」
その突然の告白にシロクマはびっくりした。シロクマの頭の中には瞬時に深い疑問が過る。あれほど楽しそうにピアノを弾いていたのに、何故突然やめようと思っているのだろうか。
「あのね、シロクマさん」
少女は椅子から立ち上がり、決然とした口調でシロクマに告げる。
「『好き』で居続けることって孤独なことなの」
少女はピアノの鍵盤に右手を添える。黒い鍵と白い鍵が彼女の指先に触れる。けれど彼女は音を奏でることをしない。
「あのね、私ね、ピアノを弾くことが『好き』なの。でも同時にね、私と同じ『好き』を共有してくれる人をどうしても探し求めてしまうの。私の『好き』を理解してくれる人。私の『好き』を受け入れてくれる人。そうした人が、私はどうしても欲しくなってしまうの」
少女は鍵盤の上をなぞるように右手を滑らせた。その手は優しくてしなやかで、とてもピアノのことを愛おしく思っていることが伝わった。けれど彼女は音を奏でることをしない。
「けどね、この町にはね、私以外にピアノが好きな人がいないの。みんなみんな流行してる音楽に夢中になって、私は必死においてけぼりにならないように何度も追いかけて。けど、それでも全然みんなと会話が噛み合わなくて。今日だって、それが原因で友達と絶交しちゃった」
そして少女はピアノから手を離す。もはやもうそれに触れることさえしないと決意を定めたかのように。シロクマはそれがとても寂しいことだと感じた。彼女はピアノが大好きなはずなのに、その気持ちを拒もうとしている。だからシロクマは彼女にもう一度告白したのだった。
「僕は、君のピアノが大好きだよ」
そしてシロクマはそっと少女の傍に寄り、その小さな体を両腕で包み込む。その大きな手は温かく、柔らかだった。それは少女の寂しさを溶かしたい一心で現れたシロクマの思いの丈を込めた行動だった。
「君は、独りなんかじゃないよ」
そしてシロクマは呟くように少女に告げる。少女と同じ思いを抱いている人が、確かにここにいることを表明した。
「......ありがとう」
シロクマの両腕に包まれながら、少女はただ一言呟く。
けれど、
「でも、『好き』って永遠に続くものじゃないから」
その言葉とともに少女はシロクマの腕から離れてしまう。その白い体と白いドレスとの距離は近いはずなのに、まるで永遠に埋まることがないほどに遠いように見えた。少女は無表情な顔で言葉を紡ぎ続ける。
「ねえ、シロクマさん。『好き』ってね、すぐに変わっちゃうものなの。最初はね、みんなね、私がピアノを弾いたら喜んでくれた。『上手だね』って。『素敵だね』って。それがきっかけで友達になろうって言ってくれる子もいた。
けどね、だんだんみんな私のピアノから離れてしまうの。私はずっと私が大好きなピアノを弾き続けたいけれど、友達たちはみんなすぐ他のものを『好き』になってしまうから。流行してる音楽とか、新しい友達とか。私のピアノはすぐに忘れられて、やがて私のこともどうでもよくなってしまうの。同じ『好き』がずっと繋ぎあえるって、凄く難しいことなんだ。
だからね、シロクマさん。私はあなたの『好き』を信じられない」
少女は突き放すように最後の言葉をシロクマにぶつけた。シロクマはそのとどめのような言葉に、何も言い返すことができなかった。かつて自分が大好きだったピアノの演奏を、今ではすっかり止めてしまっていたのだから。シロクマはただ、少女の目の前で沈黙をする。
「......さようなら、シロクマさん。私はもう二度とピアノを弾かないよ。だってピアノを弾き続けたら、誰も私の『好き』を受け入れてくれないから」
そして少女は森から去っていった。シロクマは少女を呼び止めることもできず、ただその場で立ち尽くしてた。
――彼女はもうこの森に訪れることはない――
その事実を悟ると、やがてシロクマは溢れるほどの涙を流し続けたのだった。
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少女はショートカットの黒い髪を揺らし、夢中になって鍵盤を叩いている。きれいな音色だが、少し音調がいつもより激しい。その音色にはどこか怒りのようなものが含まれていた。やがて少女は汗を流しながら演奏を終えると、振り向きもせずシロクマに言葉を放った。
「......また、聞きにきたの?」
背中越しに見える少女の肩は強張っており、やはりどこか怒気が感じられた。シロクマはそっと少女に近づく。
「......その、こないだはごめん。店で説教みたいなこと言っちゃって。これ、CDのお釣り」
シロクマは財布からお金を取り出して少女へと差し出す。けれど少女は隣にいるシロクマに振り向きもせず答えた。
「......いらない」
そこで会話は途切れてしまう。少女は椅子に座ったまま、ピアノに視線を落としたまま全く動かない。シロクマは何とか会話の糸口を探ろうと少女に話題を持ちかける。
「髪の色、戻したんだね。やっぱり君は髪を染めたりしない方が似合ってると思うよ。何というか、前はさ、ちょっと背伸びしてたっていうか......」
「何も知らないくせに」
少女は怒気を含めたままポツリと呟く。シロクマはまた余計なことを言ってしまっただろうかと懸念した。だが少女はそんな狼狽するシロクマに感情の籠もらない目を遣る。そして無表情のままに、小さく口を開いたのだった。
「あのね、シロクマさん」
そして少女はシロクマに全身を向け、真っ直ぐに瞳を合わせる。
「私、もうピアノやめようと思うんだ」
その突然の告白にシロクマはびっくりした。シロクマの頭の中には瞬時に深い疑問が過《よぎ》る。あれほど楽しそうにピアノを弾いていたのに、何故突然やめようと思っているのだろうか。
「あのね、シロクマさん」
少女は椅子から立ち上がり、決然とした口調でシロクマに告げる。
「『好き』で居続けることって孤独なことなの」
少女はピアノの鍵盤に右手を添える。黒い鍵と白い鍵が彼女の指先に触れる。けれど彼女は音を奏でることをしない。
「あのね、私ね、ピアノを弾くことが『好き』なの。でも同時にね、私と同じ『好き』を共有してくれる人をどうしても探し求めてしまうの。私の『好き』を理解してくれる人。私の『好き』を受け入れてくれる人。そうした人が、私はどうしても欲しくなってしまうの」
少女は鍵盤の上をなぞるように右手を滑らせた。その手は優しくてしなやかで、とてもピアノのことを愛おしく思っていることが伝わった。けれど彼女は音を奏でることをしない。
「けどね、この町にはね、私以外にピアノが好きな人がいないの。みんなみんな流行してる音楽に夢中になって、私は必死においてけぼりにならないように何度も追いかけて。けど、それでも全然みんなと会話が噛み合わなくて。今日だって、それが原因で友達と絶交しちゃった」
そして少女はピアノから手を離す。もはやもうそれに触れることさえしないと決意を定めたかのように。シロクマはそれがとても寂しいことだと感じた。彼女はピアノが大好きなはずなのに、その気持ちを拒もうとしている。だからシロクマは彼女にもう一度告白したのだった。
「僕は、君のピアノが大好きだよ」
そしてシロクマはそっと少女の傍に寄り、その小さな体を両腕で包み込む。その大きな手は温かく、柔らかだった。それは少女の寂しさを溶かしたい一心で現れたシロクマの思いの丈を込めた行動だった。
「君は、独りなんかじゃないよ」
そしてシロクマは呟くように少女に告げる。少女と同じ思いを抱いている人が、確かにここにいることを表明した。
「......ありがとう」
シロクマの両腕に包まれながら、少女はただ一言呟く。
けれど、
「でも、『好き』って永遠に続くものじゃないから」
その言葉とともに少女はシロクマの腕から離れてしまう。その白い体と白いドレスとの距離は近いはずなのに、まるで永遠に埋まることがないほどに遠いように見えた。少女は無表情な顔で言葉を紡ぎ続ける。
「ねえ、シロクマさん。『好き』ってね、すぐに変わっちゃうものなの。最初はね、みんなね、私がピアノを弾いたら喜んでくれた。『上手だね』って。『素敵だね』って。それがきっかけで友達になろうって言ってくれる子もいた。
けどね、だんだんみんな私のピアノから離れてしまうの。私はずっと私が大好きなピアノを弾き続けたいけれど、友達たちはみんなすぐ他のものを『好き』になってしまうから。流行してる音楽とか、新しい友達とか。私のピアノはすぐに忘れられて、やがて私のこともどうでもよくなってしまうの。同じ『好き』がずっと繋ぎあえるって、凄く難しいことなんだ。
だからね、シロクマさん。私はあなたの『好き』を信じられない」
少女は突き放すように最後の言葉をシロクマにぶつけた。シロクマはそのとどめのような言葉に、何も言い返すことができなかった。かつて自分が大好きだったピアノの演奏を、今ではすっかり止めてしまっていたのだから。シロクマはただ、少女の目の前で沈黙をする。
「......さようなら、シロクマさん。私はもう二度とピアノを弾かないよ。だってピアノを弾き続けたら、誰も私の『好き』を受け入れてくれないから」
そして少女は森から去っていった。シロクマは少女を呼び止めることもできず、ただその場で立ち尽くしてた。
――彼女はもうこの森に訪れることはない――
その事実を悟ると、やがてシロクマは溢れるほどの涙を流し続けたのだった。