朝の邂逅が偶然ではなく必然へと変わり出した頃、通学路の花壇に咲いていた紫陽花が雨に濡れる日も減り始めた。自転車のタイヤを滑らせる雨の季節が過ぎると、羽化した蝉たちが夏を引き連れてやって来る。
下校時にしょっちゅう遠回りをし、みどり公園という広い公園の前を通るようになったのは、流石に気まぐれだということにした。あいつがいればラッキー。それぐらいで充分だ。
「よう」
男らしい掛け声に、少年は白いシャツの背を大袈裟なほどびくりと震わせ、振り向いた。
初夏の放課後、午後三時を過ぎた時分、向こうのグラウンドでは小学生たちが歓声を上げて駆け回っている。少年はそれを遠目に小さな手洗い場に跪き、抱えている布を一心に水で濯いでいた。頭上からは蝉の喚き声が降り注ぐ。
「桜庭さん……」
虫の声にもかき消えそうな少年の声に、少女は眉を寄せて首を傾げ露骨に睨みつける。
「菜々さん……」彼は少し掠れた声で言い直し、右腕で額の汗を拭った。「こんなに早く、どうしたんですか」
「サボっちゃった」彼女は、ぱっと向日葵のような眩しく明るい笑顔を咲かせた。つまんないし、と付け加えるように通学鞄を軽く振る。自習に割り振られる木曜の六限、教室に籠っているぐらいなら、家で昼寝でもする方が精神衛生上ずっと有意義だ。そんな不真面目な女子高生の事情など知らない彼は、中学校よりも放課時刻が遅く、更に電車で通っている彼女と鉢合わせるとは思いもしなかったのだ。
「あんたこそ、何やってんの」
少女はしゃがんだままの少年の手元を覗き込む。彼が手元でくるくると丸めた布の塊は既にぐっしょりと濡れていて、排水溝にぼたぼたと雨を降らせている。二年前に彼と同じ中学校に通っていた彼女は、それがひどく汚れた体操服であると、ひと目で見抜くことができた。
「……さっきの時間、五時間目、体育で」
少年は泥だらけの体操服を軽く開いて見せる。袖に入っている刺繍の名字さえ読み解くのが困難なほど、体操服はすっかり泥に汚れてしまっていた。
「なにそれ、ぐしゃぐしゃじゃん」
「転んだんです」
「どう転べば、そんだけ汚れんのよ」
「グランドの隅、水飲み場ありますよね。あそこで転んで、水で地面が濡れてたから……」
へえ、と顔を上げた少女は背を伸ばす。「新聞配達なんかしてんのに。だっさ」そしてからかうように笑う。少年は無慈悲な言葉に対して肯定も否定もしないまま、再び流水に腕を突っ込んた。家の洗濯機で直接洗うには、少々しつこい汚れだ。まだ時間が経たないうちに、少しでも泥を落としておきたいのだろう。
そんな少年に少女も背を向け、小さな砂場を抜けて東屋のベンチに腰を下ろした。一息ついた隣には、無防備にチャックを開いている白いエナメルの鞄。体操服など学校ですぐに洗えばいいものを、彼はわざわざ公園まで足を運んだらしい。
あいつは勉強なんてしてるのか。ふと興味が湧き、少女は無遠慮に鞄を覗き込んだ。数学や国語、音楽等の懐かしい教科書に、無地のA4ノートが数冊。
勝手に一冊拝借する。あの朝見た手帳の文字と同じ筆記で、「理科」と表紙に書かれていた。中を開くと、水素と酸素を組み合わせた水の分子式。分子と原子の説明が、彼らしく丁寧に書いてある。ただそのページは一度真っ二つに千切れてしまった後で、セロハンテープで念入りに修復されていた。
パラパラと捲ると、所々で同じように、千切れたページをテープがくっつけている。そうして彼の文字を通り過ぎ、白紙のページを繰ってたどり着いた裏表紙の裏面で、少女は思わず息を呑んで手を止めた。何重にも修正テープでなぞられ、消したいものを消し続けたかさぶたのような凹凸の上。そこには黒の、恐らく油性のマジックで、言葉がひとつ書き殴ってある。
死ね
誰にでも読み解ける太く大きな文字の筆記は、これまでの彼の字体とは明らかに異なっていた。周囲にも似た言葉があるのだろうが、大量のテープでそれらは覆い隠されていた。
ノートから顔を上げたが、彼は彼女が自分の鞄を漁っていることに気づいているのかいないのか、背を向けて額の汗を拭っている。そうして彼が両手で広げた体操服の背に刻まれた泥は、本人がどれほど器用に転んでもつけられない、靴跡のしま模様をみせていた。
少年は制服の襟を摘まんで風を送りながら、体操服片手にようやくベンチまで戻って来た。絞って丸めた体操服をテーブルに置き、頬に汗をこぼしながら水筒に口をつける。
「これ、あげる」
少女は小さく折り畳んだビニール袋を突き出した。
「今から乾かしたって、そのまま入れたら、鞄の中汚れるでしょ」
少女の珍しく積極的な優しさに目を丸くしながら、少年は口元を拭って礼を言った。テーブルを挟んだベンチに体操服を広げる彼が、その背側を見せないよう立ちまわっているのに、少女は気づかないふりをした。彼がなぜ、学校でその汚れを落とさずここまでやって来たのか。その理由は既に明確だったが、口にはしなかった。
ようやく少年は少女の隣に腰を下ろす。理由もなく無意識に並んでベンチに腰掛けるまで、出会ってから実に二か月半という時間が経過していた。
酷暑が予想される今年の夏は日増しに暑さを募らせ、この日も今年一の最高気温に至っている。タオルで額や首元を拭う姿を眺めていると、前髪についた汗を拭きとった彼と目があった。なに、と少女が見つめ返すと、彼は慌てて目を逸らしてしまう。彼が長期間ため込んできたコミュニケーション不足の弊害は、ちょっとやそっとでは失われないだろう。
「その、髪型が、違うなと思って」
「あ、これ?」
少女は後ろで一つにまとめている髪の房を片手で軽く握った。
「さっきの時間、移動授業でさ。違う教室で授業あったんだけど、クーラー壊れてるとか拷問じゃない?」
髪が首にかかる暑ささえ耐え難く、細いエナメルのゴムでまとめたままでいた。髪ゴムに指をひっかけてするりと解く。頭を振ると、背の中ほどまで伸びた真っ直ぐで艶やかな黒髪が、揺れに合わせて緩やかに波打った。
それを少年は見ているだけで、例え機器を持っていようが動画も写真も撮る気配なく、ただ真っ黒な瞳に真っ黒な髪の毛先を映している。
「あんただって、目、見えてんじゃん。いつもより」
汗に濡れたおかげで少年の前髪は幾束かに分かれ、いつも通りにその目を隠していなかった。少女が笑いかけると、彼はたちまち前髪を指で梳き、頼まれてもいないのに目を覆う。
「反抗すんな。可愛くない」
「そんなつもりじゃないです」
彼の声は小さく、笑っているように目を細めているが、その瞳の深度はいつもより深みを増している風だった。瞳に被さる曇りの影は、伸びた前髪のせいだけではない。
「ねえ」
少女は少年にぐっと顔を近づけ、頬を上げていたずらっぽく笑う。
「デートしよ」
ぽかんと目を見張った彼は、初めて耳にする英単語のように少女の言葉をぎこちなく反芻した。
「そう」
「……何するんですか」
あらゆる疑問を感じている様子の少年から顔を離し、少女は呆れた声を返す。
「そんなん決まってんじゃん」
口にしてから、自分自身そういった事柄に実に疎いことを思い出す。行き過ぎたことは必要以上に知ってしまったのに、そこに至るまでの実に初歩的でありきたりな事柄を、習いもしなければ語り合う誰かもこれまで持たなかった。
「なにすんの」
「ええ……」少年が引きつったうめき声を小さく上げる。
「男でしょ、考えてよ」
「そんなこと言われても」
少女以上に疎い少年は、両腕を抱えてすっかり困り切ってしまった。
ぽとりと落ちた二人の沈黙に、うるさい蝉の鳴き声が侵食しては夏の色をつける。
「どっか行こうよ」
「どこに行くんですか」
「どこがいい」
「どこでも」
蝉の羽音に負けないため息をついた少女は、大袈裟に肩をすくめる。
「それって一番困るやつじゃん。今日何食べたいで、何でもとか返すやつ。すっげ―迷惑」
「公園とかじゃなく、もっと遠くですか」
「そりゃあね」
「どこまで遠くですか」
質問を重ね続ける少年に、少女は形の良い眉を顰めて半身を倒すと、わざわざ彼の顔を下から見上げるように覗き込んだ。
「もしかして、いや?」
「いえ、あの、全然、そんなわけなくって……」
過ぎた反感を買って嫌われやしないかと、慌てて少年は首を横に振った。伸びた前髪を揺らし、迷いを埋めた瞳で、身体を起こす少女を見返す。
「その、休みが合うかわからなくって……」
「新聞でしょ。別に休みが平日でもさ、もうすぐ夏休みじゃん。中学なんて補習もないし、いつだって楽勝じゃない」
「昼も、バイトがあるから……」
「バイト?」思わず少女は頓狂な声を上げる。「あんた、昼も働くの?」
「夏休み入ったら、夕刊も配るので」少年は頬を指でかきながら言った。彼女の喉から「夕刊?」と間の抜けた声が漏れる。
「特にお盆の時期とかだと、帰省する大学生や、大人の方も多いので。穴が空くよりはってやらせてもらってるんです」
「それって、去年の夏も? 昼間っからうちの前通ってたの?」
「夕刊は取ってる人が違うから、朝とはルートも違うんです」
一時的な穴を補うために地理感覚のない未経験者を新しく雇うよりは、普段から朝刊を配っている地元の少年を使った方が効率的という考えなのだろう。朝夕と広い面積をカバーしているおかげで、彼は街一体の地理に詳しくなった。公園近くの郵便局の場所を知っていたのも、真面目な仕事の賜物であった。細い路地が気になり、配達後一人で立ち寄って見つけたのが、崩れそうな古本屋や老舗の駄菓子屋だった。
「それが休みがないって言ってんの。あんた、子どものくせに一体何が楽しくて生きてんの」
「さあ……なんでしょうね」いかにも不思議そうな声音だ。
「じゃ、もしかして冬休みも?」
「年末も帰省する人はいるし、折り込み広告も増えるから。雪が降ったりしたら夏よりずっと大変ですよ。手が動かないし、よく滑るし」
だけど春休みはしていないと取り繕うように言うのに、呆れと感心のため息をついた。
だからこそ彼は、遠くへ行くことに躊躇っていた。朝と夕の配達に間に合わなければ、いくら築き上げた信頼があっても、立場の弱い中学生などあっという間に不適当だとみなされるだろう。これまで二年以上同じ仕事を真面目に続けてきた彼にとって、それはあまりに不憫かつ気の毒な話だ。彼は何軒も当たった中で、唯一許可をくれたのが今の専売所だとも言った。それをただ一日の思い付きで壊してしまっては、意地悪の範疇を超えてしまう。
「ちょっと待ってください」
彼は横に置いている通学鞄に右手を差し入れた。
「シフトなので変則的ですけど……夕方と翌朝の休みが並んでる日があるかも」
誰にも触れさせないよう、わざわざチャックのついた内ポケットから大事そうに取り出したのは、少女にも見覚えのある黒い手帳だった。
まだ骨の細い指でページを繰りながら、貼り付けた小さなカレンダーを見つめる瞳はひたむきで、少女は黙って彼の口が動くのを待った。
やがて、薄い紙の上を滑る人差し指が、日付の一つではたと止まった。
「一日だけですけど……」
「いつ?」
「八月五日。夕刊も翌日の朝刊も休みなので、少し遅くなっても大丈夫です。……だけど月曜日で、平日だから……」
「じゃあ、そこにしよ」
「いいんですか」
至極あっさりと言い切った少女に、手帳から目を離した彼は心配そうな顔をする。
「ぼくはよく知らないけど、高校って、中学みたいな夏休みじゃないんですよね。その、大丈夫なんですか……」
「気にすんなよ、少年」
彼が膝に置く手帳を指先で軽く叩き、彼女はにやりと笑った。
「あんたらみたいに四十日あるってわけじゃないけどさ、ちゃんと夏休みもあるっての。二週間ぐらい」
本当は夏季補修のため八月七日の水曜日から終日の夏休みに入るのだが、平然と言ってのけた。進学校を名乗るために存在する補習授業で、貴重なたった一日を潰してしまうなんて、人生における損だ。馬鹿だ。そんな真面目さ、知ったこっちゃない。
「あんたじゃ頼りないからさ、どこ行くかは私が決めたげるから。あんたはてるてる坊主でも作っときな」
「変なところ、言い出さないでくださいよ」
「補導はされないようにしとくよ、一応。文句言うなよ」
それよりもと、少女は彼の左手に右手を重ね、ぱたんと手帳を閉じさせた。
「よくそんな身体でもつよね。義務教育なんだから、勉強しときなよ。そんな忙しいならろくにしてないんでしょ」
閉ざされた手帳を両手で握り、どこか不安げな表情を見せていた少年がやっと笑った。素直に頷く彼の瞳からは、向こうに広がる夏空のように、曇りはすっかり消え去っていた。