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縁が結ばれ

ー/ー



ジュディスは二人との団欒を楽しんだ。日本に来て本当によかったと思った。
「ウォルター少佐は聡明な若者だった」
 往時を思い出すかのように、天井のペンダントライトを見やりながら老紳士は言った。
「洞察力もあった。ハミルトン中将は私のことを茫洋とした殿様みたいに思っていたようだが、ウォルター少佐は、私の中に彼にしか見えない何事かを見出したようだった」
「それで、あんなおかしなサインをされたのですか」
「ん?」ジュディスが何を言っているのか、わかない様子だったが、すぐに思い出したようにうなずいた。
「いや、あれは彼に望まれて書いたのです。『オヤマカチャンリン』のことですね」
「ええ、最初は東洋のおまじないか何かと思っていました」
 やはり、この人はすべてを自分で緻密にこなせる人なのだ、とジュディスは思った。婦人と、邸宅から見える山の高さをコサインで求めるかタンジェントで求めるかを言い合ったくらいなのだ。記憶力も抜群によかったのだろう。
「素晴らしい記憶力ですね」
「江川太郎左衛門先生の塾で砲術を学び、細かいことに気が向くようになりました。あれは風力や風向、天候を加味しながら計算しないといけないのです。ただ……」
 ジュディスは首をかしげて次の言葉を待った。しかし老紳士から出た言葉はシンプルだった。
「それ以前のことになると往時茫々です」
 昔のことを思い出せないと言った。
 いや、思い出したくないのだろう。
 ジュディスは老紳士の心情を理解し、深く頷いた。
「私はここを第二の故郷としました」
 この老紳士は、生まれ故郷を捨て、この西那須野に骨を埋めることにしたのだ。ジュディスは彼の苦衷を想像したが、それは自分にはとうてい立ち入ることのできない領域なのだろうと思った。この人は、田原坂、都城、延岡、鹿児島で、師と、友と戦ったあの日以来、故郷に帰ったことはなかったのだ。
 ジュディスの表情に自分への傷ましい想いが生まれたことに、気がついたらしく、老紳士は話題を元に戻した。
「お国のイギリスのおかげで、私も仕事を全うできました。いくら感謝してもしきれるものではありません」
 そう言われても、ジュディスに返答できる話題ではなかった。
「海軍はイギリスの支援で世界最高水準の艦艇を多く取り揃えられました。当時、進水した四十四隻、十九万四千四百七十三トンのうち、二十七隻十三万三千三百六十七トンがイギリス製でした。『三笠』以下の戦艦六隻すべてと装甲巡洋艦八隻のうち四隻がイギリス製の世界最高水準の新鋭艦だったのです」
(確かに細かいわね)
 ジュディスは先ほどの婦人の言葉を思い出して微笑した。
「英米での外債募集も、イギリスとの同盟がわが国の外債に信頼感を与えたのです。そして、海底ケーブルが世界中に敷設されたことによって戦況を新聞への第一報として紹介できました。ケーブル網を握っていたお国のマスコミ、ロイター通信やタイムズ、ノースチャイナ・ヘラルドが好意的に記事にしてくれたことが大きかったのです。戦費総額十八億二千六百三十万円の八十三%を公債・借入金で賄いました。これは一般会計支出の二倍というものです。十八億のうち四割近い六億八千九百六十万円を英米で売り出した公債を完売して得たのです」
 ジュディスは細かいといって笑った自分を恥じた。
 この人は軍人であると同時に国家の体力をも政治家のように常に気にかけていたのだ。あの時代、シビリアンコントロールは日本ではまだ生きていたはず。でも戦場の外にいる政治家や国民やマスコミ以上に、この人は、自分達の限界点をしっかりと見据えて戦場にいたのだ。
 やはり、すごい人だったのだ。
 ジュディスにとって濃密な時間はまたたくまに過ぎた。
 夜分の来訪を詫び、歓待への感謝を伝え、ジュディスは席を立った。
 玄関前のホールでジュディスは老紳士にハグをした。
 老紳士は驚いたようだった。
「イギリスの淑女に初対面でハグをされたのは初めてだ」
 傍らの婦人に嬉しそうに言った。
 ジュディスは婦人ともハグをした。
「おもてなし、ありがとうございます。一生忘れることはないでしょう。ミルクティも素晴らしかった」
「良い旅をね。神様の恩寵あらんことを」
 ドアを開けると、老紳士の横に立つ婦人が言った。
「イギリスの女性は礼儀正しいと聞きますけど、本命の人には積極的にアプローチするのでしょう?」
 笑みを浮かべる彼女の目が優しさを増している。
「どうでしょうか。私はまだ……」
「まだ?」
 いたずら好きの童女のような表情を浮かべて婦人はジュディスの顔を覗き込んだ。ジュディスの顔が熱を持った。
「きっとあの人も同じ想いですよ」
「本当?」
 思わず礼節を欠いた声を出してしまった。
「本当よ。さあ、後ろをごらんなさい」
 振り向いたジュディスの前に霧は流れていなかった。街灯が落とす丸い光の輪の中に人が立っていた。
「栄一!」
 伊坂栄一だった。
 駆け寄ったジュディスの両腕をつかんで「やっぱり、ここだったか! おい、心配させるなよ」と言った。言葉の荒々しさがジュディスの身を案じていた心情を伝えてくれる。
「どうして私がここにいると分かったの?」
「夢の中にガマ坊が出て来たんだ」
 それは児玉源太郎が上司につけたあだ名だった。「早く家に迎えに来いってさ」
 ジュディスが背後を振り返ると、そこには霧のわだかまりが残っていて、白い混沌の中に二つのシルエットが見えた。霧の中から声が聞こえた。
「お幸せに」
「わざわざ会いに来てくれてありがとう。お礼に二人の縁結びをさせてもらうことにしたよ」
「巌元帥」
 ジュディスがつぶやいた。
「またいつか会えるといいわね」
 声が霧の中で遠ざかってゆく。日本流のお辞儀をするジュディスにならって、栄一も霧に向かって頭を下げた。
 ジュディスはこの日、訪日の二つの目的を果たすことができた。
 オヤマカチャンリンというおまじないの言葉が彼女と故人を、そして故人が彼女と栄一を結びつけてくれた。
「オヤマカチャンリン」
 ジュディスは何度もおまじないの言葉を呟いていた。

 カーテンを引き忘れていたのか。室内に降り注ぐ朝陽のまぶしさでジュディスは目が覚めた。
 体内時計はまだ正常に復帰していなかったが、とりあえず目覚めのシャワーを浴びようとして彼女は自分が日本にいることを思い出した。隣に栄一が寝ている。
 イギリスにいればシャワーだが、日本にいるのだ。昨夜も勇をふるって人前で服を脱いだ。温泉に入るときと、隣で寝ている人の前で。
 慣れればどうってことないわ。栄一を起こさないようにそっとベッドから離れ、勇をふるって温泉に向かった。
 大きな浴槽に浸かるのは思っていた以上に寛げる。ジュディスは朝からスパに浸かり、昨日一日の出来事を思い返してつぶやいた。
「オヤマカチャンリン」

(了)


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ジュディスは二人との団欒を楽しんだ。日本に来て本当によかったと思った。
「ウォルター少佐は聡明な若者だった」
 往時を思い出すかのように、天井のペンダントライトを見やりながら老紳士は言った。
「洞察力もあった。ハミルトン中将は私のことを茫洋とした殿様みたいに思っていたようだが、ウォルター少佐は、私の中に彼にしか見えない何事かを見出したようだった」
「それで、あんなおかしなサインをされたのですか」
「ん?」ジュディスが何を言っているのか、わかない様子だったが、すぐに思い出したようにうなずいた。
「いや、あれは彼に望まれて書いたのです。『オヤマカチャンリン』のことですね」
「ええ、最初は東洋のおまじないか何かと思っていました」
 やはり、この人はすべてを自分で緻密にこなせる人なのだ、とジュディスは思った。婦人と、邸宅から見える山の高さをコサインで求めるかタンジェントで求めるかを言い合ったくらいなのだ。記憶力も抜群によかったのだろう。
「素晴らしい記憶力ですね」
「江川太郎左衛門先生の塾で砲術を学び、細かいことに気が向くようになりました。あれは風力や風向、天候を加味しながら計算しないといけないのです。ただ……」
 ジュディスは首をかしげて次の言葉を待った。しかし老紳士から出た言葉はシンプルだった。
「それ以前のことになると往時茫々です」
 昔のことを思い出せないと言った。
 いや、思い出したくないのだろう。
 ジュディスは老紳士の心情を理解し、深く頷いた。
「私はここを第二の故郷としました」
 この老紳士は、生まれ故郷を捨て、この西那須野に骨を埋めることにしたのだ。ジュディスは彼の苦衷を想像したが、それは自分にはとうてい立ち入ることのできない領域なのだろうと思った。この人は、田原坂、都城、延岡、鹿児島で、師と、友と戦ったあの日以来、故郷に帰ったことはなかったのだ。
 ジュディスの表情に自分への傷ましい想いが生まれたことに、気がついたらしく、老紳士は話題を元に戻した。
「お国のイギリスのおかげで、私も仕事を全うできました。いくら感謝してもしきれるものではありません」
 そう言われても、ジュディスに返答できる話題ではなかった。
「海軍はイギリスの支援で世界最高水準の艦艇を多く取り揃えられました。当時、進水した四十四隻、十九万四千四百七十三トンのうち、二十七隻十三万三千三百六十七トンがイギリス製でした。『三笠』以下の戦艦六隻すべてと装甲巡洋艦八隻のうち四隻がイギリス製の世界最高水準の新鋭艦だったのです」
(確かに細かいわね)
 ジュディスは先ほどの婦人の言葉を思い出して微笑した。
「英米での外債募集も、イギリスとの同盟がわが国の外債に信頼感を与えたのです。そして、海底ケーブルが世界中に敷設されたことによって戦況を新聞への第一報として紹介できました。ケーブル網を握っていたお国のマスコミ、ロイター通信やタイムズ、ノースチャイナ・ヘラルドが好意的に記事にしてくれたことが大きかったのです。戦費総額十八億二千六百三十万円の八十三%を公債・借入金で賄いました。これは一般会計支出の二倍というものです。十八億のうち四割近い六億八千九百六十万円を英米で売り出した公債を完売して得たのです」
 ジュディスは細かいといって笑った自分を恥じた。
 この人は軍人であると同時に国家の体力をも政治家のように常に気にかけていたのだ。あの時代、シビリアンコントロールは日本ではまだ生きていたはず。でも戦場の外にいる政治家や国民やマスコミ以上に、この人は、自分達の限界点をしっかりと見据えて戦場にいたのだ。
 やはり、すごい人だったのだ。
 ジュディスにとって濃密な時間はまたたくまに過ぎた。
 夜分の来訪を詫び、歓待への感謝を伝え、ジュディスは席を立った。
 玄関前のホールでジュディスは老紳士にハグをした。
 老紳士は驚いたようだった。
「イギリスの淑女に初対面でハグをされたのは初めてだ」
 傍らの婦人に嬉しそうに言った。
 ジュディスは婦人ともハグをした。
「おもてなし、ありがとうございます。一生忘れることはないでしょう。ミルクティも素晴らしかった」
「良い旅をね。神様の恩寵あらんことを」
 ドアを開けると、老紳士の横に立つ婦人が言った。
「イギリスの女性は礼儀正しいと聞きますけど、本命の人には積極的にアプローチするのでしょう?」
 笑みを浮かべる彼女の目が優しさを増している。
「どうでしょうか。私はまだ……」
「まだ?」
 いたずら好きの童女のような表情を浮かべて婦人はジュディスの顔を覗き込んだ。ジュディスの顔が熱を持った。
「きっとあの人も同じ想いですよ」
「本当?」
 思わず礼節を欠いた声を出してしまった。
「本当よ。さあ、後ろをごらんなさい」
 振り向いたジュディスの前に霧は流れていなかった。街灯が落とす丸い光の輪の中に人が立っていた。
「栄一!」
 伊坂栄一だった。
 駆け寄ったジュディスの両腕をつかんで「やっぱり、ここだったか! おい、心配させるなよ」と言った。言葉の荒々しさがジュディスの身を案じていた心情を伝えてくれる。
「どうして私がここにいると分かったの?」
「夢の中にガマ坊が出て来たんだ」
 それは児玉源太郎が上司につけたあだ名だった。「早く家に迎えに来いってさ」
 ジュディスが背後を振り返ると、そこには霧のわだかまりが残っていて、白い混沌の中に二つのシルエットが見えた。霧の中から声が聞こえた。
「お幸せに」
「わざわざ会いに来てくれてありがとう。お礼に二人の縁結びをさせてもらうことにしたよ」
「巌元帥」
 ジュディスがつぶやいた。
「またいつか会えるといいわね」
 声が霧の中で遠ざかってゆく。日本流のお辞儀をするジュディスにならって、栄一も霧に向かって頭を下げた。
 ジュディスはこの日、訪日の二つの目的を果たすことができた。
 オヤマカチャンリンというおまじないの言葉が彼女と故人を、そして故人が彼女と栄一を結びつけてくれた。
「オヤマカチャンリン」
 ジュディスは何度もおまじないの言葉を呟いていた。
 カーテンを引き忘れていたのか。室内に降り注ぐ朝陽のまぶしさでジュディスは目が覚めた。
 体内時計はまだ正常に復帰していなかったが、とりあえず目覚めのシャワーを浴びようとして彼女は自分が日本にいることを思い出した。隣に栄一が寝ている。
 イギリスにいればシャワーだが、日本にいるのだ。昨夜も勇をふるって人前で服を脱いだ。温泉に入るときと、隣で寝ている人の前で。
 慣れればどうってことないわ。栄一を起こさないようにそっとベッドから離れ、勇をふるって温泉に向かった。
 大きな浴槽に浸かるのは思っていた以上に寛げる。ジュディスは朝からスパに浸かり、昨日一日の出来事を思い返してつぶやいた。
「オヤマカチャンリン」
(了)