出会い
ー/ー
ホテルにチェックインし、人生初の温泉体験で、初めて人前で生まれたままの姿になるというカルチャーショックに気が動転したジュディスだった。しかし、ビッグチャレンジを終わらせ、なんとなく自分も日本文化にとけこんだような気がした。
夕食を栄一と済ませると彼女は自分の部屋に戻った。本当は栄一の部屋に行きたかったのだが、マナーにうるさいイギリス人の血がはしたない行為を慎ませてしまった。できれば栄一から声をかけて欲しかったのだけれど、どこかぎこちなく二人はそれぞれの部屋に戻った。
羽田についてから十五時間が過ぎている。
(まだ十五時間しかたっていないのか)
長い一日だった。
朝からの出来事や景色が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
興奮しているのだろうか、疲れてはいたが、なかなか寝付けない。
栄一も同じかしら。そう思うとからだのほてりを感じる。
頭を振って栄一を追い出し、昼間歩いた参道や墓所、記念館の光景を思い浮かべる。
夜のしじまの中で、それらはどのような表情を見せているのだろう。今日一日、初めての日本で感じた異国情緒をジュディスはかみしめた。ますます目が冴えてしまう。
(これは、ちょっと寝つかれないわね)
彼女は睡眠をあきらめた。
ベッドから起き上がり服を着た。静かに部屋を出る。フロントに鍵を預けて、何者かに誘われるかのように昼間訪れた大山墓所に足を向けた。
治安の良さが喧伝されているが、どれほど真実を伝えているのだろう。栄一にエスコートしてもらえばよかっただろうか。護衛役という言い訳で彼を呼び出したい葛藤はあったが、やっぱり、と自らを律した。
ホテルのドアを出ると、あたり一面を霧が覆っている。
白い混沌が彼女を包んだ。
ロンドンで霧は珍しくない。でもこの西那須野はどうなのだろうか。
ジュディスは霧が自分を迎えに来てくれているかのように感じた。それは非現実的な想像だったが、彼女はそう思う自分の心に素直に従った。
墓所のある方角はわかっていたし、町割りも複雑ではない。なにしろ一直線の道が多いのだ。
我ながら少し大胆だなと思いつつも、彼女の足は何かにせかされるように前へ前へと進んでゆく。
霧が流れている。
ホテルを離れてしばらくして後ろを振り返ると、ホテルの灯りは霧の中に溶けこんでいた。
街灯が幾つか、白い景色の中でたよりなく滲んでいる。
ジュディスは参道にたどりついた。
ここまですれ違う人影はなかった。
今、この時間、世界はジュディスだけに開かれているような気配に満ちていた。
玉砂利を踏み、杉木立の中を歩く。
二m先が見えないほど深い霧だった。
墓所の木の扉の前にたどりついた。
ジュディスはそこに人影を見つけた。ホテルを出てからはじめてのことだ。まるで自分を待っていたかのようだった。
人影は二つだった。
ドキッとして鼓動が大きく、早くなる。
「やあ、お嬢さん」
身なりのいい老紳士だった。その老紳士が霧の中、やっと顔を見分けられるほどの距離に近づいてきてジュディスに声をかけた。
ちょっとたどたどしい英語だった。
外套を着ている。ステッキをついていた。
「こんばんは」
ジュディスは日本語で挨拶を返した。
「日本語が話せますか。私は仏語は得意だが英語は少し苦手でしてな。家内は寝言が英語なほど得意なのですが」
老紳士は、かたわらの背の高い女性をかえりみた。彼女も老紳士と同様、自然な気品と美しさを見にまとっていた。
「こんばんは、お嬢さん。よくぞはるばる日本までおいでくださいました」
彼女の英語は明らかにアメリカ訛りだったが、現代的ではなく、やや古風な感じがした。
この二人は自分を待っていたのだと、ジュディスは思った。自分がこの地に来ることを知って、待っていてくれたのだ。
(神様、ありがとうございます)
杉木立に囲われた墓所前では、お互いの表情はわかりにくかった。
老紳士はジュディスを促して、モミジのある参道の方へゆっくりと向かった。
車道を横切るとき、街灯の心細い灯りが老紳士の横顔を照らした。いくつかのあばたが浮かんでいる。
ジュディスはその横顔を見て(やはり!)と思った。
これは現のことではない。自分は今、現と夢幻の境界に身を置いているのだ。
その気配に気づいたのか、老紳士はジュディスにむかって微笑みながら聞いた。
「どうしました?」
「いえ」
ジュディスは、喉元まで出かかった言葉をのみこんでかろうじて言った。
「あなたは、大山巌元帥にそっくりですね」
「よく言われます」
老紳士は楽しそうに笑って言った。
「英語はどこで?」
「ヨーロッパとアメリカに仕事で派遣されたことがありました。そのときに少し。その後、フランスに三年間留学してフランス後も少々話せます」
老紳士はそう言って、秘事をあかすように彼女に耳打ちした。
「外国語で話をしていると生国をしばし、忘れることができます。それがいい」
「どういうことですか?」
「私の訛りは日本の中でもかなり特有でしてね。でも外国語ならば、その訛りが出ないですむ。ああ、でも私の英語もひどい日本訛りなのでしょうな」
「そんなことありませんわ。美しい英語です」
ジュディスは、ほんのちょっとお世辞を言った。
「よろしかったら、我が家で少しくつろいでいきませんか」
老紳士はジュディスをさそった。
横に寄り添う美しい婦人も頷いた。
この申し出を断ることなど絶対にできない。
彼女は喜んで老紳士の家に招かれることにした。
「少し遅くなってしまったけれどもハイティーがわりということにしましょう」
婦人が言った。ハイティーとは、アフタヌーンティーよりも遅い、夕食を兼ねた喫茶習慣のことだ。
「ありがとうございます」
今日一日、ティーを飲んでいなかったことを思い出し、ジュディスは二人の気遣いに感謝した。
「でも、ご迷惑ではないでしょうか。こんな夜更けに」
「なに、もうすぐ家につきます。粗末なものですが、あなたおひとりぐらいなら歓待できます」
老紳士は言って、白い霧に包まれた邸宅に彼女を案内した。
霧のために方向感覚が失われていたが、ジュディスは、そこがどこだかわかっていた。
「さあ、どうぞ」
老紳士が邸宅の扉を開けた。
玄関から壁面までいろいろな手法で赤レンガが積み上げられている。豪奢ではないが丁寧な作りの邸宅だ。アーチ型の天井をくぐり、玄関に入ると、ホールの天井には星型の台座からペンダントライトが吊り下げられている。照度を上げるためか球形の電球が使われていた。柔らかい橙色の灯りが心地よい。老紳士がジュディスを招じ入れた。
廊下の先、左右に部屋があった。その一室に入ると、赤々と色づいたお洒落なストーブが据えられ、暖気を室内に提供している。まるで今宵、イギリスから訪れた淑女の訪れを待っていたかのように。すすめられるままにテーブルを囲む椅子のひとつ、老紳士の前にジュディスは座った。
少し遅れて婦人がティーセットを持ってきて、老紳士の隣に座った。
ジュディスはこれは夢ではないかと思った。
「茶葉は新鮮で上質ですよ。あなたはミルクインファースト?」
老婦人はジュディスに聞いた。
「はい」
「そのほうがまろやかで、あっさりと飲めるわね」
上品な婦人は、ティーポットで茶葉を蒸らしている間に大匙一杯の冷たいミルクをティーカップに注いだ。ティーポットに布製のカバーをかぶせて紅茶を保温し、茶葉をじっくりと蒸らし、熱い紅茶をティーカップに注ぐ。
遠来からの客は日本に来て初めて、本格的なティーを口にした。
香りも味も申し分ない。
「たいへん美味しいです」
「よかった。私はイギリスへ行ったことがなかったから、少し緊張しちゃったわ」
「留学経験はおありですよね」
ジュディスは記憶を呼び覚ましながら婦人に尋ねた。
「ええ、十二歳でアメリカに渡りました。それから十一年間、むこうですごしました」
「私は先妻を早くに失くしましてね。子供三人をかかえて途方に暮れていたところ、十三歳年下の彼女が私の求婚をうけてくれたのです」
「確か、英語劇に出演されていたのを見初められたとか……」
「そう、あれは『ベニスの商人』だったかな」
老紳士は嬉しそうに過去の馴れ初めを話した。
婦人も楽しそうに言った。
「元はといえば、この人は私の故郷の敵だったのよ。嫁いだときはいろいろ言われたわ」
ジュディスは二人の話を興味深げに聞いていた。
「なにしろ、この人、私がいたキャッスルに砲弾を撃ちこんでいたのですからね」
婦人は笑いながら言った。
「親はもう、大反対でした」
隣の老紳士を見つめながら婦人は続けた。
「なのに、この人は何度、断わられても諦めなかったの。とうとう親が根負けして、私の意思に委ねることになった。それで会うことにしました」
「お会いになってどうでした?」
「優しい人だと思いました。それに誠実な人。何よりもこの人は、飾らない人だとすぐにわかりました」
「それで、結婚された」
「あの頃は、家というものが私たちのすべてを縛る時代でした。惚れた腫れたなどということは、家という絶対的な価値基準の前ではまったくとるにたらないものとされていました。まず家があって、個はなきに等しい時代」
ジュディスは日本の文化に思いを馳せた。ハモンド家も家というものは大事にしているから婦人の話は理解できた。しかし、父はそうなったら、おそらく自分の意思を尊重してくれるはずだ。父にはいつ栄一のことが好きだと話をしよう。あ、お爺ちゃんもいた。こっちは難物だ。
思考が脇にそれてしまった。そうよ、おかしいじゃない。父より祖父よりも先に栄一の気持ちを確認しなけりゃいけないのに。
「十一年間もアメリカにいましたしね。アメリカの大学の卒業式では、総代のひとりとして日本が欧米と結んだ条約の不平等について非を鳴らしたくらい自己主張が強い性格でした。親を含めた親族すべてが私を持て余していたんじゃないかしら。親の反対を押し切ってプロポーズを受けることにしたけれど、もしかしたら親族一同ほっとしたのかもしれない」
老紳士は微笑みながら言った。
「彼女は先妻との間に作った三人の子らにも愛情を注いでくれました」
「この人も欧米に視察に行ったり、留学をしていましたから、当時としては『はねっかえり』だった私にとって、価値観を共有できる稀有な人でもあったのです。公費留学生だったので鹿鳴館に参加するのは義務みたいなものでしたが、この人がフランスから取り寄せてくれたヴァーガンディのビロードのドレスがとても気に入って、鹿鳴館に出ることもそれほど苦ではありませんでした」
「愛されていらっしゃったのですね」
「いいえ、この人が好きなのは第一に児玉さん、第二が私、第三がビーフステーキ」
既知の逸話だったが、まさかそれを生で当事者から聞けるとは思ってもいなかった。
「台湾から参謀次長に迎え、総参謀長として右腕となった児玉中将ですね」
「ええ、児玉さんの言うことならそれでいいとばかりに、いっつもめくら判」
婦人の言に老紳士は肯定も否定もしなかった。
「でも、本当は事前情報とか、判断材料はしっかりと持たれていたのでしょう? ちゃんとご自身の結論があって、報告を聞かれていたのではないのですか」
ジュディスは老紳士に尋ねた。
「児玉さんにはすべてを任せていました。でも児玉さんは、私にすべてを報告してくれました」
老紳士がジュディスの問いに直接答えることはなかった。
「私のことを本当によくお調べになられていますね。関心します」
「この人は本当はものすごく細かいのよ。慈善事業とかに私が関わっていると、やりくりした家計のズレを見つけて指摘するの。私が預かっていた倉庫の鍵をとりあげられたこともあるわ」
「一番辛かったのは、わかっていることも何もかも、知らないふりをしなければならないとおっしゃっていたそうですね。家では、そうではなかったんですか」
ジュディスの問いに老紳士は、今度は直接答えた。
「そりゃあ、家と仕事は別ですからね」
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夕食を栄一と済ませると彼女は自分の部屋に戻った。本当は栄一の部屋に行きたかったのだが、マナーにうるさいイギリス人の血がはしたない行為を慎ませてしまった。できれば栄一から声をかけて欲しかったのだけれど、どこかぎこちなく二人はそれぞれの部屋に戻った。
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栄一も同じかしら。そう思うとからだのほてりを感じる。
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夜のしじまの中で、それらはどのような表情を見せているのだろう。今日一日、初めての日本で感じた異国情緒をジュディスはかみしめた。ますます目が冴えてしまう。
(これは、ちょっと寝つかれないわね)
彼女は睡眠をあきらめた。
ベッドから起き上がり服を着た。静かに部屋を出る。フロントに鍵を預けて、何者かに誘われるかのように昼間訪れた大山墓所に足を向けた。
治安の良さが喧伝されているが、どれほど真実を伝えているのだろう。栄一にエスコートしてもらえばよかっただろうか。護衛役という言い訳で彼を呼び出したい葛藤はあったが、やっぱり、と自らを律した。
ホテルのドアを出ると、あたり一面を霧が覆っている。
白い混沌が彼女を包んだ。
ロンドンで霧は珍しくない。でもこの西那須野はどうなのだろうか。
ジュディスは霧が自分を迎えに来てくれているかのように感じた。それは非現実的な想像だったが、彼女はそう思う自分の心に素直に従った。
墓所のある方角はわかっていたし、町割りも複雑ではない。なにしろ一直線の道が多いのだ。
我ながら少し大胆だなと思いつつも、彼女の足は何かにせかされるように前へ前へと進んでゆく。
霧が流れている。
ホテルを離れてしばらくして後ろを振り返ると、ホテルの灯りは霧の中に溶けこんでいた。
街灯が幾つか、白い景色の中でたよりなく滲んでいる。
ジュディスは参道にたどりついた。
ここまですれ違う人影はなかった。
今、この時間、世界はジュディスだけに開かれているような気配に満ちていた。
玉砂利を踏み、杉木立の中を歩く。
二m先が見えないほど深い霧だった。
墓所の木の扉の前にたどりついた。
ジュディスはそこに人影を見つけた。ホテルを出てからはじめてのことだ。まるで自分を待っていたかのようだった。
人影は二つだった。
ドキッとして鼓動が大きく、早くなる。
「やあ、お嬢さん」
身なりのいい老紳士だった。その老紳士が霧の中、やっと顔を見分けられるほどの距離に近づいてきてジュディスに声をかけた。
ちょっとたどたどしい英語だった。
外套を着ている。ステッキをついていた。
「こんばんは」
ジュディスは日本語で挨拶を返した。
「日本語が話せますか。私は仏語は得意だが英語は少し苦手でしてな。家内は寝言が英語なほど得意なのですが」
老紳士は、かたわらの背の高い女性をかえりみた。彼女も老紳士と同様、自然な気品と美しさを見にまとっていた。
「こんばんは、お嬢さん。よくぞはるばる日本までおいでくださいました」
彼女の英語は明らかにアメリカ訛りだったが、現代的ではなく、やや古風な感じがした。
この二人は自分を待っていたのだと、ジュディスは思った。自分がこの地に来ることを知って、待っていてくれたのだ。
(神様、ありがとうございます)
杉木立に囲われた墓所前では、お互いの表情はわかりにくかった。
老紳士はジュディスを促して、モミジのある参道の方へゆっくりと向かった。
車道を横切るとき、街灯の心細い灯りが老紳士の横顔を照らした。いくつかのあばたが浮かんでいる。
ジュディスはその横顔を見て(やはり!)と思った。
これは現のことではない。自分は今、現と夢幻の境界に身を置いているのだ。
その気配に気づいたのか、老紳士はジュディスにむかって微笑みながら聞いた。
「どうしました?」
「いえ」
ジュディスは、喉元まで出かかった言葉をのみこんでかろうじて言った。
「あなたは、大山巌元帥にそっくりですね」
「よく言われます」
老紳士は楽しそうに笑って言った。
「英語はどこで?」
「ヨーロッパとアメリカに仕事で派遣されたことがありました。そのときに少し。その後、フランスに三年間留学してフランス後も少々話せます」
老紳士はそう言って、秘事をあかすように彼女に耳打ちした。
「外国語で話をしていると生国をしばし、忘れることができます。それがいい」
「どういうことですか?」
「私の訛りは日本の中でもかなり特有でしてね。でも外国語ならば、その訛りが出ないですむ。ああ、でも私の英語もひどい日本訛りなのでしょうな」
「そんなことありませんわ。美しい英語です」
ジュディスは、ほんのちょっとお世辞を言った。
「よろしかったら、我が家で少しくつろいでいきませんか」
老紳士はジュディスをさそった。
横に寄り添う美しい婦人も頷いた。
この申し出を断ることなど絶対にできない。
彼女は喜んで老紳士の家に招かれることにした。
「少し遅くなってしまったけれどもハイティーがわりということにしましょう」
婦人が言った。ハイティーとは、アフタヌーンティーよりも遅い、夕食を兼ねた喫茶習慣のことだ。
「ありがとうございます」
今日一日、ティーを飲んでいなかったことを思い出し、ジュディスは二人の気遣いに感謝した。
「でも、ご迷惑ではないでしょうか。こんな夜更けに」
「なに、もうすぐ家につきます。粗末なものですが、あなたおひとりぐらいなら歓待できます」
老紳士は言って、白い霧に包まれた邸宅に彼女を案内した。
霧のために方向感覚が失われていたが、ジュディスは、そこがどこだかわかっていた。
「さあ、どうぞ」
老紳士が邸宅の扉を開けた。
玄関から壁面までいろいろな手法で赤レンガが積み上げられている。豪奢ではないが丁寧な作りの邸宅だ。アーチ型の天井をくぐり、玄関に入ると、ホールの天井には星型の台座からペンダントライトが吊り下げられている。照度を上げるためか球形の電球が使われていた。柔らかい橙色の灯りが心地よい。老紳士がジュディスを招じ入れた。
廊下の先、左右に部屋があった。その一室に入ると、赤々と色づいたお洒落なストーブが据えられ、暖気を室内に提供している。まるで今宵、イギリスから訪れた淑女の訪れを待っていたかのように。すすめられるままにテーブルを囲む椅子のひとつ、老紳士の前にジュディスは座った。
少し遅れて婦人がティーセットを持ってきて、老紳士の隣に座った。
ジュディスはこれは夢ではないかと思った。
「茶葉は新鮮で上質ですよ。あなたはミルクインファースト?」
老婦人はジュディスに聞いた。
「はい」
「そのほうがまろやかで、あっさりと飲めるわね」
上品な婦人は、ティーポットで茶葉を蒸らしている間に大匙一杯の冷たいミルクをティーカップに注いだ。ティーポットに布製のカバーをかぶせて紅茶を保温し、茶葉をじっくりと蒸らし、熱い紅茶をティーカップに注ぐ。
遠来からの客は日本に来て初めて、本格的なティーを口にした。
香りも味も申し分ない。
「たいへん美味しいです」
「よかった。私はイギリスへ行ったことがなかったから、少し緊張しちゃったわ」
「留学経験はおありですよね」
ジュディスは記憶を呼び覚ましながら婦人に尋ねた。
「ええ、十二歳でアメリカに渡りました。それから十一年間、むこうですごしました」
「私は先妻を早くに失くしましてね。子供三人をかかえて途方に暮れていたところ、十三歳年下の彼女が私の求婚をうけてくれたのです」
「確か、英語劇に出演されていたのを見初められたとか……」
「そう、あれは『ベニスの商人』だったかな」
老紳士は嬉しそうに過去の馴れ初めを話した。
婦人も楽しそうに言った。
「元はといえば、この人は私の故郷の敵だったのよ。嫁いだときはいろいろ言われたわ」
ジュディスは二人の話を興味深げに聞いていた。
「なにしろ、この人、私がいたキャッスルに砲弾を撃ちこんでいたのですからね」
婦人は笑いながら言った。
「親はもう、大反対でした」
隣の老紳士を見つめながら婦人は続けた。
「なのに、この人は何度、断わられても諦めなかったの。とうとう親が根負けして、私の意思に委ねることになった。それで会うことにしました」
「お会いになってどうでした?」
「優しい人だと思いました。それに誠実な人。何よりもこの人は、飾らない人だとすぐにわかりました」
「それで、結婚された」
「あの頃は、家というものが私たちのすべてを縛る時代でした。惚れた腫れたなどということは、家という絶対的な価値基準の前ではまったくとるにたらないものとされていました。まず家があって、個はなきに等しい時代」
ジュディスは日本の文化に思いを馳せた。ハモンド家も家というものは大事にしているから婦人の話は理解できた。しかし、父はそうなったら、おそらく自分の意思を尊重してくれるはずだ。父にはいつ栄一のことが好きだと話をしよう。あ、お爺ちゃんもいた。こっちは難物だ。
思考が脇にそれてしまった。そうよ、おかしいじゃない。父より祖父よりも先に栄一の気持ちを確認しなけりゃいけないのに。
「十一年間もアメリカにいましたしね。アメリカの大学の卒業式では、総代のひとりとして日本が欧米と結んだ条約の不平等について非を鳴らしたくらい自己主張が強い性格でした。親を含めた親族すべてが私を持て余していたんじゃないかしら。親の反対を押し切ってプロポーズを受けることにしたけれど、もしかしたら親族一同ほっとしたのかもしれない」
老紳士は微笑みながら言った。
「彼女は先妻との間に作った三人の子らにも愛情を注いでくれました」
「この人も欧米に視察に行ったり、留学をしていましたから、当時としては『はねっかえり』だった私にとって、価値観を共有できる稀有な人でもあったのです。公費留学生だったので鹿鳴館に参加するのは義務みたいなものでしたが、この人がフランスから取り寄せてくれたヴァーガンディのビロードのドレスがとても気に入って、鹿鳴館に出ることもそれほど苦ではありませんでした」
「愛されていらっしゃったのですね」
「いいえ、この人が好きなのは第一に児玉さん、第二が私、第三がビーフステーキ」
既知の逸話だったが、まさかそれを生で当事者から聞けるとは思ってもいなかった。
「台湾から参謀次長に迎え、総参謀長として右腕となった児玉中将ですね」
「ええ、児玉さんの言うことならそれでいいとばかりに、いっつもめくら判」
婦人の言に老紳士は肯定も否定もしなかった。
「でも、本当は事前情報とか、判断材料はしっかりと持たれていたのでしょう? ちゃんとご自身の結論があって、報告を聞かれていたのではないのですか」
ジュディスは老紳士に尋ねた。
「児玉さんにはすべてを任せていました。でも児玉さんは、私にすべてを報告してくれました」
老紳士がジュディスの問いに直接答えることはなかった。
「私のことを本当によくお調べになられていますね。関心します」
「この人は本当はものすごく細かいのよ。慈善事業とかに私が関わっていると、やりくりした家計のズレを見つけて指摘するの。私が預かっていた倉庫の鍵をとりあげられたこともあるわ」
「一番辛かったのは、わかっていることも何もかも、知らないふりをしなければならないとおっしゃっていたそうですね。家では、そうではなかったんですか」
ジュディスの問いに老紳士は、今度は直接答えた。
「そりゃあ、家と仕事は別ですからね」